軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 押し花

マルタからの手紙が、郵便馬車で届いた。

封を開ける前に、紙の匂いを嗅いだ。あの屋敷の書斎の匂い。インクと、古い羊皮紙と、少しだけ蝋の匂い。マルタの字は上手ではない。ペンを握る手が太くて、力が入りすぎる。でも丁寧に書いてくれていた。

侯爵領の状態のこと。ヴィクトル様の地位が失墜したこと。リゼッタ様の様子のこと。

そして——リゼッタ様が、あのメモを見つけたのだという。

マニュアルの最後のページに挟んだ走り書き。「九月上旬までに白薔薇精油の備蓄を通常の二倍に」。読んでもらえるかわからないまま、最後の引き継ぎの日に挟んだ、あのメモだ。

リゼッタ様がそれを読んだのだと、マルタは書いていた。長い説明で。申し訳ないような口調で。

その後、リゼッタ様は何も言わなかったのだと。

誰も責めなかったのだと。

ただ——

「お嬢様は、最後まで……」

手紙はそこで途切れていた。次のページで、マルタの字は震えていた。ペンが揺れている。

「その様子を見て、私は申し訳ないと思いました。お嬢様への態度について。全てについて」

「リゼッタ様は、その手帳を読んで、何か大切なことに気づいたようです。どなたにも言っていません。でも、その表情は、別人のようでした」

最後まで何だったのか。最後まで患者のことを思っていた、ということか。最後まで手を抜かなかった、ということか。

あの人が——リゼッタ様が——私のメモを読んで、何かに気づいたのか。

「簡単」だと言ったあの人が。

手紙を机に置いた。しばらく動けなかった。

◇◇◇

朝、海に出た。

薬草の採集のためだ。新しい処方に使う葉を探している。ルカの本に載っていた記録と合致しそうな植物が、海岸から少し奥まった岩場にあるはずだった。

歩きながら、考えていた。

なぜ私はこの町を選んだのか。

港町ノーヴァ。地図で見つけて、「海を見たい」と思った。それだけの理由だと思っていた。

でも、昨夜、母の図鑑を読み直していて気づいた。図鑑の裏表紙に、母の手書きで「ノーヴァ」と書いてあった。住所だった。母の旧姓と、この町の住所。

母は、この町の出身だったのだ。

物心ついた頃にはもうベルモンテ領にいた。故郷の話はほとんどしなかった。だから知らなかった。

理屈ではない。ただ、馬車から降りた時、潮風の匂いを嗅いで「ここだ」と思った理由が、ようやくわかった。

岩場を降りて、砂浜に出た。朝日が海を照らしている。波が来て、足跡が消える。何度も。

砂の中に、何かが挟まっていた。

押し花だ。色は褪せているが、形は残っている。白い薔薇。

一瞬、自分が侯爵領で作ったものかと思った。庭の白薔薇を押し花にして、手帳に挟んでいたから。

でも違う。花弁の形が少し違う。侯爵領の薔薇ではなく、この海辺に咲く野薔薇だ。

誰かが——母かもしれない——同じように丁寧に作ったのだ。同じ白い薔薇を、同じやり方で。

手に取った。壊れそうなほど薄いのに、波にさらわれずにここにあった。

岩の裏側に、押し花を本に挟んだ跡があった。古い本の背表紙の切れ端。文字は読めないが、紙の質は図鑑に似ていた。

母もここで薬草を摘んでいたのかもしれない。母も同じ岩場を歩いて、同じ潮風を吸って、同じ白い薔薇を見つけて。その花を本に挟んだのかもしれない。

押し花を手帳に挟んだ。侯爵領で作った押し花は全部置いてきた。ここで、新しく一枚だけ持つことにする。

◇◇◇

夕方、薬局に戻った。

ルカは調合台で薬を作っていた。いつもの時間。いつもの作業。

「母の話を聞いてくれますか」

手は止めなかった。でも、聞いている顔だ。

「母は、この町が故郷だったみたいです。図鑑の裏に住所が書いてあって。知りませんでした」

「そうか」

「母も薬師でした。子爵家に嫁ぐ前は、たぶんここで薬草を摘んでいたんだと思います。海辺で押し花を見つけて——母が作ったものかもしれなくて」

手帳を開いて、押し花を見せた。ルカが覗き込んで、花弁の形を観察している。学者の目だ。

「野薔薇だな。この海岸に自生している種だ」

「ええ。侯爵領の薔薇とは違います」

「ここを離れて、ベルモンテ領に嫁いで、私を生んで。この町には戻らなかった」

沈黙があった。ルカが乳鉢の中身を見つめている。何か言おうとして、いつもの学術用語が見つからないらしい。

「……十分だろう」

「何がですか」

「お前がここで作ったもの。処方も、患者との関係も、この薬局の棚の並びも。全部お前が一から作った。それは——」

言葉を探している。首の後ろを掻く。

「——立派な成果だ」

結局そういう言い方になるのだ、この人は。「成果」。

「ありがとうございます。でも、成果という言い方は——」

「言い方が悪かった」

いつもの台詞。ぼそっと、付け足すように。

「……お前の母親がこの町を好きだったなら、お前がここにいることは、たぶん、正しい。俺にとっても」

ルカは仕事に戻った。私は何も言えなかった。「俺にとっても」が、まだ耳に残っていたから。

◇◇◇

手紙の最後に、マルタの追伸があった。

「お嬢様、ちゃんと食べていますか。痩せていたら許しませんよ」

笑ってしまった。マルタは変わらない。八年前も今も。侯爵領でもここでも。

返事を書こうとペンを持ったが、しばらく動けなかった。何を書けばいいのかわからない。

侯爵領のことは聞かない方がいいだろう。リゼッタ様のことも。ヴィクトル様のことも。聞いたところで、もう私にできることは何もない。

結局、一晩かけて書いた。三回書き直した。薬の処方箋なら一筆で書けるのに、手紙は難しい。

「ちゃんと食べています。ルカという人が毎朝、薬草茶を持ってきてくれます。今日は花茶でした。海辺で薬草を採って、新しい処方を作っています。母の図鑑が役に立っています」

書いてから気づいた。マルタは「ルカ」が誰か知らない。でも、書き直さなかった。四回目はもういい。

手紙を送った。

翌朝、フィオーレが来た。

「先生、明日の患者さんの準備できました」

毎日の言葉。でも今日は、少し違って聞こえた。

明日がある。ここで。明日も患者を診る。ここで。

窓の外に、母が見ていたはずの海がある。

「ありがとう、フィオーレ」

「先生、今日は顔がいつもより優しいです」

「そう? いつもと同じだけど」

「嘘です。全然違います」

この子は遠慮がない。まあ、いい。