作品タイトル不明
550 成就
五百五十
「目を、覚ましませんね……」
暫しの沈黙が続いたところで、メルフィがぽつりと呟いた。
これまでは、そのまま消えいってしまいそうなほどに希薄だったリーズレインだが、アナスタシアの接触により姿が見えるようになった。
それは劇的な変化といえるが、現状はそれ以上の反応が何もないのだ。
「リーズレイン様……!」
流石のアナスタシアも不安なのだろう、その声は震えていた。手を握っても、彼の手は開かれたまま。彼女の手を握り返す事もなかった。
『間に合わなかったというのか……』
もう既に目覚めるだけの力すら涸れ果てているのかもしれないと、沈痛な言葉を口にする精霊王。
『いえ、まだよ。まだ何か方法が絶対にあるはずよ!』
待ち望んでいたアナスタシアの呼びかけにも応えないリーズレイン。その状況は最悪の事態までも想起させるものであったが、それでもマーテルは希望を捨てていなかった。アナスタシアとリーズレインの物語を悲恋のままで終わらせてたまるかと、ますます熱く激しく燃え上がっていく。
「ふーむ、何か別の方法は──」
アナスタシアさえ連れてこれれば、どうにかなる。そんな考えだったが、事はもっと複雑で深刻そうだ。
ではいったいどうすればいいというのか。永い眠りについた者を、どうすれば目覚めさせられるというのか。
「──こういう時は、キスで目覚めるというのがお約束じゃがのぅ」
何かいい方法はないかと考えていたミラは、ふと頭に浮かんだそれを呟いていた。
古今東西、物語は多々あれど、このような場面においては古くから似たようなシーンが登場する。
脚色であったり改変であったり、元とは違う形になった物語もあるが、やはり愛の奇跡というのは共通して誰しも夢見るもの。
そんな夢のある目覚めの儀式、それがキスだ。
とはいえ大半の物語では女性側が眠っているため、現状は逆となっている。
「……!」
それこそ囁く程度の呟きであったのだが、今のアナスタシアの耳聡さは常軌を逸しているようだ。直後に目を見開き振り向いていた。
「ほ ん と う?」
キスで目覚める。僅かに浮かんだ希望を前に、それは本当の事なのかと問いかけてくる彼女の目は、思わず後ずさりそうになるほどギラついていた。
嘘だなんて答えたら呪い殺されるのではないかというくらいに鬼気迫った表情だ。
「いや、わしが知る物語的なあれではそういう展開もあったのぅ、というだけでじゃな。今回は状況も何も──」
本当かと問われても、現実にその状況に出くわした事など一度もない。それこそ作り話の定番くらいで、効果が確立されているわけではないと必死に弁明するミラ。キスした結果、何も起きなくても責任は負えない、呪われては堪らないと全力の責任逃れである。
「──その可能性もあるって事でいいのね!?」
どうにか目覚めのキス説を取り下げようとしたミラだったが、直後にアナスタシアが叫んだ。物語であろうと何であろうと、そういう方法があるという事実は確かに存在すると考えて間違いないかと。
アナスタシアの目は、色々と本気であった。それでリーズレインが確実に目覚めてくれるのなら、という確認をするためとは少し違う。どちらかというのならば、キスをするための大義名分として、その方法を求めているかのようにも見える。
「……あー、うむ。まあ、そうじゃな。物語の中でしか見た事はないが、とりあえず外部から何かしらの刺激を与えてみるという意味では、そういうのもあり……なのかもしれぬのぅ」
たとえ失敗に終わろうとも、その咎を負わされる事はなさそうだ。アナスタシアの目的を何となく察したミラは、むしろ彼女の望みを妨害しない方向で話を進める。特にこれといって変化のない今、キスという鮮烈な刺激を与えるのも変化の可能性の一つかもしれないと。
「なるほど、わかった! 貴女がそこまで言うのなら、私がやってみましょう!」
それとなく流れにのったところ、なぜかミラが強く推した形にされていた。急に、そのつもりはなかったが推薦されたから仕方がないという雰囲気を出し始めるアナスタシア。
「いや、わしは──」
何もなかったのなら、むしろ問題はない。だが、その接触が悪い方に転がる事だってあり得るわけだ。そうして何かしらの不都合でもあったとしたら、その責任を押し付けられるかもしれない。
そんな懸念を抱いたミラは、『そこまでは言っていない』『これ以上は自主性に任せる』という主張をしようとした。だが恋するアナスタシアが相手では分が悪い。ミラは彼女が放つ無言の圧に耐え切れず口を閉じざるを得なかった。
(なーにが巫女じゃまったく! 下心塗れの愛欲魔人ではないか!)
