作品タイトル不明
第五十一話 春の小花
春が来た。
北境の春は、王都より遅い。雪がゆっくり溶け、地面がぬかるみ、屋根から落ちる水音が何日も続く。それでもある朝、名前の家の庭に小さな芽が出た。
リネリアが真っ先に見つけた。
「おかあさま! おとうさまのおはな!」
鉢の中から、細い緑が顔を出している。
ヴァルト家の白い小花の種。
冬の間、リネリアは鉢を窓辺に置き、水をやりすぎないようアンナに見守られながら世話をしてきた。芽が出るか分からないと言われていたので、喜びは大きかった。
「咲くかはまだ分からないわ」
「でも、でた」
「ええ。出たわね」
リネリアはその日、アルベルトへ手紙を書いた。
おとうさまへ。おはな、めがでました。リネリアより。
数日後、返事が届いた。
よく育てました。花が咲いたら、見せてください。
リネリアはその手紙を箱にしまい、毎朝鉢を見た。
結婚式は、その小花が最初の蕾をつけた日に行われた。
場所は領主館の礼拝室ではなく、名前の家の庭だった。豪華な式を望まなかったからだ。オルガ様、マリベル、アンナ、保護院の子どもたち、セシリアとミーナ、イザベル、中央名簿局長の代理、王妃殿下からの祝辞。アルベルトは出席しなかったが、リネリア宛てに白いリボンを送ってきた。
リネリアはそのリボンを、自分の髪ではなく小花の鉢に結んだ。
「おはなに」
それが娘の選択だった。
私は生成りのドレスを着た。
侯爵夫人時代の豪華なドレスではない。セシリアとアンナ、名前の家の子どもたちが少しずつ刺繍を足してくれたものだ。裾には小さな手、うさぎ、鈴、北風草がある。
テオドール様は濃紺の礼装だった。
彼の袖には、祖母の名札が補修されている。
式の前、リネリアが私の手を握った。
「おかあさま、エレノア・ハースト?」
「ええ」
「グランヴィルも?」
「今日から、エレノア・ハースト=グランヴィル」
「ながいね」
「長いわね」
「でも、おかあさま」
「ええ。お母さまよ」
娘は安心したように笑った。
誓いの言葉は、オルガ様が考えてくれた。
あなたの名を消さず、私の名を押しつけず、互いの帰る場所を守ります。
その一文を聞いたとき、私は涙をこらえきれなかった。
テオドール様は私の手を取り、静かに誓った。
「あなたの名を消さず、私の名を押しつけず、互いの帰る場所を守ります」
私も同じ言葉を返した。
「あなたの名を消さず、私の名を押しつけず、互いの帰る場所を守ります」
リネリアが隣で小さく言った。
「リネのも」
周囲から柔らかな笑いが起きた。
テオドール様はすぐに膝を折り、娘へ向き直った。
「リネリア様の名前も、守ります」
リネリアは満足そうにうなずいた。
「はい」
式の後、名前の家の庭で小さな宴が開かれた。
雪菓子ではなく、春の蜂蜜菓子。黒パンは人混みを嫌がって屋根の上から見ていた。ノルが何度も呼んだが降りてこない。
ミーナとリネリアは、小花の鉢を見ながら話していた。
「これ、ヴァルトのお花?」
「うん。でも、ここでさいたら、きたきょうのお花」
「名前、つける?」
リネリアは考えた。
「白いリネ花」
「自分の名前?」
「ちょっとだけ」
二人は笑った。
私はその会話を聞きながら、胸の中で静かに思った。
過去から届いた種も、新しい土地で芽を出せば、別の意味を持てる。
私たちも同じだ。