軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第23話 三度目の焼き栗

配分額と支出額。二つの数字を並べて書く。

それだけのことが、この世界にはなかった。前の世界では当たり前だったのに。

……いや、当たり前だった、と言い切るのは少し違う。前の世界でも、帳簿が正しく運用されているかどうかは別の話だった。数字を二列にしたところで、数字を書く人間が嘘をつけば終わりだ。それでも──帳簿の構造として「差額が見える」仕組みがあるのとないのとでは、嘘の難易度がまるで違う。

二十七金貨の差額が三年間放置された。百二十金貨の横領が発覚しなかった。今の帳簿は支出だけを記録しているから、予算と支出を突き合わせるには別の台帳を引っ張り出して手作業で照合するしかない。私がやったように。

その手作業を、帳簿の書式そのものに組み込む。

草案は一週間かかった。書記局の執務机で、朝から退勤の鐘まで、条文を書いては消し、消しては書いた。前の世界の複式簿記をそのまま持ち込めるほどこの世界の会計は整っていないから、骨格だけを取り出して、この世界の単式簿記に接ぎ木する形にした。

「二重記帳制度」。全費目について、配分額・支出額・残額の三列を月次で記帳し、差額が生じた場合は理由書の添付と監査局への報告を義務づける。

それだけだ。

それだけのことを条文にするのに、七枚の羊皮紙を使った。

朝、書記局に着いてすぐ、草案の最終稿をフリッツ局長に渡した。

局長は執務室の机で、一枚ずつ目を通した。指で条文を辿りながら、時折ペンで印をつけている。赤インクではなく黒──修正ではなく、確認の印だ。

七枚を読み終えるまで、八分。

局長が顔を上げた。

「……よくできている」

「ありがとうございます」

「いや、"よくできている"で済む話じゃない。この書式が三年前にあれば、二十七金貨の差額は帳簿を開いた日にわかっていた。百二十金貨にはならなかった」

局長の声が低くなった。あの公聴会の証言を聞いたときと同じ温度。

「局長名で宮廷省に上申します。異存は」

「ありません」

上申書の表紙に、局長が署名した。フリッツ・レーマン。書記局長の公印。日付。

午前便で宮廷省に提出した。

回答は──昼前に届いた。

私は局間便の封書を開いて、一行目を読んだ。

『二重記帳制度に関する書記局上申を受理する。本件は議会審議事案とし、次回定例議会に上程する。提出から採決まで最短十四日。──宮廷省制度管理課』

受理。

議会審議に、乗った。

封書を持つ手が、ほんの少しだけ震えた。嘆願書の不備を指摘したときは震えなかった。差押え執行命令を読んだときも震えなかった。なのに──条文が受理された、というたった一行で、指先が揺れている。

(……前の世界の知識が、この世界の制度になるかもしれない)

