軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一話 娘の名前を譲れと言われました

「エレノア。リネリアの名前を、ミーナに譲ってやってくれ」

夫のアルベルト・ヴァルト侯爵は、朝食後の居間でそう言った。

あまりに自然な声だったので、最初は言葉の意味が分からなかった。砂糖をもう一杯足してくれ、と頼むような調子だった。

窓の外では、春先の薄い光が庭の白い小花を照らしている。暖炉のそばでは、四歳になる娘のリネリアが、小さな机に向かって石板に文字を書いていた。

リ、ネ。

まだ少し丸い文字だ。最後の線が曲がっているけれど、本人は真剣そのものだった。私はその横で、娘の外套に新しい名札を縫いつけていた。

リネリア・ヴァルト。

金糸で一針ずつ名前を綴る。子どもの外套には必ず名前を入れること。それはこの国ではただの習慣ではない。

名は、その子を守るための目印だ。

「……どの名前を、ですか?」

聞き返した私を、アルベルトは面倒そうに見た。

「だから、リネリアだ。ヴァルト家の長女に与えられる洗礼名だろう。セシリアの娘を我が家の養女にするなら、その名が必要になる」

彼の隣には、淡い栗色の髪の女性が座っていた。

セシリア・ローウェル。

アルベルトの幼馴染で、数年前に夫を亡くした男爵夫人だ。病弱で、儚げで、昔からアルベルトが何かと気にかけてきた人でもある。

その膝のそばには、六歳くらいの女の子が立っていた。名前はミーナだと、先ほど紹介されたばかりだ。細い腕で人形を抱き、知らない屋敷に連れてこられた不安からか、母親のスカートを握っている。

ミーナに罪はない。

けれど、娘の名前を譲れという話は、別だ。

「ミーナ様には、もうお名前があります」

「ミーナなど、田舎の祖母がつけた愛称のようなものだと聞いた。侯爵家の令嬢として社交に出すには弱い」

アルベルトは悪びれずに言った。

「リネリアは良い名だ。響きも清らかで、古い家格にも合う。聖女の血を引くセシリアの娘にこそふさわしい」

針を持つ指が止まった。

リネリアが石板から顔を上げる。

「おとうさま、リネのおなまえ?」

小さな声だった。

アルベルトは、娘を見た。けれど、その目に父親らしい柔らかさはなかった。

「お前には、別の名前をつける」

「べつの?」

「ああ。短くて呼びやすいものがいいだろう。お前は体が弱くて、社交にも出られない。リネリアという名を持っていても、使い道がない」

居間の空気が、すっと冷えた。

リネリアは石板を胸に抱いた。まだ幼いので、すべてを理解したわけではないと思う。それでも、自分の大事なものを取られようとしていることだけは分かったのだろう。

私の膝に、そっと寄ってくる。

「おかあさま。リネ、リネじゃなくなるの?」

私は娘の肩を抱いた。

「ならないわ」

即答すると、アルベルトの眉が動いた。

「エレノア。子どもの前で意地を張るな」

「意地ではありません」

「たかが名前だろう」

たかが。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。

この国で、名前はただの呼び名ではない。生まれた子は、洗礼の日に家籍へ名を登録される。その名は薬箱の封印を開き、部屋の守りを結び、迷子になったときの道標になる。家の魔法が古いほど、名前との結びつきは強い。

特にヴァルト家の長女名であるリネリアには、代々の保護術が重ねられている。娘が夜中に熱を出したとき、薬箱が開くのも、療養室の暖炉が弱く燃え続けるのも、私が縫った名札と家の守りがつながっているからだ。

名を抜かれた子には、新しい名の守りを一から結び直さなければならない。

大人なら耐えられるかもしれない。けれど、リネリアはまだ四歳で、冬の熱が残ったばかりだ。

「名前を替えるなら、準備が必要です。新しい洗礼、薬箱の再登録、部屋の守りの移し替え、衣類と食器の名札もすべて縫い直さなければなりません」

「君はいつも細かい」

「子どものことですから」

「だから任せると言っている。君は名綴りが得意だろう。ミーナをリネリアとして整え、お前の娘には別の名を与えればいい」

セシリアが、困ったように目を伏せた。

「エレノア様、ごめんなさい。わたしが弱いから、アルベルト様が心配してくださって……。でもミーナも、これからきちんとした名前が必要なんです。あの子には、幸せになってほしくて」

