軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

93 王位継承権者たち (2)イルバラ王女

厩舎の外、王族の住居の方から、ものすごい爆発音が聞こえてきた。

どのくらいすごい音かというと、その場にいた者全員が耳を押さえてうずくまったくらいだ。……当然、俺も不意打ちの爆発に耳がキーンとなってしまった。これはたぶん、住居の方に続く城の回廊が音をよく響かせるせいで、爆発音が増幅されてるんだな。

……って、呑気に分析してる場合じゃない!

俺は勢いよく立ち上がり、爆発のもとへと向かおうと――したところで、後ろから腕をつかまれつんのめった。

「待て、エドガー。大丈夫だ」

片手で耳を押さえながら、もう片方の手で俺の腕を掴んだベルハルト兄さんがそう言った。

「イルバラの奴、またやりやがったな!?」

イルフリード王子がそう怒鳴って、爆発の方へと駆け出した。

その場にいた一同も、なんとなく王子の後に続く。

「イルバラっ! 無事か!?」

イルフリード王子がそう叫んだのは、吹っ飛んだ扉の前でだった。

「ケホケホッ……だ、大丈夫です……兄上」

ドレス姿の若い女性が、扉の中から咳き込みながら這い出してきた。

高価そうなドレスが煤だらけだ。いや、それだけじゃない。あれは――

「け、血痕……?」

ドレスの上にかけた場違い極まりない作業用のエプロンに、べったりと血が染みついていた。

「ひ、姫様!」

俺たちの背後から、メイドがあわてて飛び出してきた。

メイドは「姫様」――煤だらけの女性に近づくと、ハンカチやらブラシやらを使って煤を払っていく。

舞い散る煤に、一行の誰かが咳き込んだ。

メイドが振り返って、何度も頭を下げながら言う。

「申し訳ありません! 姫様はお召し替えを致しますので、殿方の皆様はいったん部屋をご退出いただけますか?」

「あ、ああ……。みな、すまないが部屋を出よう」

イルフリード王子があっけにとられながら一同に退出を促した。

やがて他のメイドがすっ飛んできて、俺たちを別の部屋へと案内する。

イルフリード王子、イーレンス王子、俺、デヴィッド兄さんの4人は、案内された応接室で思い思いにテーブルにつく。なお、ベルハルト兄さんだけは、定時哨戒の準備をすると言って、竜騎士団の厩舎へと戻っている。