まだ「なる」ではない。議会で審議されて、可決されなければ制度にはならない。十四日後の採決まで、何が起こるかわからない。

でも──紙の上に乗った。

五年間で二百四十七件の業務改善を提案した。全部、局長に名前を奪われた。提案は通ったけれど、私の名前はどこにもなかった。

今回は違う。上申書の起案者欄に「書記官長補佐マリエッタ・ホルン」と書いてある。フリッツ局長が、書かせてくれた。

「局長」

「うん」

「起案者欄に名前を入れてくださって、ありがとうございます」

局長が一瞬、目を瞬いた。それから──困ったような、少し苦い顔をした。

「当たり前のことだ。書いた人間の名前が載る。前の局長がやらなかっただけで、これが普通なんだ」

普通。

普通のことを「ありがたい」と感じてしまう自分が、まだ少しだけ悲しい。でも──悲しいだけではない。普通が戻ってきたことが、嬉しい。

封書を帳面に挟んで、執務机に戻った。

昼休み。ハンナが湯気の立つカップを二つ持って、私の机に寄ってきた。

「お昼、一緒にどう? って言っても、ここで食べるだけだけど」

「ありがたい。机から離れる気力がなくて」

「草案、通ったんでしょう? 宮廷省が受理したって、さっき局長が嬉しそうに言ってたわよ」

「嬉しそうだった?」

「眉が三ミリくらい上がってた。あの人にしては大喜び」

フリッツ局長の三ミリ。確かに、大喜びだ。

パンを齧りながら、ハンナがカップの縁越しにこちらを見た。

「ねえ、議会の話なんだけど」

「議会?」

「次の定例議会の出席者名簿、回覧が来てたの。私、記録係で名簿の写しを作ったから覚えてるんだけど──ベルント・グレーフェっていう議員がいるのよ」

指が止まった。

ベルント・グレーフェ。

差押え書類の中に紛れていた名前だ。ヴァイスが三年間、年八金貨──合計二十四金貨を「交際費」として支出していた相手。

「……その人、どういう人?」

「末席議員。たしか──近衛出身って書いてあったわ。宮廷歴は浅いけど、弁が立つって評判だって」

近衛出身。

ガリスティア王国の近衛は、王族の警護と側仕えを兼ねる。近衛出身で末席議員。弁が立つ。ヴァイスから二十四金貨を受け取っていた。

(……オスカー殿下の近衛出身、ということはないだろうか)

推測だ。近衛は王族全体に仕えるから、オスカー殿下の直属とは限らない。でも──政務参画を三年間禁じられた殿下が、議会に代理を送り込むとしたら、近衛出身の人間は最も自然な選択肢だ。

「ハンナ。その名簿の写し、見せてもらえる?」

「いいわよ。記録棚の三段目」

名簿を引き出した。ベルント・グレーフェ。末席議員。経歴欄──近衛第二中隊出身。

近衛第二中隊。

どの王族の直轄かまでは名簿に書いていない。でも、帳面に記録しておく価値はある。

席に戻って帳面を開いた。日付。「議会出席者名簿にベルント・グレーフェ議員の名前あり。末席議員。近衛第二中隊出身。ヴァイスからの交際費(年8金貨×3年=24金貨)の受領者と同一人物。制度案の議会審議に際し、動向を注視」。署名。

書き終えて、ペンを置いた。

制度案が議会に乗った。同じ議会に、ヴァイスから金を受け取っていた人間がいる。

偶然かもしれない。ベルント・グレーフェが制度案に何の関心も持たない可能性だってある。

でも──帳簿が嘘をつけなくなる制度を、横領に加担していた可能性のある人間が歓迎するだろうか。

(考えすぎかもしれない。でも、記録はしておく)

帳面を閉じた。

窓の外に、冬の日差しが薄く差している。日が短い。もう退勤の鐘が近い。

退勤の鐘が、六つ鳴った。

鞄を閉じて書記局を出た。渡り廊下を抜けて正門に向かう。冬の廊下は石壁が冷気を溜め込んでいて、吐く息が白い。

正門をくぐった。

石畳の通りの角に──屋台が出ていた。

湯気。甘い匂い。鉄鍋の上で茶色い粒が転がっている。

焼き栗の屋台だ。

紙袋に書かれた店名。インクが少し擦れているけれど、読める。春の公聴会の日に正門の前で分かち合った、あの屋台と同じ店名。秋の終わりの公聴会の帰り道に、ヴェインが買ってきたのと同じ。