せめて心の中ではと文句を垂れ流すミラは、ただただ祈った。後はもう全てが上手くいって大団円になってくれますようにと。
『目覚めのキス! 素敵よミラさん! きっと大丈夫、これならいけるわ!』
キスによって齎される愛の奇跡。そんな理想的ともいえる未来に心を躍らせたようだ。脳内の方ではマーテルが勢いを取り戻し大はしゃぎであった。
『しかしなんというか、今更ながら以前よりも、こう……奔放になった感じだな』
死という経験を経て、巫女という重大な立場から解放されたからだろうか。生前の頃に比べ 素直(・・) になったようだと、今のアナスタシアについての感想を述べる精霊王。
『重く、の間違いではないじゃろうか?』
以前がどうかは知らないが、きっと重くなっているに違いない。ミラは、そう思った通りの印象を裏でぶちまけていく。
『あらあら、女の子っていうのは、いつだって好きな人の傍が一番なのよ。むしろ愛なんて重いくらいが丁度いいの』
愛のみならず恐れすらも抱きそうになるアナスタシアの圧力。けれどマーテルは、それも一つの素敵な愛でしかないと微笑ましそうだ。
「リーズレイン様……」
と、裏ではあれこれ騒がしくも、表では静かに状況が進んでいた。アナスタシアは少し高揚気味に、だが緊張した面持ちでリーズレインにそっと撓垂れかかる。
それから暫く、じっと身を寄せたままその手に触れた。
リーズレインの反応はない。アナスタシアがそこにいても、その声も温もりも彼には届いていないようだ。
ならばもう、この手段しかない。そういった面持ちでありつつも、少し嬉しそうに口角を上げるアナスタシアは、ゆっくりとその唇をリーズレインの口元へと近づけていく。
(……こ、こんな場面でも、ドキドキするものじゃな……!)
下心ありありな暴走娘のアナスタシアだが、美女である事に変わりは無い。そんな彼女がここにきて思わぬ艶っぽさを見せるものだから、少し感化されて興奮するミラ。
『いっけー、アナちゃん!』
なお、マーテルのテンションは最高潮に達していた。永い時を越えて遂に重なり合う事になるファーストキスとあってか、余計に高まっていた。
そうしてミラ達が見守る中、とうとうその瞬間が訪れる。アナスタシアとリーズレインの唇が、優しく触れあったのだ。
そのキスは、思わず美しいと見惚れてしまいそうになるものだった。リーズレインを深い眠りから呼び起こすため、そして今度こそ添い遂げるために交わされたといっても過言ではない。悲恋に決着をつけるという覚悟を秘めた、愛の口づけだ。
「……」
果たしてリーズレインは目覚めるだろうか。彼が深く愛した女性が今、そこにいる。そして彼の目覚めを願い、募り募った愛を目いっぱいに込めている。
「おおぅ……」
その効果は如何ほどか、愛の奇跡は起きるのか。と、緊張の面持ちで見守っていたミラであったが、徐々にその表情を引きつらせていく。
それは少々、愛を込め過ぎではないだろうかと。
静寂に包まれた神殿内の一室。そこから響いてくるのは、アナスタシアの吐息と艶めかしいキスの音。そう、なんとなくロマンティックなイメージのある目覚めのキスだが、今の彼女がするそれは、そんな生易しいものではなかった。
いうなれば、情事に至る直前などに交わされるタイプのキス。つまりは、ディープなキスであった。
(これは、なんじゃ。いったい何が起こっておる。童話なんかは、もっとこう微笑ましい感じじゃったろうが。いやいやいや、生々しいにもほどがあるじゃろう!? あ、ああ! そんなに絡めて。積極的、積極的が過ぎる!)
