作品タイトル不明
第22話 突然の来訪
結婚式の準備が始まってから、一週間ほどが経った。
屋敷の中は少しずつ忙しくなっている。
式で使う花の相談。
料理の確認。
招待客の調整。
辺境伯領の方々も、思っていた以上に楽しみにしてくれているらしく、町でも少しずつその話題が出ているそうだ。
私は相変わらず畑を見て回りながら、空いた時間に式の準備を進めていた。
正直、まだ実感は少し薄い。
けれど、時々思い出す。
『だから、俺と結婚してくれ、ミレイユ』
あの時のカイン様の声。
真っ直ぐで、優しくて。
思い出すだけで、今でも胸が熱くなる。
その日の夕食も、いつものようにカイン様と二人だった。
最近はもう、それが当たり前になっている。
今日の畑のこと。
新しい香草のこと。
そんな話をしていた時だった。
「ミレイユ」
カイン様が、食後のお茶を飲みながら静かに私の名を呼んだ。
「はい?」
「……ルーヴェル家から手紙が来た」
その瞬間、私の手が少し止まった。
ルーヴェル家。
実家の名前を聞くのは、久しぶりだった。
カイン様は表情を変えないまま、一通の封筒を差し出してくる。
「読むか?」
「……はい」
私はそっと受け取った。
封を切って中を見る。
そして、数行読んだところで、私は思わず遠い目になった。
「……」
「どうした」
「いえ……」
私は小さく息を吐く。
「なんというか……変わっていないな、と」
「内容は?」
「戻ってこい、ですね」
しかも、かなり上から目線だった。
『お前が戻れば商会も立て直せる』
『辺境での役目は十分果たした』
『家族としてまだ迎え入れてやる』
まるで、私が戻りたくて仕方ないと思っているみたいな書き方だった。
思わず、げんなりしてしまう。
「……まだ命令するつもりなんですね」
私が呟くと、カイン様の眉が少しだけ寄った。
「返事は必要ない」
低い声だった。
「君はもう、グレイハルト辺境伯家の者だ。戻る必要はない」
「はい。もちろん、戻りません」
私はすぐに頷いた。
迷いはなかった。
もう私はこの場所で生きていくと、もう決めている。
「ありがとうございます、カイン様」
私がそう言うと、カイン様は静かに頷いた。
「ああ」
それ以上、彼は何も言わなかった。
けれど、その声音だけで十分だった。
大丈夫だと。
ここにいていいのだと。
そう言われている気がした。
私は少しだけ肩の力を抜き、再び温かいお茶に口をつけた。
――それから数日後。
私は辺境伯家の執務室で、町や村から届いた報告書を確認していた。
春が近づき、各地で新しい種植えも始まっている。
雪が解けたことで土の状態も少しずつ変わり始めていて、冬の間とはまた違う管理が必要になってきていた。
食魔植物も、今のところ大きな問題はない。
むしろ、領民の方々のほうが慣れてきたらしく、最近では「朝起きたらまた食べてましたよ」と、少し諦めたような顔で報告されることも増えてきた。
可愛いと思うのは、やっぱり私だけみたいだけれど。
「この村には、根張草も一緒に送りましょうか……」
私は報告書を見ながら、小さく呟いた。
南側の村は少し土が乾きやすい。
保水性を高める植物も混ぜたほうがいいかもしれない。
そう考えていた時だった。
扉が、こんこん、と軽く叩かれる。
「ミレイユ様」
「はい?」
入ってきたのは、使用人の一人だった。
けれど、その表情が少し困っている。
何か言いづらそうにしていて、私は自然と手を止めた。
「どうしました?」
「その……来客が」
「来客?」
「ルーヴェル伯爵家の皆様と、ダニエル・ベルフォード様がいらっしゃっています」
「……え?」
私は思わず瞬きをした。
一瞬、言葉の意味を理解するのが遅れた。
来た?
ここまで?
わざわざ辺境伯領まで?