三度目。

正門の柱に、濃紺の影が立っていた。

ヴェイン。監査官服。復職してからは、退勤の時刻が合えば正門で落ち合うようになっていた。約束したわけではない。ただ、鐘が六つ鳴ると正門にいる。お互いに。

彼の右手に、紙包みがあった。

「帰りに通りかかった」

短い説明。この人が焼き栗を買う理由を説明するのは、いつも一言だ。春は「公聴会の帰りに」。秋は「公聴会の前に買った」。冬は「帰りに通りかかった」。

全部、嘘ではないけれど、全部でもない。通りかかっただけで焼き栗を買うのは、買おうと思っていた人だけだ。

「ありがとうございます」

紙包みを受け取った。温かい。冬の空気の中で、指先に紙越しの熱が伝わる。

並んで歩き始めた。石畳。二人分の足音。

紙包みを開けて、一つ取り出した。皮を剥いて、口に入れる。甘い。ほくほくして、少しだけ苦みが残る。春の味と、秋の味と、同じ。

ヴェインが一つ取り、私がもう一つ取り──手の中に転がった栗は、明らかに大きい方だった。

「……また大きい方」

「計量していない」

「してないのに毎回こっちに来るんですよ、大きいの」

「偶然だ」

三回連続の偶然を偶然と呼ぶ人を、前の世界では何と呼んだか。──いや、どの世界でも同じだ。嘘が下手な人、と呼ぶ。

(……嘘が下手なのに、「計量していない」だけは毎回言い張るんだな、この人は)

少しだけ、口元が緩んだ。

「定時に帰れました」

声に出した。焼き栗を噛みながら。

「ああ。帰れた」

ヴェインの声は低くて、平坦で、いつもと同じ。でも冬の夕暮れの中で聞くと、春の正門で聞いたときより──近い。隣にいるから当然なのだけれど、近さの意味が、あの頃とは違う。

「制度案が議会に乗りました」

「聞いた。ハルトマンが言っていた」

「速いですね、噂」

「監査局は帳簿が変わると直接影響を受ける。関心は高い」

関心が高い、と言いながら、声のトーンは変わらない。でもこの人が焼き栗を買ってくるのは、良いことがあった日か──良いことがありそうだと思った日だ。たぶん。根拠は三回分の焼き栗。統計としては不十分だけれど、帳面に書くには十分な傾向。

「十四日後に採決です」

「足りるか」

「足ります。条文はもう書いた。あとは議会が読んで、判断するだけです」

「そうか」

短い返事。でも──少しだけ、声がやわらかかった。ほんの半音。この人の感情の振れ幅は、いつも半音の中に収まっている。

官舎の玄関で、靴を脱いだ。

靴べらが、二つ並んでいる。胡桃材の木目。丸い葉の焼印。同居初日からずっとここにある。

靴を揃えて、ふと──思った。

「新しい家にも、これ持っていきますか」

言ってから、自分の言葉に少し驚いた。新しい家。まだ探してもいないのに、口が先に出た。

ヴェインが靴を脱ぐ手を止めた。一拍。

「当然だ」

声に、迷いがなかった。

紅茶の濃さは毎朝まだ揺れているのに、靴べらのことには一切の迷いがない。この人の中での優先順位が、なんだか少しおかしくて──少し、嬉しかった。

居間に入って、焼き栗の残りをテーブルに置いた。紙包みの底に、小さい栗が二つ残っている。二つとも小さい。大きいのは、全部私が食べたのだ。計量していないのに。

帳面を開いた。今日の記録。制度案の受理。議会審議。ベルント・グレーフェ。三度目の焼き栗。

最後に──書こうか迷って、結局書いた。

「靴べら。当然だ、とヴェインが言った。声に迷いがなかった」

帳面を閉じた。窓の外はもう暗い。冬の夜は早くて、鐘が六つ鳴ってからあっという間に闇が来る。

台所の方から、湯を沸かす音が聞こえた。ヴェインだ。紅茶を淹れている。今日の紅茶は──昨日よりは濃いだろうか。

明日の議員名簿を、もう一度確認しよう。ベルント・グレーフェ。近衛第二中隊出身。ヴァイスからの二十四金貨。

制度案が議会に乗った日に、あの名前が同じ議会にいる。

焼き栗の甘さが、まだ舌の奥に残っている。その甘さの隣で、帳面に書いた名前が──静かに、重さを持ち始めていた。