作品タイトル不明
173・リスターナの目覚め
リスターナ・フィオットは、ホルト皇国の外交官である。
ホルト皇国において、外交官は基本的に世襲制の役職であり、フィオット家は代々『ネルク王国』を担当している。
これは生まれた時から担当国の歴史や世情を学ぶことで、その国のエキスパートになることを期待されての 措置(そち) であり、「特権」とも「束縛」とも言われる。
つまり、嫡子はほぼ確実に「その国を担当する外交官」にはなれるのだが――「嫡子にその座を譲るまで、その他の官職にはつけない」という意味でもある。
これに男女の別はない。子供がいない場合には養子を迎えるが、女子であっても嫡子にはなれるし、事実、リスターナには娘しかいないため、おそらくは彼女が役職を継いでくれる。
ここで重要なのは「血統」ではなく、「幼少期からの英才教育によって、職務を引き継げる人材を確保し続ける」ことであり、この点でホルト皇国の外交官僚のシステムは合理的、かつドライでもあった。
――フィオット家に長子として生まれた以上、自分の「夢」はもてない。
国の外交の歯車として生き、そして次の世代につなげていく――それが、リスターナの宿命だった。
食いっぱぐれないという意味で、自分の現状に不満はない。むしろ恵まれた立場であるとも理解している。
その一方で――「他にやりたかったこと」がないわけでもない。
人生とは、諦めと折り合いをつけていく作業なのだと思う。
夢ややりたいことを優先できるのは、ごく一部の限られた層だけで、大半の人間はそれを優先すると人生が行き詰まるし、どこかで幾度か、諦めの経験を積んでいく。
そしてどんな人間も――『純血の魔族』や『亜神』以外は、「寿命」という限界によって自分の命を諦めざるを得ない。仮に諦めなかったとしても、死に至るという結果は変わらない。
そうした誰もが抱える鬱屈を、外交官としての柔らかな笑顔で完璧に覆い隠し――リスターナ・フィオットは、これまで職務に集中してきた。
彼は夢を見ていた。
子供の頃の夢――「将来は何の仕事をしたいか」と話す友人達が眩しくて、自分はただ微笑で受け流すことしかできなかった、あの日の夢――
本当は言いたかったのだ。『歌劇の俳優になりたい』と――しかしそれは、あくまで馬鹿げた夢でしかなく、リスターナの演技力は「外交」の場で生かされることとなった。
……ちょっと今日は、その仮面の耐久力がもたなかった。
「……リスターナ子爵ぅー? 起きてくださーい。朝……っていうかもうお昼ですよー」
鼻先に漂うのは、爽やかなミント系の香り。
そして頬をぺちぺちと叩くのは――猫の肉球の感触。
「……はっ!?」
目覚めると、キジトラ柄の猫が、いかにも心配そうな眼差しでリスターナを覗き込んでいた。
「あ、起きた! やー、驚かせてしまったみたいで、なんだかすみません! あ、起き上がれますか? 気分悪くないです? いま飲み物をご用意していますが、あたたかいので大丈夫ですよね? リクエストとかあればぜひ!」
かいがいしい。が、問題はそこではない。
「ね、ねこ……ねこが、しゃべっ……」
「はい! 私はルークと申します。ウィルヘルム様のお友達でして、ご覧の通り、人畜無害なかわいい猫さんです!」
かわいい……かわいいといえばかわいいが、何か、こう……自己主張されてしまうと、計算ずくのかわいさという気がしないでもない。なにより得体が知れない。
が、名乗られた以上は、礼儀として名乗り返す必要がある。
「ど、どうも……あの、私は、リスターナ・フィオットと申します……ホルト皇国の外交官でして……」
「存じ上げております! ささ、とりあえずこちらへ。私の飼い主をご紹介しますね」
寝かされていた寝台から立ち上がると、その寝台が「うなー」と鳴いた。びくりとして振り返れば、ベッドの枠が猫の顔になっており、自動的にベッドメイクまでしている。
よくよく見れば、そこは奇妙な空間だった。
壁紙は白っぽく、明るく、実に清潔な雰囲気で、温度は快適で空気も澄んでいる。
まるで 静謐(せいひつ) な神殿――それでいて、あたたかな家庭を思わせるほど居心地が良い。
寝台を仕切った板の向こうには、可愛らしい銀髪の少女と美しい魔導師風の娘までいる。
「リスターナ子爵、うちのルークがご迷惑をおかけしました。ご気分はいかがですか?」
「あの……こちらに、気分が落ち着くお茶をご用意しましたので――もしよろしければ――」
……気のせいだろうか? 見覚えが、あるような、ないような……?
