作品タイトル不明
第十四話 箱の中の声
テオドール様が戻ったのは、夜明け前だった。
私はほとんど眠れず、作業部屋の灯りをつけたまま待っていた。リネリアは隣室で眠っている。何度か目を覚ましたが、私の手を握るとまた眠った。
扉が控えめに叩かれた。
アンナが開けると、テオドール様が立っていた。外套の裾は泥で汚れ、頬には浅い傷がある。けれど彼の腕の中には、毛布に包まれた小さな女の子がいた。
「マイラです」
私は立ち上がった。
マイラは保護院の九歳の子だ。奉公候補の黒印がつけられていた一人。昨日の午後、文字教室のあとに姿が見えなくなったと職員が探していた。
「どうして」
「市場の店ではなく、東門外の倉庫にいました。木箱に入れられていた子どもは三人。マイラのほかに、別の村の男の子が二人です。全員保護しました」
私は毛布を開いた。
マイラの顔は青白く、唇が乾いている。手首には黒い紐が巻かれていた。名安めと呼ばれていた拘束紐だ。
「水を。アンナ、温かい布も」
「はい」
マリベルもすぐ駆けつけた。職員たちが静かに動く。夜明け前の保護院に、足音と布の擦れる音だけが響いた。
私はマイラの手首の紐を見た。
無理に切れば、名前の結び目が傷つく。まず、黒い術式を眠らせなければならない。
「マイラの好む呼び名は?」
マリベルが答える。
「マイラです。旧名マリアは嫌がります」
「では、マイラで呼び続けてください」
私は銀糸を針に通した。紐そのものではなく、手首の周囲の布に小さな保護円を縫う。声をかけながら糸を進める。
「マイラ。ここは保護院です。マイラの場所です。マイラ、聞こえますか」
マリベルも続けた。
「マイラ、おかえりなさい」
テオドール様は少し離れた場所で、濡れた外套を脱ぐことも忘れて見守っていた。
やがて、マイラのまぶたが震えた。
「……マリアじゃ、ない」
かすれた声だった。
「ええ。あなたはマイラよ」
「店の人が、マリアって。いい子は、返事しろって」
「返事しなくていい。ここではマイラと呼ぶわ」
マイラの目から涙がこぼれた。
その瞬間、黒い紐が少し緩んだ。私は隙を逃さず、結び目の裏に銀糸を通す。術式の芯をほどき、紐を手首から外した。
マイラは声を上げて泣き出した。
大人たちは誰も叱らなかった。マリベルが毛布ごと抱きしめ、アンナが温かい水を用意する。泣けるなら、戻ってきている。
私は手首に残った黒い跡を見た。
怒りで指先が震えた。
拘束紐は、子どもを静かに運ぶための道具だった。名前を別の呼び名へ上書きし、本人が抵抗する力を弱める。泣き叫ぶことも、助けを求めることもできなくする。
名前を守る術式と同じ技術で、こんなことができる。
その事実が、何より苦かった。
マイラが落ち着いたあと、テオドール様は私とマリベルを領主館へ呼んだ。
夜が明け、窓の外には薄い雪が舞っていた。春の雪は北境では珍しくないらしいが、王都育ちの私には季節が戻ったように見えた。
「店主と荷運びの男二人は拘束しました。カール名簿官との金銭記録も一部見つかった。だが、背後に王都の商会がいます」
「王都の商会?」
「孤児や家名のない子を奉公人として集め、名を固定して各地へ売る組織です。北境だけではないかもしれない」
マリベルが険しい顔で言った。
「保護院の名簿が狙われた理由は」
「子どもの身元が弱いからでしょう。親族調査中の子なら、名前を少し変えても気づかれにくい」
テオドール様は机に拳を置いた。
「私の領で、子どもの名が売られた。これは領主として見逃せない」
私は黒い紐を布に包んで置いた。
「拘束紐の術式は、古い貴族家の名綴りから派生しています。単なる商人では作れません。誰か名綴りに詳しい者が関わっています」
「王都の名簿局か」
「可能性はあります。ただ、証拠が必要です」
テオドール様は私を見た。
「エレノア様。あなたに危険が及ぶかもしれません」
「もう及んでいます」
私は静かに答えた。
「娘の名前を奪おうとした夫から逃げてきたら、今度は他の子どもの名前が売られていました。私が関わらなければ安全でいられる、という段階は過ぎています」
「リネリア様は」
「娘を危険に近づけるつもりはありません。ですが、娘に、名前を売る大人を見て見ぬふりする母親の背中も見せたくありません」
言ってから、自分でも驚いた。
私は強くなったのではない。怖さはある。アルベルトからの手紙を見るたびに胃が重くなるし、リネリアが夜中に「リネ、いる?」と確認すると胸が痛む。
それでも、逃げるだけでは終われない。
リネリアの名前を守るために屋敷を出た。その先で、同じように名を奪われる子どもがいるなら、私は針を持つ。
テオドール様はしばらく私を見ていた。
「分かりました。ただし、あなたを前線に置くことはしません。証拠分析と子どもの保護が中心です。捜査は私と領兵が担う」
「承知しました」
「それから、これを」
彼は小さな箱を差し出した。中には、北境の名綴り師に与えられる職務章が入っていた。銀の針と雪紋を組み合わせた簡素な徽章だ。
「本来なら月末の会議で正式に渡す予定でしたが、今必要です。これがあれば、領内の名簿所や工房で職務上の確認を求められます」
私は徽章を手に取った。
軽い。
けれど、その軽さの中に責任がある。
「お預かりします」
「預かるのではなく、あなたのものです」
その言葉に、私は胸の奥が少し震えた。
誰かの妻としての印ではない。
名綴り師エレノアとしての印。
その日の夕方、リネリアは私の胸元の徽章に気づいた。
「おかあさま、きらきら」
「お仕事の印よ」
「リネのうさぎと、なかま?」
「そうね。お母さまの印」
リネリアは徽章にそっと指で触れた。
「おかあさま、かっこいい」
私は笑って娘を抱きしめた。
その夜、マイラは眠る前に、自分から名呼びを頼んだ。
「もう一回、呼んで」
マリベルが優しく答える。
「マイラ」
「はい」
マイラは涙を拭き、もう一度言った。
「はい。わたし、マイラ」
その返事を聞きながら、私は胸元の職務章を握った。
名前を売る店は一つ潰れた。
けれど、黒いインクの源はまだ見つかっていない。