軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 存在しない裏帳簿

帳簿は嘘をつかない。

嘘をつくのは、いつだって人間の方だ。──前の世界でも、この世界でも、それだけは変わらない。

同居一週間目の朝、私は書記局の文書受付窓口で閲覧申請書を書いていた。

『閲覧対象:宮廷財務局予算執行帳簿(過去三年分)。閲覧根拠:書記局規程第十一条に基づく公開帳簿の職務閲覧。閲覧者:正規書記官マリエッタ・ホルン。』

署名して、受付印をもらう。窓口の書記官補が帳簿の搬出手続きを始めた。三年分、12冊。重い。ハンナが台車を押してきてくれて、私の執務机の横に積み上げた。

「マリエッタ、本気? これ全部読むの?」

「全部じゃないわ。必要な部分だけ」

「それでもすごい量よ……」

ハンナの目が丸くなっている。12冊の帳簿は、縦に積むと私の肘くらいの高さになった。一冊あたりおよそ二百頁。合計二千四百頁。

(……前の世界のエクセルがあったらどんなに楽だったか)

でも、ここにはエクセルも、電卓も、検索機能もない。あるのは羽根ペンとインクと、五年分の業務改善で鍛えた目だけ。

日中は通常業務があるから、帳簿は退勤後に読む。12冊を官舎に持ち帰る許可を取って、台車ごと運んだ。

官舎の書庫は、食卓の隣にある小部屋だった。壁沿いの棚にヴェインの監査資料が並んでいて、その向かいの机に私の帳簿を積んだ。

退勤の鐘が鳴ってから一時間。灯りをつけて、最初の一冊を開いた。

ヴェインが書庫に入ってきたのは、二冊目に手をかけた頃だった。

「……手伝う」

白いシャツ姿。濃紺の上着を着ていない彼は、もう見慣れてきた。この一週間で、宮廷の監査官ではなく、同じ屋根の下にいる人間としてのヴェインを──少しだけ、知り始めている。

「帳簿を読むのは私の仕事です」

「停職中でも、数字は読める」

反論できない。ヴェインは机の端に椅子を引いて、三冊目を取った。

並んで座る。

肘と肘の間は掌ひとつ分。官舎の書庫は狭い。机はひとつしかない。春の宮廷地下の文書庫で12冊の帳簿を読んだ時と同じ配置だけれど、あの時より距離が近い。

──集中しなさい、マリエッタ。

帳簿を開く。

数字の海だ。

財務局の帳簿は単式簿記で、支出を項目ごとに記録してある。消耗品費、通信費、施設修繕費、人件費、交際費、雑費。各項目の月ごとの合計が頁の下にまとめてある。

一年目。頁をめくる。数字を目で追う。

問題ない。支出の合計は予算枠に収まっている。各項目の増減も季節変動の範囲内。

二年目に入る。最初の四半期は一年目と同じ。二番目の四半期──半ばあたりから、消耗品費の数字がわずかに跳ねている。

「……二年目の半ば」

隣でヴェインが呟いた。彼も同じ箇所を見ている。

「消耗品費が前期比で二割ほど高い」

二割。

数字だけ見れば、そう大きな異常ではない。紙やインクの値上がり、季節的な需要増、新規事業の開始──いくらでも説明がつく。単式簿記で見ている限りは。

(でも──)

前の世界の記憶が、頭の隅でちらつく。

役所にいた頃、上司が言っていた。「単式は騙しやすい。複式は騙しにくい」と。

単式簿記は、お金が出ていく記録だけを書く。入ってくる記録──つまり、財務局が各部署から受け取った予算の原資記録と、出ていく記録を突き合わせない。

でも、複式簿記の発想を使えば──。

「アーレンス監査官」

「……ヴェインでいい。ここは宮廷ではないから」

一瞬、手が止まった。

(呼び方の話は後にして)