彼女の言葉は柔らかい。

けれど、その柔らかさは、娘の名前を押しつぶしている。

「ミーナ様を幸せにしたいなら、ミーナ様の名前を大事になさってください」

私がそう言うと、セシリアは傷ついたように唇を震わせた。

アルベルトが立ち上がる。

「エレノア。セシリアを責めるな」

「責めていません」

「責めているだろう。君は昔からそうだ。針仕事と子どもの世話だけは丁寧だが、心が狭い。侯爵夫人なら、家にとって何が必要かを考えるべきだ」

家にとって。

その言葉は、何度も聞いてきた。

家にとって必要だから、私は夫に愛されなくても笑顔で夜会に立った。家にとって必要だから、夫がセシリアへ贈り物をしても見ないふりをした。家にとって必要だから、娘の熱が下がった翌朝にも、帳簿と客人名簿を整えた。

でも、娘の名前を差し出すことは、家のためではない。

それは、リネリアをこの家から消すことだ。

「おかあさま」

リネリアが私の袖を握った。

小さな指が、震えている。

その震えを見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

白い蛍光灯。小さな上履き。色とりどりの名札。洗濯で薄くなった布に、油性ペンで子どもの名前を書く手。

前世の記憶が、一気に戻ってきた。

私はかつて、日本で保育士をしていた。

園児の靴にも、タオルにも、弁当箱にも、必ず名前を書いた。小さな子どもは、自分のものをすぐなくす。けれど、名前があれば戻ってくる。名前を呼べば、子どもは振り向く。名前は、その子がそこにいると大人が確認するための、いちばん最初の約束だった。

そして私は、この世界を知っていた。

前世で読んだ小説の中で、侯爵夫人エレノアは夫に従い、娘リネリアの名を幼馴染の娘へ譲る。リネリアは別の名を与えられるが、誰もその名をきちんと呼ばない。薬箱は開かず、部屋の守りは弱まり、古い家籍から外れた娘は、物語の隅で少しずつ存在を薄くしていく。

最後にリネリアが消えたとき、夫は泣いた。

妻を本当は愛していたと気づき、後悔し、そこから溺愛が始まる。前世の私は、そういう物語として読んだのだと思う。

けれど今、腕の中には娘がいる。

石板を抱きしめて、自分の名前を奪われないか怯えている。

この子が消えた後に始まる愛など、何の価値もない。

「アルベルト様」

私は針を針山に戻した。

「リネリアの名前は譲れません」

「まだ言うのか」

「ミーナ様を養女にすることにも反対はしません。ですが、その子からミーナという名前を奪うことにも、私の娘からリネリアという名前を奪うことにも、私は同意しません」

「君の同意がなくても、父親である私には権限がある」

「名綴り布は、母親の手元にあります」

私は縫いかけの外套を抱き寄せた。

アルベルトの顔が、わずかに強張る。

この国では、幼い子の名前を完全に移すには、家長の印だけでは足りない。洗礼の名を最初に布へ綴った者の承認が必要になる。ヴァルト家では、それを女の針仕事と軽んじてきた。

その軽んじたものが、娘の命綱だった。

「君は、私を脅すつもりか」

「いいえ。娘を守るつもりです」

「母親なら、家のために我慢しろ」

私はリネリアを抱き上げた。

四歳にしては軽い体が、腕の中でぎゅっと固くなる。耳元で、娘が小さく自分の名前をつぶやいた。

「リネリア」

私はその名を、同じように返した。

「ええ。リネリア。あなたの名前よ」

アルベルトが苛立ったように息を吐く。

「話にならない。午後に名簿官を呼ぶ。それまでに考え直せ」

「分かりました」

私がうなずくと、彼の表情が少しだけ緩んだ。

いつものように、私が折れると思ったのだろう。

セシリアも、ほっとしたようにミーナの肩へ手を置いた。

私はリネリアを抱いたまま、二人を見た。

「では、離縁しましょう」

居間が静まり返った。

アルベルトは、私の言葉を聞き間違えたような顔をした。

「……何だと?」

「私はリネリアを連れて、この屋敷を出ます。侯爵夫人の名も、妻の席も、お返しします」

「エレノア」

「ですが、娘の名前は返しません」

リネリアが、私の首にしがみついた。

その温かさだけで、答えは十分だった。

「リネリアの名前も、命も、あなたには譲りません」