しかし名前が出てこない。少なくとも親しい間柄ではないが、確か、数日前に……士官学校の、弓の試技で……
「……リ、リーデルハイン子爵家の……?」
「はい。クラリス・リーデルハインと申します。こちらは従姉妹のリルフィ姉様です」
慣れない座椅子――これにも猫耳が生えている――に戸惑いながら座らされ、リスターナは改めて周囲を見回した。
壁にはキジトラ柄の猫が時計を抱えたデザインの壁掛け時計。
白い大きな箱型の……おそらくは冷蔵庫にも、猫の意匠があしらわれている。
一面を占める広い窓の向こうには、白く雪をかぶった美しい山と、それを鏡映しにする広大な湖があった。
明らかに王都の光景ではない。窓枠の一隅には『初秋のフジとショウジ湖』と書かれていたが、これはリスターナの知らぬ地名である。
クラリスの隣には、くうくうと安らかな寝息をたてる巨大なウサギもいた。最初は白くて丸い巨大なクッションかと思ったのだが、背中がゆっくりと上下していたせいで「生き物」だと気づいた。
「あ、こちらは神獣のピタゴラスちゃんです! 我々はピタちゃんと呼んでいます。今はお昼寝中ですが、ごはんの時間になれば起きますので」
猫がウサギを飼っているのか……と驚愕しつつ、確か失神する前に『亜神』という言葉をかすかに聞いたような……?
「あ、あの……ウィルヘルム様は、どちらへ……?」
「書類仕事がお忙しいので、いったんお城に戻っていただきました! また後日、会う機会があるかと思いますけど、その前に私の自己紹介を済ませておこうかと……」
どうやら一人で対応しなければならない局面らしい。覚悟を決めたリスターナの正面で、猫が元気に両手を掲げた。
「改めまして、私、リーデルハイン子爵家にて、トマト様の栽培技術指導員、およびペットとしてお仕えしております、亜神のルークと申します! 特技は香箱座り、趣味はトマト様の摘果、最近のマイブームはバロメソースを使ったアレンジレシピの研究でして、職務の合間を縫ってちょくちょく試食をしております!」
……初手から情報量が微妙に多い。
「……は、はぁ……? トマト様……栽培技術……指導員……? あの、失礼ですが、トマト様というのは、リーデルハイン領で見つかったという、あの新種の……?」
猫の代わりに、クラリスが応じてくれた。
「トマト様は、ルークがこの地にもたらした、神々の世界の野菜です。ルークはそれを世界に普及させたいみたいで、ここ半年ぐらい、いろいろやっているのですが……」
「……その市場調査や容器の開発のために王都へ来たら、魔族の狂乱を止める羽目になったり、レッドワンドの混乱にも介入する羽目になったり……成り行きで、段々とおおごとになってしまいまして……」
リルフィという魔導師も、やや苦笑気味だった。
ルークという猫がテーブルの上に正座し、「いやいや」と顔の前で肉球を打ち振る。特技は香箱ではなかったのか。仕草が完全に人間である。
「確かに寄り道は多かったのですが、計画そのものは順調に推移しております。生産設備も整いつつありますし、来年の春頃には出荷を始められるでしょう。あ、先日、ライゼー様がお渡ししたバロメソースは、もうお召し上がりになりました?」
「い、いえ、まだ……昨夜も晩餐会に出ていたもので……」
「じゃあ、お昼はバロメソースのスパゲッティにしましょう! ちょっと奥で準備をしてきますので、クラリス様、リルフィ様、後はお願いします!」
クラリスが首をかしげる。
「あれ? わざわざ奥で? 別にこのまま……」
「いえ、初見だとちょっと……あの、驚かせてしまいそうなので……」
「あ、そっか。じゃあ、リル姉様も一緒に行って手伝ってあげて」
「そうですね……あの、クラリス様は?」
「ルークはいろいろ説明が足りないから、代わりにリスターナ子爵とお話してる」
一匹と一人が、部屋と接する通路の奥へ消えた。向こうに台所でもあるのだろうか?