「まさか、本当に来るなんて……」
思わず、そう呟いていた。
以前の私なら、その名前を聞いただけで緊張していたかもしれない。
怒鳴られるのではないか、責められるのではないかと身構えていたかもしれない。
でも今は、不思議と怖さはなかった。
ただ、少しだけ疲れるな、と思った。
きっと何も変わっていないのだろう、あの人達は。
「お通ししますか?」
使用人の方が確認するように尋ねてくる。
私は少しだけ息を吐いた。
「……わかりました。通してください。私も行きます」
「かしこまりました」
使用人が頭を下げて出ていく。
私は机の上の書類を閉じた。
胸の奥が少しだけざわついている。
昔の自分を思い出すような、少し落ち着かない感覚だった。
私はゆっくり立ち上がり、そのまま応接室へ向かった。
応接室の前に立つ。
一度、小さく息を吸う。
そして、扉を開けた。
「失礼します」
中にいたのは、父、母、モニカお姉様、そしてダニエル様だった。
久しぶりに見る顔。
けれど、以前とはかなり違って見えた。
父は目の下に濃い隈ができていて、顔色も悪い。
母も頬が痩せ、以前のような華やかさはなかった。
モニカお姉様だけは以前と同じように綺麗に装っていたけれど、どこか余裕がない。
扇を握る指先が落ち着かず、小さく揺れていた。
そしてダニエル様は――私を見ると、少しだけ複雑そうな顔をした。
「ミレイユ!」
父がすぐに声を上げる。
「遅いぞ!」
その言葉に、私はほんの少しだけ懐かしさを覚えてしまった。
ああ、本当に変わっていない。
久しぶりに会っても、最初に出る言葉はそれなのだ。
私は静かに一礼する。
「……ご用件は何でしょうか」
そう尋ねると、父は当然のように言った。
「戻る準備をしろ」
まるで、私が戻って当然だと言うように。
「お前はルーヴェル家の娘だ。辺境で遊ぶのももう十分だろう」
遊ぶ。
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
私はこの四カ月、毎日土に触れてきた。
朝から晩まで植物のことを考えて、領民の方々と話して、畑を回って、食魔植物を育ててきた。
冬を越えるために。
領民の方々が安心して春を迎えられるように。
そうやって過ごしてきた時間を、この人達は「遊び」と言うのだ。
でも、不思議と怒りは湧かなかった。
ただ、少しだけ思った。
やっぱり、この人達は見たいものしか見ないのだな、と。
「商会も立て直さなければならん。温室の管理も必要だ。お前が戻ればすぐに――」
「戻りません」
私は静かに言った。
父の言葉が止まる。
「……何だと?」
「私は戻りません」
もう一度、はっきりと言う。
「私はもう、グレイハルト辺境伯領で生きていくと決めましたから」
その瞬間、部屋の空気がぴりっと張った。
父の顔がみるみる赤くなる。
「何を馬鹿なことを言っている!」
怒鳴り声が響いた。
「お前はルーヴェル家の娘だぞ!」
「そうよ!」
母も慌てたように口を開く。
「ミレイユ、辺境で苦労して疲れているのでしょう? だからそんな意地を張って――」
「苦労、ですか?」
私は小さく首を傾げた。
「もちろん、大変なことはあります。でも、とても楽しいです」
「……は?」
モニカお姉様が顔を歪める。
「楽しい? こんな辺境が?」
私は静かに頷いた。
「はい。植物を自由に育てられますし、領民の方々も優しいです。カイン様も、いつも支えてくださいます」
その名前を出した瞬間、モニカお姉様の顔がさらに歪んだ。
「何を言っているの……? 本気でこんなところに残るつもりなの?」
「はい」
「信じられないわ!」
モニカお姉様が立ち上がる。
「あんな魔物だらけの場所より、ルーヴェル家に戻ったほうがいいに決まってるでしょう!?」
私はその言葉を聞きながら、少しだけ瞬きをした。
そして、静かに尋ねる。
「……ここに来るまで、荒れ地でしたか?」
「え……?」
「領都の畑、見ましたよね?」
私は続ける。
「小麦も育っていますし、冬野菜も収穫できています。食魔植物のお陰で魔物被害も減っていますし、新しい商品作りも進んでいます」
「それは……」
モニカお姉様が言葉に詰まった。
父も、母も黙る。
認めたくないのだろう。
この辺境伯領が変わったことを。
以前とは違う土地になっていることを。
でも、現実は変わっている。
領民の方々は笑うようになった。
冬を越えられるか怯えるだけだった土地で、春に何を植えるかを話せるようになった。
私は、その光景を毎日見てきた。
「私は、この場所が好きです」
自然と、そう口にしていた。
「この土地で植物を育てるのが好きなんです」
「ミレイユ!」
父が机を叩く。
「誰のおかげでここまで育ててもらったと思っている!」
その言葉に、私は静かに父を見た。
昔なら、黙っていたかもしれない。
でも今は、違う。
「私は、ここで生きていきます」
淡々と。
けれど、はっきりと。
「グレイハルト辺境伯領で、植物を育てて生きていきたいんです」
「お前――!」
父が怒鳴ろうとした、その時だった。
「随分と騒がしいな」
低い声が、部屋に響いた。
振り返ると、そこにはカイン様が立っていた。