作品タイトル不明
皇太子は、まだ還りたくない
どこかで、自分の名を呼ばれた気がした。
物凄く遠いどこかから、聞き慣れた声で誰かが自分を必死に呼んでいる。
カイルはソファーの上で、体に掛けていたブランケットを無意識に蹴り落とした。眠気で朦朧とし、今自分が既に夢の中にいるのか、まだ起きているのかが曖昧だ。
(――ここはどこだ? 俺は本来いるべきところに戻らなくては)
寝返りを打った刹那。
伸び切っていたゴム紐が縮むように、カイルは意識が引っ張られていくのを感じた。
彼を呼ぶ声は次第に近くなっていき、やがて誰かが歌を歌い始める。非常に耳障りな歌声だ。
やめてくれ、これ以上俺の耳元で歌ってくれるなと訴えたくて、異常に重たい瞼を渾身の力で開く。瞼を割って暗闇が破れるような眩い光が差し込み、カイルはそこに向かって全意識を集中させた。
「殿下ぁぁぁぁッ!! ああッ、殿下。お戻りになられたのですね!」
耳元の歌声が止んだ刹那、視界いっぱいに広がったのはゴツい男の顔面だった。
四角い顔にうっすらと赤い髭が生え、目に濃い緑色のアイシャドゥをしている。唇は目が覚めるような鮮やかな赤い口紅を塗っている。
「アタシの歌が、効いたのね! やっぱり愛は魔術を超えるんだわ」
感激して涙ぐみ、自分を見下ろしているのは、筆頭魔術師のゴードンだと、バシレオスはすぐに気がついた。同時に、自分がゴダイバ帝国の皇太子宮殿の寝台に横たわっていることも。
(俺は、また宮殿にある自分の体に戻ってきたのか)
ゴードンの頭の上には寝台の天蓋が見え、皇帝一家の家紋である杖と剣の交差する刺繍が施されている。
目を潤ませていたゴードンが、急に緊迫した顔つきに変わり、バシレオスの胸元に触れた。
だが、手が触れた感触はない。体はまだ凍っていて、麻痺しているのだ。
ただし、前回と違って今回は肘から先の感覚が蘇っていた。
バシレオスはまだ息をすることができなかったが、首は動かせた。
(だが待てよ。俺は今、果たして本当に体に戻っていいのか?)
そして口を動かせるだろかと悩んだすえ、吐き出すように掠れた声をあげた。
「すまんな、ゴードン。ちゃんと戻ってくると、約束する。だからまだ、少しだけ……」
魂は体に戻りたがっているのか、やっと帰ってきたとばかりに体に馴染もうとしている。ここできちんと呼吸をすれば、魂は体に定着し完全に一体化するだろう。
だがバシレオスは躊躇してした。
(こんなろくに動かせもしない体に今戻ったとして、何になる?)
それよりも自由で気楽な立場で、リンツ王国の一般の人々の中に溶け込み、自分が将来導き守らなくてはならない彼らを理解できるこの機会をなくす方が損失が大きい。
いや、何よりリンツの片隅で懸命に生きるシェリィとの別れは、今ではないはずだ。
脳裏に蘇るのは、いつかの朝に急にいなくなったカイルを探し回り、彼が潜む納戸扉を開けた時の、シェリィの悲しみと安堵の混ざった顔だ。
シェリィの前から急に消えてしまうことだけは、避けなければ。
そう思ってバシレオスは再び目を閉じ、もう一度公爵邸の敷地の片隅にあるあの家を目指した。
「ああだめ、殿下! お願い、息をしてぇぇぇぇっ!」
ゴードンが叫ぶ声が、再び遠ざかっていく。