「……まったく、イルバラには困ったものだ」

イルフリード王子がそうこぼす。

「毎度毎度人騒がせではありますね」

イーレンス王子も肩をすくめながらイルフリード王子に同意した。

「あの……お怪我はなかったのでしょうか? 血がついてましたけど」

俺はおずおずとそう聞いてみる。

ちょっとした怪我なら【治癒魔法】で治せるから、他に人手がなければ手伝うつもりだ。

もっともここは王城だから、【治癒魔法】の使い手くらいはいるだろうが。

「ああ、大丈夫だろう。毎度派手に爆発させるが、本人は不思議と怪我をしないんだ」

「もともと【呪術】は瞬間的に大きな出力を出せる魔法じゃないですからね。爆発といっても、《ファイヤーボール》が炸裂するのとはわけが違うんですよ」

2人の王子が口々にそう言った。

俺は、イーレンス王子の言ったことに興味が湧いた。

「……【呪術】、ですか」

「おや、興味があるのかい? それなら、後で本人に聞いてみるといい」

イーレンス王子がそう言ったところで、応接室の扉がノックされた。

「――姫様をお連れしました」

扉の向こうから聞こえた声に、イルフリード王子が「入れ」と応じる。

開いた扉から現れたのは、 二十歳(はたち) くらいのドレス姿の女性だった。

ブリュネットの髪にスミレ色のドレスがよく似合う、儚げな雰囲気の美人だ。やや陰気な顔立ちではあるが、見る人によってはそこが魅力的に映ることもあるだろう。

……さっき煤まみれになっていたのと同一人物とはとても思えないな。

「……先ほどはお見苦しいところをお見せ致しました……」

女性――イルバラ姫は目を伏せたままおどおどと囁くような声でそう言った。

声自体は綺麗なのに、喋り方でかなり損をしているように思う。

「構わんよ。……と言いたいところだが、客人を案内しているところだったのだ、ちゃんと詫びておけ」

「……ご客人、ですか? ……あら……?」

イルフリード王子の言葉で、イルバラ姫は初めて気づいたようにデヴィッド兄さんと俺を見る。

「……デヴィッドさん?」

「ごきげんよう、イルバラ姫」

姫は兄さんのことを知ってたみたいだな。

デヴィッド兄さんは如才なくイルバラ姫に礼をしてみせた。

「おや、デヴィッドは姉さんと面識があったのかい?」

俺と同じことを思ったらしいイーレンス王子がそう聞いた。

「ええ。司書の仕事で、調べ物のお手伝いをさせていただいたことがあります」

「……その節は、どうもお世話になりました……」

「いえ、私としても、姫のご見識に触れられて、有意義な時間を過ごさせていただきました」

「……私なんて、デヴィッドさんに比べたら……」

イルバラ姫は照れたらしく、俯けた顔をさらに俯けてしまった。

「……ここでお見かけするとは……珍しいですね……。ひょっとして私に御用ですか……?」

「いえ、残念ながら。今日はイーレンス殿下を訪ねて参りました」

「残念で悪かったね、デヴィッド」

イルバラ姫に答えたデヴィッド兄さんに、イーレンス王子がからかうように言う。

「とんでもありません。名誉な任務をいただいたと思っておりますよ」

「すまない、親父のことだから、かなり強引に迫ったんじゃないか?」

イーレンス王子は、デヴィッド兄さんに対してかなり気安く接してるな。

そういえば、病床にあった王子と図書館の本についてやりとりがあったと言っていたっけ。

デヴィッド兄さんの方は、相手が王子だということもあって、礼を失しない対応を心がけているようだ。その点は、イルフリード王子とベルハルト兄さんの関係とはちょっと違うところか。

