作品タイトル不明
第15話
「クラーラ、この間も孤児院に行ったんだってね」
不意に向けられた言葉に、クラーラは小さく瞬いた。
「ええ。少しだけ」
「君のような方が婚約者で、誇らしいよ」
クラーラの婚約者はカップを持ち上げ、
穏やかな笑みを彼女に向けた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいですわ」
クラーラも、合わせるように口角を上げる。
「でも、無理はしないでくれ」
「……ええ。ほどほどに、いたしますわ」
にこやかに頷くと、彼は自然に話題を切り替えた。
「ところで、次の観劇だが――」
流れるように別の話へ移る声を聞きながら、
クラーラは黙って相槌を打った。
会話は滞りなく続き、場の空気も穏やかなままだった。
(……この人は)
言葉になる前に、その思考は胸の内に沈められる。
クラーラは観劇の演目について頷き、
求められるまま、会話をなぞった。
(私は、ちゃんとした婚約者でいられる)
その感覚だけが、静かに胸に残った。
◆
翌日の学園。
クラーラは図書館へ向かっていた。
返却期限の書き込まれた本を思い出しながら、
長い回廊を進む。
扉を押し開けた瞬間、
館内の空気がわずかに揺れた。
女子生徒たちが、理由もなく立ち止まり、
視線を泳がせている。
(……?)
その様子を不思議に思いながら歩を進め、
クラーラは視線の先に気づいた。
――あ。
書架の合間、閲覧席の一角。
肘をつき、片手で頁を押さえながら本を読んでいる人物がいる。
ルシアンだった。
肩の力が抜け、背筋はやや丸い。
視線は文字だけを追い、
周囲にはほとんど意識を向けていない。
(……変わらない)
クラーラは、わずかに息を整え、
返却台へ向かう足をほんの一瞬だけ緩めた。
視線の先で、彼が頁をめくる。
紙の擦れる音が、静かな館内に響く。
クラーラはその場に立ったまま、
まだ一歩も踏み出していなかった。
紙をめくる音が、ふと止んだ。
ルシアンが動きを止め、
ゆっくりと顔を上げる。
――目が合った。
ルシアンは瞬きを一つして、
わずかに目を見開く。
「……」
(あ……)
クラーラの胸が、
ひどく静かに鳴った。
ルシアンの表情が、ほんのわずかに緩む。
「……こんにちは」
クラーラは一拍置いて応える。
「……ごきげんよう、ルシアン殿下」
「……少し、用があって」
それだけ告げると、彼はそれ以上言葉を続けなかった。
「そうでしたの」
短い沈黙が落ちる。
背後で、誰かが椅子を引く微かな音がした。
図書館は、変わらず静かだった。
クラーラは抱えていた本に目を落とし、
ふと思い出したように顔を上げる。
「今度の夜会……お会いしますわね」
ルシアンは一瞬だけ目を伏せ、
静かに頷いた。
「……ああ」
それで会話は終わった。
クラーラは返却台へ向かい、
借りていた本を一冊ずつ差し出す。
(次に言葉を交わせるのは、公の場――夜会、か)
そう胸の内で区切りをつけ、
クラーラは図書館を後にした。
回廊に出ると、足音が石に小さく返った。
『どうして孤児院へ行くの?』
その問いだけが、胸の奥でよみがえる。
「……」
クラーラは歩みを止めなかった。
回廊を進んでいると、明るい声がかかった。
「あら? クラーラ様、ごきげんよう」
クラリスだった。
頬を上げた笑み。いつもより少し高い声。
「……ごきげんよう、クラリス様」
クラーラは軽く礼を返す。
「うふふっ、失礼しますわ」
クラリスはそのまま、軽やかな足取りで図書館の方へ向かっていく。
迷いのない背中だった。
◆
「殿下♡ お待たせしました♡」
弾んだ声に、ルシアンが顔を上げる。
「ああ……」
気の抜けた返事。
「では、いきましょうか♡」
そう言うと、クラリスはためらいなく彼の腕を取った。
「……うん……」
ルシアンはそれに逆らわず、歩き出す。
二人の足音が、静かな館内に重なっていった。