後に残されたリスターナは、クラリスと顔を見合わせる。用意してもらっていたハーブティーに少しだけ口をつけると、その優しい香りと穏やかな温かさによって動悸が落ち着いた。
「ええと、あの……クラリス様、これは……」
「ルークは猫の姿ですが、本物の亜神です。春先にうちの領地に現れて、私がペットとして拾いました」
そんな「迷い込んできた野良猫をちょっと拾っただけ」みたいなテンションで言われても困る。
「詳しいことは私もよく知りません。でも、ルークは神様の世界で突発的な事故に遭って、世界の境界を越えてしまったそうです。この世界に来た目的なども特になく――最初の頃は『のんびり暮らしたい』なんて言っていたのですが、根っこの性分が働き者みたいで、なんだかんだと面倒見も良くて……魔族を圧倒できるほどの魔力を持ってはいますが、それを無闇にふるうこともない、心の優しい親切な神様です。私にとってはただの可愛い飼い猫ですが、リスターナ子爵の目からご覧になると……やっぱり怖いですか?」
「怖……くはないのですが、いや、もう、ただ単純に、戸惑っております……」
これは本音である。
見た目は猫でありながら、ちょこまかと人間のように動く様は実に愛らしく、表情も豊かで物腰も丁寧……とりあえず『怖い』要素はあまりない。「この可愛い猫が魔族を圧倒した」と言われても、何かの間違いではないのかと疑ってしまう。
「ところで、あの……ここは? ネルク王国の国内には見えませんが……?」
「窓の景色は作り物です。ここはルークの作った亜空間の部屋……休憩所みたいなものです。あちらの扉を出ると、さっきのお城のカフェの個室につながっています。内緒話をするにはこちらのほうが都合が良いのと、向こうにはリスターナ子爵を寝かせておくベッドもなかったので……王都では、私やリル姉様は、基本的にこの部屋でのんびりしていることが多いですね」
話しているうちに猫耳の生えたクッションがわらわらと集ってきて、リスターナを埋もれさせた。非常に楽だが、これはおそらく人をダメにする。
「……つまり、この空間は……神の御業によるもの、と?」
「そうですね。でも、ルークはあんまり、自分のことを神様だとは思っていないので……友人として接してあげてください。付き合っていけばわかると思いますが、ルークはとてもいい子です。リスターナ子爵にこうして正体を明かしたのは、子爵がルークの存在に気づきつつあったからですが……そこで口封じとか考えずに、『ちゃんと自己紹介をして味方になってもらう』と決断できる子ですから。きっとリスターナ子爵にとっても、この出会いは頭痛の種ではなく、互いにとって良き縁になるものと確信しています」
貴婦人も顔負けの柔らかな微笑とともに、諭されてしまった。
――年端もいかない少女にまで気を使われ、リスターナは改めて自省する。
いかに魔族絡みの案件とはいえ……自分は少し、怯えすぎていたかもしれない。
思えば先程のウィルヘルムとの会合も、藪をつついて蛇を出す寸前だった。出てきたのがかわいい猫だから良かったものの、もっと泰然と構え、時間をかけて冷静に考えるべき問題だった。
リルフィという魔導師と猫が、奥の通路から料理の皿を持って戻ってくる。
赤いソースがたっぷりと載った、山盛りのスパゲティの大皿をリルフィが持ち、一方の猫は取り分け用の木皿を頭上に掲げている。見た目はちょっと危ないが、木製なので軽いし、落としたところでそうそう割れない。
更に後ろから、スープの入ったカップ+サラダの小鉢を盆に載せた、メイド姿の猫達がぞろぞろと続く。最近のペットは配膳もこなしてくれるらしい。
……いや、亜神とその眷属をペットのカテゴリにいれて良いのかどうかは見解の分かれるところだろうが、とりあえずルーク本猫が自身を「ペット」と言っていた以上、その意思を尊重せざるを得ない。
リスターナの眼の前に、バロメソースのスパゲティ、コンソメスープ、サラダの小鉢というメニューが並んだ。