「そんなことは……。 切り裂き魔(リッパー) の動向については、私やエドガーも気になってはおりましたから」

「……リッパー、ですか……?」

イルバラ姫が、デヴィッド兄さんの言葉を拾った。

「この度、イーレンス王子を補佐する形で、 切り裂き魔(リッパー) の捜査に当たることになりまして」

「そうなのですか……ところで、そのぅ……リッパー、というのは……?」

「えっ」

珍しいことにデヴィッド兄さんが素で驚いているが、俺も人のことは言えない。兄さんと同じタイミングで「えっ」と言ってしまったからな。

そして、驚いているのはイルフリード、イーレンス両王子も一緒だった。

「お、おい、イルバラ……まさかとは思うが、おまえ、 切り裂き魔(リッパー) の噂を知らないのか!?」

イルフリード王子が口をわなわなと震わせながら言った。

「……な、何かまずかったでしょうか……」

「まずいかと言われれば、おまえにはあまり関係のない話かもしれないが……」

「……さすがに、これだけ話題になってる 切り裂き魔(リッパー) のことを知らないっていうのはどうかと思うよ、姉さん」

皆の反応に戸惑うイルバラ姫に、両王子がつっこみを入れた。

結局、デヴィッド兄さんが改めて 切り裂き魔(リッパー) 事件についてと、イーレンス王子が事件の捜査を指揮することになった経緯をイルバラ姫に説明する。

「……そんなことになっていたのですか……すみません、ずっと研究室にこもりきりだったもので……」

イルバラ姫が申し訳なさそうに言った。

イーレンス王子がため息をつきながら言う。

「まったく……姉さんにかかっては、僕の一大決心も型なしだね。これで【呪術】の研究では第一人者なんだから、魔法の研究でも敵いやしない。

そうだ、そこにいるエドガー君が、姉さんの研究に興味があるみたいだよ?」

「……えっ、本当ですか……?」

「え、あ、はい。【呪術】を研究しているとお聞きしました」

いきなり話がこっちに飛んできて、ややうろたえながら俺はそう答えた。

「姉さんも王族だから、彼が転生者であることは親父から聞いてるだろ?」

「……はい。とても……興味深いです……」

イルバラ姫が、俺のことを熱いまなざしでじっと見つめてくる。

「い、いや、俺の世界には魔法がなかったもので。イルバラ姫のご参考にはあまりならないかもしれません」

「……それでも、違う世界を知っているというのは大きいです……この世界の固定観念にとらわれないということですから……」

何だか、デヴィッド兄さんみたいなことを言うな。

イルバラ姫がそう言ったところで、応接室がノックされ、ベルハルト兄さんが顔をのぞかせた。

「王子、そろそろお時間です」

「ああ、もうそんな時間か。……すまんな、これから定期哨戒があるから俺はここで抜けさせてもらうわ。デヴィッド、イーレンスをよろしく頼むぞ」

「はっ。かしこまりました」

イルフリード王子は椅子に腰かけたデヴィッド兄さんの肩を叩いて、ベルハルト兄さんと一緒に応接室から出て行った。

その様子を、イーレンス王子がそっとため息をつきながら見送っている。やっぱり苦手意識があるみたいだな。

が、イーレンス王子はそれを引きずらず、イルバラ姫に向かって言った。

「姉さん、せっかくの機会だ、デヴィットとエドガーに姉さんの研究を説明してあげたら? 僕の方は時間があるからさ」

「そう……? それなら、聞いてもらおうかしら……研究室まで来てもらって構わない……? デヴィッドさん、エドガー君……」

「ええ、もちろん」

というわけで、俺たちは応接室を出てイルバラ姫の研究室へと戻ることになった。

イルバラ姫の研究室はぐちゃぐちゃだった。

さっきの爆発のせいだけじゃない。爆発の跡は俺たちが応接室にいる間にメイドたちが片付けていたが、それ以外の部分にも本の山やら紙切れの束やら得体のしれない薬品の瓶やら動物の骨らしきものやらが散在していて、姫、イーレンス王子、デヴィッド兄さん、俺の4人が入るともう立てる場所が残っていない。

「……姉さん、少しは片付けたら? これじゃあどこに何があるかわからないのでは?」

イーレンス王子が呆れたようにそう言った。

イルバラ姫への王子の態度は、イルフリード王子へのそれと比べると親しげだ。

2人とも魔法の研究者だということなので、気脈の通じる部分があるのだろう。

「……私には、どこに何があるかわかってます」

姫が、少し心外そうにそう言った。

前世でも部屋を片付けられない人の定番の言い訳だったな。

俺は部屋の中のものをあれこれ【真理の魔眼】で鑑定してみる。おお、ガナシュ爺のくれた教科書にあった珍しい薬草や草木の根がちらほらあるな。さすがは王族だけあって、この部屋にあるものだけで家が1軒建ちそうなほどの価値がありそうだ。

「いや、国庫からお金を出して買ってる薬品もあるんだから、ちゃんと在庫を管理しておかないと」

「……それはメイドが目録を作ってくれてますから。……入る分については、ですけど。それに……」

「それに?」

「……どうせ爆発したらぐちゃぐちゃになるんですし……」

「いや、自分で言わないでよ」

イーレンス王子は処置なしというように肩をすくめた。

「それで、姫の研究というのは……?」

デヴィッド兄さんがそう話を振る。

「ああ、姉さんの専門は、人間の血を利用した【呪術】の研究だよ」

「人間の血、ですか」

イーレンス王子の説明に、兄さんが相槌を打った。

「そう。《血痕姫》……という二つ名についてはもちろん知ってるだろ?」

「それは……はい」

《血痕姫》。

俺も噂でなら聞いたことがある。イルバラ王女は【呪術】の研究をしているせいで、着ているドレスに多数の血痕が付着していると。

今イルバラ姫が着ているドレスは、メイドによってお召し替えされたばかりのものだから見当たらないが、爆発直後の姫はエプロンをつけていて、そこには多数の血痕が付着していた。

「一度そのままの格好で貴族のご令嬢たちの園遊会に出てしまったことがあってね……」

「……ちゃんとエプロンは外して行ったのだけれど、ドレスの方にもついていて……」

「ご令嬢たちが悲鳴を上げながら卒倒して大変なことになったね。サーガスティン侯の娘さんがなんとかその場を収拾してくれたから助かったけど、二つ名が広まるのは止めようがなかった」