「……ヴェイン。この帳簿は支出記録ですが、財務局が各部署の予算を受け取った際の受領記録──つまり収入記録は、どこにありますか」

「年度初めの予算配分書だ。帳簿の一冊目の冒頭に綴じてある」

一冊目に戻る。冒頭の頁。年度予算配分表。各部署から財務局に配分された予算額が項目ごとに記載されている。

これだ。

私は配分表の数字を書き出した。次に、支出記録の年間合計を書き出した。そして──両方を並べた。

配分額:消耗品費 年間180金貨。

支出額:消耗品費 年間207金貨。

差額。27金貨。

「……合わない」

ヴェインが身を乗り出した。灰色の目が、私の書き出した数字の列をなぞっている。

「配分額を超えた支出がある。27金貨分。でも、帳簿上は『予算内』と記録されている」

「補正予算か、他項目からの流用がなければ──」

「ありません。補正予算の決裁記録も、流用承認の記録も、この帳簿には綴じられていない」

沈黙。

灯りの炎が小さく揺れて、二人の影が壁に伸びた。

「つまり」

私は羽根ペンで数字の横に線を引いた。

「表の帳簿に載っている支出と、実際に受け取った予算が合わない。27金貨分の支出が、どこから出ているのかわからない。この帳簿には書かれていない資金の流れがある」

──別の帳簿。

「表帳簿に載らない支出を記録する帳簿が、別に存在している可能性がある」

(前の世界なら「裏帳簿」って呼ぶやつだ)

口には出さなかった。この世界に複式簿記がない以上、「裏帳簿」という概念もない。でも、数字の矛盾は存在する。矛盾がある以上、それを説明する記録がどこかにあるはずだ。

ヴェインが、ゆっくりと息を吐いた。

横顔を見た。灯りに照らされた頬の線が、いつもより鋭く見える。灰色の瞳が帳簿の数字に向けられていて、その中に──何か、私には読めない感情が動いていた。

「……あなたの目を、信じている」

低い声。いつもの半音低いどころか、喉の奥から絞り出すみたいな声だった。

「私が停職になる前、財務局の予備監査に手をつけかけていた。数字がおかしいと感じていたが、こういう照合の方法は思いつかなかった」

「配分額と支出額の突き合わせは、基本的な手法です」

「この世界には、ない」

あ。

──言い過ぎた。

(しまった。前の世界の知識をそのまま出した)

「……勉強熱心だったので」

誤魔化した。ヴェインは追及しなかった。ただ、灰色の目が一瞬だけ私の顔に止まって──それから、帳簿に戻った。

「二年目だけではなく、三年目も同じ手法で確認する必要がある」

「ええ。明日、追加の照会を出します。消耗品費以外の項目についても、配分額と支出額の詳細明細を請求します」

「財務局が素直に出すとは限らない」

「書記局規程第十一条に基づく職務閲覧です。拒否には相応の理由が必要になる」

ヴェインの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうかはわからない。灯りのせいで影が揺れただけかもしれない。

「あなたは、手続きで戦う人だ」

「書記官ですから」

それだけ答えて、帳簿に戻った。

指先がインクで汚れている。ヴェインの指先も同じだ。並んだ机の上に、二人分の書き込みが増えていく。

二年目の残りと三年目を、ひとつずつ照合していった。消耗品費だけで、二年目の後半から三年目にかけて、合計50金貨近い差異が浮かんだ。春の公聴会のとき発覚した50金貨の横領と──。

(……同じ数字)

偶然なのか。それとも、同じ根っこから生えている問題なのか。

まだわからない。でも、数字は揃い始めている。

翌朝。秋の陽が窓から差し込む前に目が覚めた。

台所のテーブルに、今朝もパンとチーズが置いてある。焼き栗はなかった。毎朝あるわけではないらしい。

(……別にがっかりしたわけじゃないから)

パンを齧りながら、照会書の下書きを仕上げた。宛先は財務局。

『書記局規程第十一条に基づき、以下の資料の追加閲覧を申請する。対象:過去三年分の全費目別詳細明細(月次配分額・支出額・残額の三項目を含むもの)。』

署名して、鞄に入れた。

書庫を覗くと、昨夜の帳簿が机の上に開いたままになっている。私が書き込んだ数字の横に、別の筆跡でいくつか印がついていた。ヴェインの字だ。私が見落としていた頁に、小さく丸が振ってある。

交際費。私が確認していない項目。

(……いつの間に)

たぶん、私が先に書庫を出たあとだ。停職中で眠れない夜を、帳簿を読んで過ごしたのだろう。

丸がついた頁を開いた。交際費の欄。二年目後半から、不自然に跳ねている。消耗品費と同じパターンだ。

裏帳簿は、どこにある。

27金貨の穴から覗いた闇は、思っていたより深いのかもしれない。

鞄を閉めて、官舎を出た。秋の朝は冷たくて、吐く息が白い。玄関の靴べらが二つ、今朝も並んでいる。

書庫の灯りは消えていた。ヴェインはもう起きているはずだけれど、姿は見えなかった。

──彼がいつ眠ったのか、私は知らない。