眠っていたでかいウサギがパチリと目を開け、クラリスの隣に陣取る。どうやら食べさせてもらうらしい。「いただきまーす」という声は幼女のような響きで微笑ましい……が、緊張しきっている今のリスターナはそれを聞いても和めない。
「ささ、リスターナ子爵もどうぞご遠慮なく! あ、でもお口にあわなかったら別のものをご用意できますので、お気軽にどうぞ!」
「い、いえ、そのような、恐れ多い……あの、いただきます……」
見た目は赤い。しかし、「赤い」からといって「辛い」とは限らない。料理、しかもソースで赤いとなると唐辛子を使ったものをまず連想してしまうが、リンゴやいちご、山桃、それにぶどうを原料とした赤ワインなども、赤いことは赤い。
――もっとも、リンゴやぶどうの赤さは「皮」だけで、中身は赤くない。一方でトマト様という野菜は中身も赤いらしい。
震える手付きでフォークを差し込み――ソースを絡めた適量のパスタを、口へ運ぶ。
最初に感じたのは、旨みと渾然一体になった酸味――酢の酸味とはまったく異質な、それでいてレモンや柑橘類とも違う、経験のない味だった。
臭みはなく、むしろ甘みすら感じる。麦芽糖なども隠し味程度には入っているかもしれないが、これは主に玉ねぎの甘みか。他には、オリーブオイルといくつかの 香辛料(スパイス) の風味、具材にはすりつぶしてから粒状に成形したバロメの実……
ソースの絡んだそのひき肉のような具材が、口の中でパスタとはまた別の食感を生んでいる。
赤く辛そうな外見からは想像もつかない、調和のとれたその優しい味わいに、リスターナはしばし硬直した。
……ネルク王国は、比較的、食べ物の美味い国ではある。しかしそれは、 肥沃(ひよく) な土からとれる作物の、その素材の良さに依存する面が強く――調理の技法やレシピなどにおいては、ホルト皇国のほうが進んでいると思っていた。
その差は、たった今。
目の前で、ひっくり返された。
「いかがですか、リスターナ様? お口にあいます?」
「………………たいへん……たいへん、美味です……」
なかば呆然としつつ、リスターナは猫からの問いに応じる。
トマト様のバロメソース。
バロメの実はホルト皇国にもあるから、トマト様以外は知っている食材だと思われる。
つまりこの未知の旨さはトマト様の味そのものであり、神がこの地にもたらした恵みだった。
猫は嬉しそうに笑っている。
「よかったです! トマト様はいろんな料理に使える素晴らしいお野菜なのですが、特にパスタとの相性は抜群でして――こちらのバロメソースは、今のネルク王国内でとれる素材だけで作り上げた、トマティ商会の主力商品です。何年先になるかはわかりませんが、いずれはホルト皇国にも輸出したいですねぇ」
「それは……素晴らしい。ホルト皇国の民も……こぞって、買い求めるでしょう……」
声は意図せず震えた。
この品を食べて……彼は悟ったのだ。
亜神ルーク様こそが、この世界に「新たな恵み」をもたらすために遣わされた、豊穣の神である――と。
外交官としての仮面は剥がれ落ち、彼は今、 敬虔(けいけん) な信徒へと脱皮しつつあった。
これは唐突な変化ではない。
リスターナをはじめとして、ホルト皇国の民はそもそも信心深い。魔族に対する畏怖の念も、その信心深さゆえである。純血の魔族は『亜神の核』をその身に受け継いだ、いわば亜神の分体のようなものであり、人よりも神に近い。
そしてこのルークは、本物の『亜神』であるらしい。それもおそらくは、人に対して友好的な豊穣神――少なくとも、災厄をふりまく破壊神の類ではない。
その時点で、この猫は間違いなく「信仰に値する存在」だった。
リスターナは背を伸ばし、座椅子から身をずらすと――その場に平伏した。
「……ほあ?」
亜神ルークが目を丸くする中、リスターナは神への宣誓をおこなう。
「……亜神ルーク様。伏してお願いを申し上げます。私をどうか、貴方様の信徒の末席へお加えください。許されるのであれば、この身命を賭してお仕えする覚悟です」
自分が外交官として生きてきたのも、すべては今日、この時のため――そんな天啓を得た思いだった。
「……………………ふぇぇ」
猫の口から、変な声が漏れた。