サーガスティン侯の娘さんって、ひょっとしてミリア先輩のことか。そういう席にも顔を出すんだな。我がキュレベル家も侯爵家だけど、父さんが社交界があまり好きでないこともあって、俺もその手のイベントにはほとんど顔を出したことがない。……まぁ、俺の場合は見た目と実年齢に差があるせいで人前に出しにくいという事情があるのだが。そのせいで、キュレベル家には忌み子がいるという噂が、貴族の間でささやかれているとかいないとか……。

「それはともかくとして、エドガー君はこの歳で魔法の研究に興味があるらしくてね。せっかくだから姉さんの研究を見せてあげたらどうかな」

「お願いします」

イーレンス王子の言葉に合わせて、俺はイルバラ姫に向かって頭を下げた。

「……いいけど……興味が持てないかもしれないわよ……?」

姫は自信なさそうにそう断ってから説明を始める。

「……【呪術】については知っているかしら?」

「ええと、そういう魔法スキルがあるというくらいしか」

「……そうね。【呪術】も一般的には魔法スキルに分類されるわね……」

言いながらイルバラ姫は雑然とした「物」の山からカードのようなものを取り出した。

いや、それは紛れもなくカードだ。この世界のトランプとも言うべき、カードゲーム用のカードだった。

「……でも、他の魔法スキルと【呪術】の間には、大きな相違点があるの……」

「相違点、ですか」

姫はカードの1枚を俺へと手渡した。

俺はカードをひっくり返して裏表を見るが、普通のカードに見える。カードの真ん中には π(アクア) の文字が描かれていた。

「……そのカードには【呪術】がかけてあるわ。術をかけたのは……ええと、3ヶ月は前ね。それを今からこうして――《 解き放て(リリース) 》」

イルバラ姫の言葉とともに、カードの文字が淡く発光した。そして、カードの表面に水滴が浮かぶ。魔力を見ることもできる【真理の魔眼】が、微弱なものながらカード上で魔法が発動したことを感知していた。発動したのは、周囲の精霊の声から判別すると π(アクア) のようだ。

「「これは……」」

俺とデヴィッド兄さんは図らずして声をハモらせてしまった。

俺たちが驚いたことに、イルバラ姫は少し満足そうな顔をして言う。

「普通、魔法は術者の目の前でしか発動できないわよね……?」

たしかにその通りだ。普通の魔法は術者の手の届く範囲くらいでしか発動できない。ジュリア母さんの《 火炎嵐(ファイヤーストーム) 》だって、種火は術者の手元で生み出している。

例外は【精霊魔法】と念動系の魔法くらいか。

「でも、【呪術】だけは、術者の目の前でなくても発動できる……。いいえ、正確には、【呪術】もやはり目の前で発動するものなのだけれど、術の効果が空間を飛び越えて発動するという面白い性格を持っているのね……」

イルバラ姫が鍵語を口にした時、俺とイルバラ姫の距離は1メートルちょっと離れていた。通常の魔法なら、1メートル以上離れた場所で発動することは難しい。

「さらには、他の魔法と異なり、【呪術】の発動から効果が発現するまでの間に時間を置くこともできる……。

このように、【呪術】は空間と時間という面で、他の魔法とは大きく異なる性質を持っていることになるの……」

「お、おお……!」

地味だが、これ、めちゃくちゃおもしろい話だぞ。

「じゃあ、【呪術】を使うことで、魔法を設置して、好きなタイミングで発動させるようなことも?」

「できる……かもしれないわね。遺跡から見つかる古代遺物の中には、『使う』ことで魔法を即時発動できるものがあるけれど、これもひょっとしたら【呪術】の応用なのかもしれない……。

