軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

完結後番外編十五 白い余白

名前の家には、一枚だけ何も縫われていない布が飾られている。

玄関の正面ではない。広間の奥、子どもたちが靴を脱ぎ、外套を掛け、お茶の匂いに気づいて少し足を速める、その途中の壁だ。白い布は小さな額に入れられ、下には何の説明もない。

訪れた人は、よく尋ねる。

「これは誰の名前ですか」

そのたびに、エレノアは答える。

「これから決める人のための余白です」

最初、子どもたちは不思議がった。

名前の家なのに、名前がない布を飾るのか。

けれど、長く暮らすうちに、その意味を少しずつ覚えていった。

すぐに名乗れない子がいる。

呼ばれたい音が分からない子がいる。

昔の名を嫌いきれず、新しい名を好きになりきれず、どちらの布にも針を刺せない子がいる。

そういう子に、エレノアは白い布を見せる。

「急がなくていい。ここには、まだ縫わない場所もあります」

ある日、王都から来た少女が、その布の前で立ち止まった。

少女は名を変えるか迷っていた。父の決めた名は嫌いではない。だが、父から受けた傷を思い出すと、その名を呼ばれるたびに息が詰まる。母の家名を使いたい。でも、父に似ている自分の顔を捨てられるわけではない。

彼女は言った。

「私は、どちらを選べば正しいんですか」

エレノアは答えた。

「今日、正しさを決めなくてもいいです」

「でも、書類には欄があります」

「書類には仮欄もあります。余白欄も作れます。必要なら、私が名簿局に説明します」

「そんな欄、あるんですか」

「なければ作るために、私たちはここにいます」

少女は白い布を見た。

「何も縫わないのは、逃げですか」

「いいえ。針を持つ日を、自分で決めるための準備です」

その少女は、その日は何も縫わなかった。

代わりに、白い布の横に置かれた小さな紙へ、鉛筆で仮の印を描いた。鳥とも葉ともつかない、不思議な形だった。

「名前じゃないけど」

「今はそれで十分です」

半年後、少女は戻ってきた。

母の家名を中名に足し、父の家名は記録欄へ残すことにしたという。鳥とも葉ともつかなかった印は、羽の形に整えられていた。

「白い布があったから、急がなくてよかった」

彼女はそう言った。

エレノアは、その言葉を日誌に残した。

白い布は、空白ではない。

まだ誰にも奪われていない場所。

まだ誰にも急かされていない時間。

名を守ることは、時に名を縫わないことでもある。

リネリアが王都分室に戻るとき、エレノアはその白い布の写しを一枚持たせた。

「困ったら、これを出しなさい」

「何も書いてない布を?」

「ええ。言葉より効くことがあります」

リネリアは布を受け取り、鞄にしまった。

王都で、彼女もまた同じことを言うだろう。

急がなくていい。

ここには、まだ縫わない場所もあります。

名前は大切だ。

だからこそ、今すぐ決めろと迫ってはいけない。

白い余白は、名前の家が守るもう一つの約束だった。