軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

23.まち針

フロリスがアリエスの専属メイドになってからひと月が過ぎた頃。

湯浴みを終えたアリエスが自分で髪を梳いていると、廊下から不自然な足音が聞こえ、次いで食器をひっくり返す派手な音が聞こえた。

「何をやっているの!?」

「すみません! すみません!」

甲高く耳障りな怒鳴り声と必死に謝罪する声が部屋の中まではっきり聞こえてくる。

アリエスは大きくため息を吐いて立ち上がると、扉を開けて廊下に顔を出した。

「ロイヤさん、何を騒いでいらっしゃるの?」

「なっ! 失礼な! 騒いでいるのは私じゃなくて、あなたのメイドよ!」

「まあ、そうなの?」

大声で怒鳴る女官長補佐のロイヤの言葉に、アリエスはわざとらしく驚いた。

たった今、騒いでいるのはどう見てもロイヤである。

「ロイヤさん、よろしければお茶でも飲みませんか?」

「私にはそんな暇は――」

「忙しいときほど一度立ち止まってゆっくりされるべきではありません? ――ユッタ、お茶の用意をお願い」

「かしこまりました」

騒ぎを聞きつけてやってきた人たちの中にユッタを見つけ、アリエスはお茶の用意を頼んだ。

それから足下に膝をついてオロオロしているフロリスに優しく声をかける。

「フロリス、ゆっくりでいいからそこを片づけておいてね」

「は、はい!」

「クローヤル女史! あなたは甘いわ! あの子を今すぐクビにするべきよ!」

「まあ、それはお茶を飲みながら考えましょう」

アリエスは苛立つロイヤを強引に部屋に招き入れると、布張りのほうの椅子を勧めた。

ロイヤは侮蔑する気持ちを隠さずアリエスの部屋を見回す。

窓には最近になってフロリスが縫ってくれた継ぎ接ぎされた布がカーテン代わりにつるされている。

「何か珍しいものでもありました? 以前、あなたが案内してくださった部屋のままですけれど……ああ、カーテンとベッドカバーが増えましたわ。フロリスはお裁縫が得意で、とても美しい刺繍もできるのですよ?」

「そ、そう」

アリエスが笑わないまでも明るい声で部屋の中を手で示せば、ロイヤは落ち着かなげに返事をして椅子に腰を下ろした。

ちょうどそこにユッタがお茶を持って入ってくる。

「ありがとう、ユッタ」

「いいえ、どういたしまして」

アリエスがユッタにお礼を言うと、ロイヤは不快そうに顔をしかめた。

それに気づかないふりをして、アリエスは口を開く。

「先ほどの件ですけれど、フロリスは少々鈍いところもありますが、お裁縫が得意で他にもいろいろと便利な点があるんですよ」

「それだけ?」

「ええ、十分ですわ」

答えたアリエスは一口お茶を飲むと、カップをテーブルに戻した。

ロイヤは疑わしげな表情のまま、お茶に手をつけようとしない。

「ロイヤさんには私、勝手ながら親近感を抱いておりますの」

「親近感……?」

「ええ。だってほら……失礼ながら実家が困窮して寄る辺もなく、嫁ぎ先では……あら、ロイヤさんは未婚だったかしら?」

「そうよ。私はあなたと違って身を売らなくてもよかったの。一緒にしないでくれる?」

ロイヤが没落した子爵家の娘であることは有名だった。

しかも社交界にデビューした年に父親が急逝し、ロイヤは一人娘だったために、子爵家は遠縁の男性が後を継いだそうだ。

そしてロイヤは父親の喪が明けると子爵家から追い出され、結婚もできないままどうにか王宮で女官の職を得たらしい。

「ごめんなさいね。てっきりご結婚はされていたのかと思っていたわ。確かロイヤさんは二十……八? 九だったかしら?」

「まだ二十七よ」

「そう。それなのにご結婚されていないのね。この王宮には素敵な殿方がたくさんいらっしゃるのに」

それでもあなたはまだ独身なのね、とアリエスはあてこすった。

酷い結婚相手だったとはいえボレックはポルドロフ王国の伯爵であり、アリエスは伯爵夫人だったのだ。

「私は結婚さえできればいいとは思っていないから。妻となるからには夫から最低限は敬意を払ってほしいもの。隠すことなく大っぴらに浮気をされたり、皆の前で笑いものにされたりなんて死んでも嫌だわ。ましてや無一文で放り出されるなんて」

「あら、隠れてなら浮気はいいのかしら?」

「そ、そんなこと……」

「もちろん嫌よね。男性は名誉だとか何かのために決闘を申し込めるのに、女性は何もできないって不公平だと思うの。いっそのこと妻にも浮気相手に復讐する権利があってもいいと思わない?」

「ふ、復讐……?」

「まあ、とはいえ妻だって浮気すればいいのよね。夫よりも素敵な男性と。隠れてなら既婚女性はそういうことも許されるから……未婚女性はお気の毒ね。男性と話をするにも付き添いが必要なんですもの」

ロイヤの言葉の揚げ足を取るばかりか、アリエスはさらに畳みかける。

それにはロイヤだけでなく、ユッタや廊下を片付けて部屋へと戻ってきたフロリスまでもぽかんと口を開けて聞いていた。

フロリスは口だけでなく扉まで開けたままである。

「未婚女性の場合――いえ、既婚女性でも少しばかり男性と戯れただけで〝尻軽〟だの〝あばずれ〟だの言われるけれど、男性の場合はずるいと思わない? 放蕩者だなんて言葉で誤魔化して。そうね……いっそのこと〝槍玉挙げすぎ〟ってどうかしら? あら、だけど〝槍〟だなんて立派すぎるかしら? 人によっては〝まち針〟くらいの方もいるものねえ」

まるで本気で男性への悪い呼び名を考えているようなアリエスの言葉に、盛大に噴き出す声が聞こえた。

開け放たれた扉から二人の応酬を見ていた人たちが堪えきれなかったらしい。

夕方の忙しい時間帯のため、廊下には多くの使用人たちがいた。

「あ、あなたたち、何を見ているの!? 早く仕事に戻りなさい!」

我に返ったらしいロイヤが顔を真っ赤にして一喝すると、皆が散っていく。

ロイヤはアリエスへ視線を戻すと、きつく睨みつけた。

「あなたのような下品な方がここで働いているなんて、信じられないわ! このことはヨハンナ夫人に伝えますからね!」

「ええ、どうぞ。女官長なら私の言葉の意味をわかっていただけるでしょうから。未婚の方には意味が理解できなくてもね」

二人の会話を一部始終聞いていたユッタとフロリスには、アリエスの最後のほうの言葉の意味は理解できなかったことが表情からわかる。

そのことに気付いたロイヤはさらに顔を赤くしたが、それ以上は何も言わず立ち上がった。

それからアリエスに向けて最後にもう一睨みしてから去っていった。