作品タイトル不明
第3話 白薔薇の奥様、お元気で
「私がいなくても大丈夫」
そう思い込もうとしながら、朝の第五診療所の記録簿に目を通す。
患者の名前と処方の履歴。「田中の母——冬場の咳。今年は八月に予防薬を」「小作人の娘——日中の頭痛。水分補給と月見草オイル」。走り書きばかりだ。
けれど、この走り書きがなければ、季節が巡ってくるたびに患者は同じ症状で苦しむことになる。
「カティア様」
若い薬師助手マリアが入ってきた。赤い目をしている。
「最後の発注、いつもの通りルグラン商会で?」
「ええ。今月分をお願いしてきました。来月からは……」
言葉が詰まった。
「——来月からは、奥様の方で」
マリアが眼鏡を外して、目頭を押さえた。このところ、皆そういう顔をしている。
私は診療所の一室を一周した。八年間、毎日ここで手を動かした場所。調合台、乾燥棚、ガラス瓶の列。全部がそのままで、全部が明日からは誰かほかの人のものになる。
「大丈夫ですよ。マリア」
「……本当ですか」
「ええ」
本当か嘘か、もう区別がつかなかった。
「これまで私が教えたやり方で、きちんとこなしてください。患者さんはあなたたちを見ています。大丈夫だと信じていますから」
自分の言葉じゃなくて、誰かから聞いたセリフのようにも思える。八年間、何度も繰り返してきた台詞。
◇◇◇
最後の巡回は午後いっぱい。
第一診療所では看護手のティナが涙ぐんでいた。第二では処方箋の整理方法をもう一度確認された。第三は山道で疲れた。第四では領民の人たちが寄ってきて、何度も「ありがとうございました」と言ってくれた。
「白薔薇の奥様、本当にありがとうございました」
年老いた女が、私の手を握った。
「お祖母さん、まだお体の方は」
「ああ、おかげさまで。あなたのお薬がなかったら、もう五年前に逝ってたと思いますよ」
「そんなことはありませんよ」
けれど、多分本当のことだ。その女の処方箋には「秋冬の関節痛。毎年八月に予防薬」と書いてある。
「これからもお体を大切になさってください。新しい……」
新しい誰かのこと、は言わなかった。
道を戻る途中、別の老女に会った。自分の患者の一人だ。名前はセルジェ。五年前、膝の痛みで診療所に来た。毎月、月見草の根の干したものを処方している。
「白薔薇の奥様! お疲れ様です」
セルジェが私の手首をつかんだ。その手は温かかった。
「セルジェさん、お怪我ですか」
「いいえ、お薬のおかげで。膝も楽になりました」
この女は毎年、秋になると膝が痛むはずだ。冬になるとさらに悪化する。だから八月に予防薬を渡していた。
新しい医者が、そのことを知っているだろうか。記録には書いてある。マニュアルには書いてある。けれど、患者の顔を思い浮かべながら処方する、その部分は——。
「これからも身体を大切にしてくださいね」
「ああ、もう十分です。あなたのお薬があれば。どうぞ、お幸せに、奥様」
セルジェが涙ぐんでいた。
私はもう、答える言葉がなかった。
屋敷に戻ったのは夕方だった。
◇◇◇
侍女長マルタが玄関で待っていた。
八年間、毎朝この人が私を迎えてくれた。白髪の厳しい顔をしていても、この人の手は温かかった。
「お疲れ様です、奥様——いいえ、もう奥様ではありませんね」
「マルタ、今日で本当に最後です」
マルタが何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。その顔が急に崩れた。
「お嬢様……」
「マルタ」
膝をついて、この老女の手を取った。爪が黄色くなっていた。もう七十を超えている。
「お嬢様、どうかお幸せに」
マルタが私の手を握り返した。握力が強い。涙が頬を伝っている。
「この領地で、あなたほど誠実な人を見たことがありません。あなたの後任の奥様も、いつかあなたのようにならなくてはと思いますが——」
「——マルタ」
唇が震えた。これはいけない。泣いてはいけない。
「もう大丈夫です。あなたも、みなさんも」
マルタの目を見ずに、立ち上がった。
「こちらが最後の医療記録の控えです。診療所ごとの患者リスト、季節ごとの用意、それぞれの助手への指導内容。全部マニュアルに書いてありますから」
声が揺れた。
「頑張ってください」
マルタは何も言わなかった。ただ、泣いていた。
◇◇◇
仕事部屋に入ると、封筒が机の上にあった。父の字だ。
『カティアへ
お疲れだったな。八年も、よく頑張った。あの領地で何ができたか、お前自身が一番知っているだろう。
外部からはどう見えるかは知らない。だが、お前の仕事が無駄ではなかったことを、誰かは見ている。それで十分だ。
もう十分だ。帰っておいで。
父より』
十年ぶりのような感覚で、目から水が出た。
机に封筒を置いて、壁に背をもたれた。呼吸を整える。涙は止まらない。八年間、一度も出さなかったものが、急に堤防を決壊させたみたいに流れてくる。
◇◇◇
夜明け前、馬車に乗った。
トランクは後ろに固定された。母の薬草図鑑が中に入っている。乳鉢と乳棒も。あとは、白い手袋と、着替えと、父からの手紙。
馬車の中で、マルタが詰めてくれた弁当を見た。温かい。匂いを嗅いでみると、おかゆ。その下には胃薬が布に包まれて入っている。
マルタ、最後まで心配性だ。八年間、この人が何度も私の身体を心配してくれた。朝に熱を計られ、夜に「お温みになってください」と言われ。
一度だけ、本気で病気になったことがある。三年目の冬。流行病が領地を襲った時だ。自分も患者を治すために動いていたら、同時に患者になった。マルタはその時、三日三晩、私の枕元を離れなかった。
もう会えないんだ、と思った。
馬車が城門を出た。
領民が見送りに来ていた。朝が早いのに。二十人、いや三十人はいるだろう。
「白薔薇の奥様、お元気で」
「ご幸せに」
「ありがとうございました」
老人も、子どもも、農民も。皆が私を見ている。
手を上げた。
「皆さん、ありがとうございました。もう十分です。——大丈夫じゃなくても、もう私の仕事じゃない」
声が小さかったと思う。けれど、誰かが「頑張ってください」と言ったのが聞こえた。
馬車は進む。
後ろを向いて、領地が遠ざかるのを見た。白い診療所の屋根が見える。薬草畑が見える。もう関係ないのだ。
目をそらした。
前を向く。南に向かう道。風が潮の匂いをもたらしている。海が近い。
八年間、一度も見たことのない海。
「どこへ向かっているんですか」
馬車夫が聞いてきた。
「港町ノーヴァです。海を見たいので」
「あと三日かかりますな」
「ええ」
まあ、いい。もう急ぐ必要はない。
弁当を開いた。おかゆは温かい。喉を通す。胃薬の匂いがする。薬っぽい、というより、家のような匂いだ。
これからどうするのか、具体的な計画は何もない。港町ノーヴァにたどり着いて、薬師として生きていく。それくらい。
けれど、初めて自分で選んだ食事というのが、なぜか、涙が出そうだった。
八年ぶりに、自分で選んだ。