今のアナスタシアは、巫女という事で我慢してきたあれこれの全てを、ここで晴らそうとするかのような勢いだった。リーズレインが眠っているのをいい事に、あれやこれやと好き放題にしている状況だ。
愛が重いアナスタシアである。少し考えれば、こうなる事も予想出来たかもしれない。
思った以上の激しさに、自身の呟きを後悔し始めるミラ。もしもこれで目覚めたとしても、流石にこれはやり過ぎだとなり責任を負わせられるかもしれない。そして結果。リーズレインが不機嫌になったら、転移の術の可能性を失う事になり兼ねない。
なおマーテルは、『アナちゃんってば、あんなに激しく。愛ね、愛』などと、何故か感動気味だったりする。
(いやしかし……これ、どうすればよいのじゃろうな……)
リーズレインに目覚める様子はない。ならばここで止めておいた方がと考えるミラであったが、今のアナスタシアを止めるというのも、それはそれで怖いものがあった。
では、どうすれば穏便に済ませられるか。そう悩んでいたところだ。
「……む?」
不意に右手を握られたような不思議な温もりを感じて見てみると、いったい何がどうしたというのか。その人差し指に嵌めてある空絶の指環が仄かに光っていたのだ。
空絶の指環といえば、リーズレインと強い繋がりのあるものだ。それが今反応するという事は、もしやアナスタシアの事を感じ取っているというのか。
『これは……! ミラ殿、その指環にマナを注いでみてくれるだろうか』
いったい、どういう反応なのか。そう戸惑っていたところに精霊王の声が響いた。
『うむ、承知した!』
理由はよくわからないが、とにかく反応している今を逃さないためにと、ミラは直ぐに応じて空絶の指環にマナを注ぎ込んだ。
するとどうだ。本来は空間の断層を創り出して絶対防御を成すはずだが、今回は注いだマナがそのまま吸収されるだけで終わったではないか。
まさかの不発。こんな事は初めてだと不思議そうに空絶の指環を見つめるミラ。
「リーズレイン様!」
その数瞬後、驚きに喜びが混じったようなアナスタシアの声が響いた。
何事かと目を向けたところ、小さいながらも大きな変化が見てとれた。なんとリーズレインの手が、アナスタシアの手を握り返していたのだ。
そう、リーズレインが動いたのである。
しかし今は、それが限界。精霊王が言うに現在のリーズレインは、あまりにも深く永く眠り続けていたため身体を起こす力すら残っていない状態だそうだ。
だが、意識自体は戻ったという。ゆえに空絶の指環を通じて、動き出すためのマナを求めてきていたというのが、先ほどの指環の反応というわけだ。
(ふむ。つまりはバッテリーが上がり切った状態という感じじゃろうか)
寝ていた期間というのが流石に途方もなさ過ぎて、目が覚めても起きられないという状態は理解が及ばない。ただ何となく似たような状況を思い浮かべたミラは、ならばもっと送ろうと空絶の指環にマナを込めていく。
そうしてミラは、自身が有する半分以上のマナを空絶の指環に注ぎ込んだ。アイゼンファルドを二度は召喚出来るほどの量のマナだ。
すると遂に、その時がやってきた。空絶の指環に灯っていた光が消えたかと思えば、不思議な感覚が周囲を満たしていく。
気配だ。大きな何かに包まれるかのように、唐突に冬から春になったかのように、今居る空間全体に爽やかな温もりが広がったのである。
「リーズレイン様……ああ、リーズレイン様!」
その直後、アナスタシアの声が小さく響く。見るとリーズレインの目が、ゆっくりと開いていた。
目と目が合い、そのまま見つめ合ったアナスタシアは、次の瞬間に涙を目一杯に浮かべて泣き出した。
ついさっきまで感じられた妖艶さはどこへやら。喜びながら泣きじゃくる彼女は、甘えるように抱き着いて少女のように震えていた。
先ほどまでの情熱と積極性は、きっと不安だったからこその強がりでもあったのだろう。二度と目覚める事がなかったらという恐れを誤魔化していたわけだ。
「おはよう、アナスタシア」
震える彼女を、優しく愛おしそうに抱きしめるリーズレイン。
離れ離れになっていた二人は、途方もない月日を越えて、ようやく再会を果たしたのだ。
「おはようございます、リーズレイン様」
リーズレインの腕の中。アナスタシアは、万感の想いを込めて微笑んだ。すると、どうした事か。彼女の身体は仄かに光る粒子となって、解けるように消えていったではないか。
また、いつかの時のように抱きしめてもらう事。それこそが彼女の抱いていた本当の未練。そして今この瞬間に、彼女の未練は完全に成就したのであった。