とはいえ、現代の【呪術】は、世間一般のイメージとは違って効果はかなり弱いわ……。狙った人を呪い殺すなんて夢のまた夢ね……。戦いに使えるとは思えないけれど……」

この人、わざわざ自分の研究のマイナス面を言ってくるな。

控え目というより、卑屈すぎて嫌われるタイプかもしれない。前世の同僚にもそういう人がいた。

「……わたしは最近、【呪術】を使って暗号通信ができないかと考えていたの……」

「【呪術】で……暗号通信?」

俺がオウム返しに聞くと、イルバラ姫は頷いた。

「ええ……まず、【呪術】を使って文書を作成するの……これには特殊なインクを使用するわ……」

「どう特殊なんてですか?」

「普段は水のように透明なのだけれど、魔力が通ると変色するというインクよ……私が開発したわ……」

「それはすごいですね」

「くふふっ……ありがとう……。

でも、それだけでは手品の種にしかならないでしょう……? 私はこのインクを、【呪術】で特定の魔力が送られた時にだけ変色するよう、改良したの……。

このインクの使い道は……わかるかしら、エドガー君……?」

俺はちょっと考えてから答えた。……「くふふっ」というお姫様らしからぬ含み笑いのことは考えないようにしつつ。

「……それで、暗号通信ですか。宛先に手紙が届いた頃合いを見計らって【呪術】を使い、文字を浮かび上がらせる」

「……さすがは転生者ね……その通りよ。同じことをイルフリード兄様に聞いたら、数秒考えて『わからん!』だったわ……」

イルバラ姫がくすりと笑った。

若い女性なのに、かわいらしい笑顔というより、何かを企んでいそうな邪悪な笑みに見えてしまうのが気の毒だな……。

「……でも、ひとつだけ訂正する点があるわね……。この【呪術】による文字は、インクの原料の作成こそ、【呪術】が必要だけれど、いったんインクを作ってしまえば、魔法の心得のある者なら誰にでも利用することができるの……」

「す、すごい!」

あたりまえだが、魔法は術者本人にしか使えない。他人の魔法を使うことはできないということだ。その原理的な制約を、姫の【呪術】は部分的にではあるが乗り越えていることになる。

「……私はこの新しい暗号通信を、『呪文字』と名づけたわ……呪文字を使えば、国家機密や外交文書を、スパイに盗み見られる心配をせずにやりとりすることができる……」

「すごいじゃないですか!」

「うふふ……そうでしょう?

でも、残念ながら、呪文字による暗号通信は採用されなかったの……」

「えっ!? どうして?」

「呪文字は術者の生き血で書く必要があるのだけれど……高位の貴族たちは、自分の血をそのために抜き取られるのは嫌だと言って反対したの」

「う、うーん……」

気持ちはわからなくもないが、外交機密のためならそのくらい……という気もするな。

首をひねる俺に、イーレンス王子が付け加える。

「もうひとつは、見た目の問題だね。

呪文字が浮き出したところを想像してみてくれ。

紙の上に、血で書かれた文字が薄ぼんやりと発光しながら浮かび上がるんだ。

これはちょっとした恐怖だよ」

……たしかに。

「機密文書は、大事な外交文書でもある。

相手国への心象は、時に機密保持よりも大事なことがあるからね。

考えてもごらんよ、いくら内容が和平を求める友好的なものだったとしても、それが血で書かれた不気味な文字だったら、相手国がどう受け取るか……」

呪いの血文字で「仲良くしましょう」なんて書いて寄越されたら、裏の意図を疑ってしまうだろうな。

「だ、大事なのは文章の中身でしょう……?」

と、不服そうに言うイルバラ姫。

「煎じ詰めればそうだけど、文書の体裁や装飾は国の威信をアピールする上で大事なものだからね。文官たちが反対したのも、理解できなくはないよ……姉さんには悪いけどさ」

「……そんなものかしら……」

イルバラ姫ががっくりとうなだれる。

有望な研究だと、思うんだけどな。

研究室に落ちた沈黙を破って、イーレンス王子がからかうような口調で言った。

「――さて、そろそろ僕たちの用事を済ませないかい?」

そういえばそうだった。今日の俺たちの目的はイーレンス王子と 切り裂き魔(リッパー) 事件の捜査について打ち合わせをすることだった。

俺たちはイルバラ姫に別れを告げて、今度はイーレンス王子の研究室にお邪魔することになった。