作品タイトル不明
第7話
マリアが扉を開けると、かすかに古い紙の匂いが流れ出した。
広くはない小部屋の壁際には棚が並び、紐で括られた帳面や、封のされた書類箱がいくつも置かれている。
窓は小さく、昼間だというのに部屋の奥は薄暗い。
「こちらです♡」
マリアは迷いなく棚の一段へ手を伸ばし、薄い帳面を取り出した。
「これは?」
クラリスが尋ねると、マリアはにこりと笑う。
「近年の出入りの控えです。正式な大帳簿ではございませんけれど、日々の支出や納品を書き留めているものですね♡」
「よく見つけたわね」
「しまう場所が雑でしたので♡」
マリアは卓の上へ帳面を置いた。
クラリスは手袋をしたまま、それを開く。
ルシアンが、眉を動かした。
「……君が見るのか」
「ええ」
「帳面まで?」
「王太子妃教育の成果――と言えれば聞こえはよろしいのですけれど」
クラリスは涼しい顔で紙面へ視線を落とした。
「孤児院の件で、嫌というほど覚えましたの」
「孤児院で? ……そこまで見ていたのか」
マリアがにこにこと頷いた。
「クラリス様、帳面の粗を見つける目は、王家の会計官にも負けませんのよ♡」
「粗を探しているわけではありませんわ。 目についてしまうだけですの」
「結果的に、よく見つけていらっしゃいます♡」
ルシアンは少し複雑そうに、卓の上の帳面へ視線を落とした。
「……それで、ここにも同じ気配があるのか」
「さぁ。どうでしょうか」
クラリスはそう答えながら、指先で一行を示した。
「ただ、この香油と薬草の量は、少し多いですわね」
「多い?」
「ええ。離宮に常に病人がいるならともかく、静養用として備えるには多すぎます」
マリアが別の帳面を開く。
「こちらにも同じ名が出ています♡ 薬草、香油、眠りを助ける茶葉等など……。毎月、きちんと入っていることになっていますね」
「ことになっている、か」
ルシアンが低く呟いた。
その声は、先ほどよりわずかに硬かった。
クラリスは顔を上げる。
「実物は確認しましたの?」
「はい♡ 薬棚を見ましたが、新しい瓶は少なかったです。棚の奥にあるものは、封の色が古うございました」
マリアはにこやかなまま続ける。
「それから、医師の往診記録もございます。こちらも、月に何度かお名前が残っておりますね」
そう言って、マリアは別の紙束を卓へ並べた。
クラリスはその一枚を取る。
医師の名、訪問日、処方、支払い。
「……離宮に、そこまで頻繁に医師が来る理由がありまして?」
「少なくとも、最近はございません♡」
ルシアンが、書面から目を離さずに言った。
「……帳面の上だけ療養が続いている、ということか」
小部屋の空気が、わずかに重くなる。
クラリスはそれに気づいたが、今は問いたださなかった。
代わりに、帳面をもう一枚めくる。
「使用人の名簿は?」
「こちらです♡」
マリアがすぐに差し出した。
クラリスは名簿を開き、目を細める。
「侍女、下働き、庭師、夜番……ずいぶん人数がいることになっていますのね」
ルシアンが横から名簿を覗き込む。
「……この離宮に、それだけの人数がいるようには見えないな。どのくらい差がある?」
「少なくとも、三名は見かけておりません。名だけあるのか、別の仕事をしているのか、隠れているのかは、まだわかりませんけれど」
「……名だけ、か。ここまでそろうと、横領と見ていいだろうな」
「そう見るのが早いですわね」
クラリスはそこで一度言葉を切った。
「ですが、妙なのは医療費ですわ」
「医療費?」
「ええ」
クラリスは名簿を置き、先ほどの医師の往診記録と薬の納品控えを並べた。
「人件費も、食材も、帳面と現物が合わない。水増しがあるのは、まず間違いないでしょう」
「なら、医療費も同じではないのか」
「同じなら、まだ分かりやすかったのですけれど」
クラリスは静かに首を振った。
「医師代と薬代だけ、ある時期から今に至るまで、項目も金額もほぼ変わっていませんの」
「ある時期……?」
クラリスは古い控えの端にある日付を指先で示した。
「この年ですわ」
ルシアンの視線が、その数字で止まった。
「……俺と母上が、この離宮に来た頃だ」
小部屋の空気が、静かに沈む。
マリアも、そこで初めて口を挟まなかった。
「……つまり」
ルシアンの声は低かった。
クラリスは静かに目を伏せる。
「この離宮で隠されているのは、今の横領だけではないのかもしれませんわね」
ルシアンは答えなかった。
ただ、古い控えの端を押さえた指先だけが、わずかに強ばっている。
クラリスはそれを見て、これ以上は問わなかった。
小部屋の薄暗さの中で、古い紙の匂いだけが静かに残っていた。