作品タイトル不明
56 番外編 『家族の肖像画』
クリスティアンが大きな鏡を特注で作らせたのは、最初の子オーウェンが生まれてしばらくしてからのことだ。
厳重に梱包され、荷馬車で運び込まれた鏡は、オルブライト家のホールに設置された。
アンバーは侍女マーサがなんて言うだろうか、と働き者の侍女の顔を見ている。
マーサはアンバーの期待を裏切らなかった。
きっと彼女なら言うだろうな、と思っていた「これはまた、高価そうな」というつぶやきを聞いて、アンバーとクリスティアンは苦笑してしまう。
「マーサ、たしかに結構な値段だったけど、それだけの価値はあると思うよ」
「クリスティアン様、大きな鏡があると部屋が広く見えるらしいですね」
「まあ、そういう役目もするだろうけど、僕が鏡を欲しいと思ったのは他の理由だよ」
「なんでございましょう」
「家族の絵を描きたいと思ったんだ」
アンバーも最初は「家族の絵を描くのに鏡?」と思ったのだが、クリスティアンの話を聞いてすぐに納得した。
クリスティアンは目に映った景色を記憶して絵を描く。クリスティアン自身を含めた家族の絵を描きたいと思ったら、確かに鏡は必要だ。
アンバーはすでに、お気に入りの落ち着いた色調の赤いドレスに着替えている。
クリスティアンは白いシャツに黒のズボン。サスペンダーをつけている。
「ジャケットを着なくていいの?」
「僕がいつも絵を描いている雰囲気にしたい。さすがに絵の具だらけのシャツってわけにはいかないから、真っ白なシャツにした」
「あなたらしくていいと思うわ」
「ありがとう」
クリスティアンが顔を近づけてきて頬にキスをしてくれる。
そこへ純白のベビードレスを着せられたオーウェンが連れてこられた。オーウェンは眠っているところを起こされ、着替えもさせられたのに、ご機嫌だ。
「相変わらずいい子ね、オーウェン」
アンバーがとろけるような笑顔でオーウェンを抱き、頬を寄せる。
「あうー」
オーウェンが小さく声を出して、アンバーの顔に触れようとする。
「さあ、君はこの椅子に座って」
アンバーが椅子に座る。抱かれているオーウェンはアンバーを見上げている。クリスティアンはアンバーの椅子の隣に立った。
鏡を見つめるクリスティアンとアンバー。アンバーを見つめて手を伸ばすオーウェン。
大きな鏡には、長い年月の苦悩を経て、有名画家になったクリスティアンと、長年の哀しみを経て自由と家族と富を手にしたアンバーが映っている。
鏡を見ながらクリスティアンがささやいた。
「君はオーウェンを産んでから、以前よりも美しくなったね」
「いやだわ、クリスティアン。マーサが聞いているわよ」
「奥様、わたくしはいないものと思ってくださいませ」
マーサの言葉に、アンバーとクリスティアンが顔を見合わせて笑う。笑い終えて、アンバーはクリスティアンが納得するまで鏡の前で座っている。
クリスティアンが「はい、いいよ。楽にして」と言うまで数分かかった。
その日の夜、暖炉の前で二人並んで炎を見つめているとき、アンバーが昼間の鏡の前でのことを話題にした。
「ねえ、クリスティアン、あなたは動いている人を描くとき、一瞬の動きを記憶にとどめることができるでしょう?」
「うん」
クリスティアンはワインを飲みながら炎を眺めている。アンバーは鮮やかに赤いローズヒップティーを飲んでいる。
「今日、鏡の前で、あなたにしては結構長い時間、鏡を見ていたわね?」
「そうだね」
「珍しいことねと思ったわ」
「あれはね」
そこでクリスティアンは少し間を置いた。
「なあに?」
「絵を描きたいという心だけを抱えて放浪していたときに見た夢のことを思い出していた。『そのうち行き倒れて死ぬんだろうな』と思いながら放浪していたとき、一度だけ夢を見たことがあるんだ。まさにああいう夢」
「ああいう夢って?」
「僕を愛してくれて、僕を丸ごと受け入れてくれる優しい妻がいて、可愛い我が子がいて、僕は画家として成功している夢」
「まあ」
「その夢を見て、目が覚めて、思わず笑ったんだ。あまりに現実とかけ離れた夢だったから、むなしくてさ。そんな日がくるわけないだろうって、惨めな気持ちだった。だけどもしかしたらあの夢は『いつかこんな日が来るぞ』って、僕に知らせる夢だったのかも。そう思いながら鏡を見ていた」
「そうだったの」
クリスティアンはグラスの中のワインを飲み干し、遠くを見るような表情で話し続ける。
「神などいないと思って生きてきたし、今もそれほど信仰心があるわけではないんだけどね。あの日の夢にそっくりな自分を見ていたら、『もしかしたら神はいるのかも』と思ったよ」
アンバーはクリスティアンの豊かな金髪にそっと指をくぐらせて、その肩に額を乗せた。
「あなたはずっと先に訪れる場面を、夢で見たのかもしれないわね」
「その夢の中で、僕の前には赤いドレスを着た妻がいて、白いベビードレスの赤ん坊を抱いていたんだ」
「まあ。ドレスは何がいいか聞いたら、あなたは『君が着たいものを』としか言わなかったわよね?」
「うん。なのに君は夢の中と同じ赤いドレスを着ていた。それだけじゃない」
「んん?」
「夢の中の赤ちゃんも、その赤いドレスの女性に向かって手を伸ばしていた」
「そしてあなたはサスペンダーをつけて白いシャツで、黒いズボンだったの?」
「うん」
「夢の中の女性の顔は? 私だったの?」
「なぜか顔の記憶がないんだよ。顔の記憶があったら、初めて君と出会った日に、すぐにわかっただろうに。この人が僕の光だって」
不思議な話を聞いて、アンバーの心に閃いたことがある。
「ねえ、あなたが見た夢はそれだけ?」
一瞬、クリスティアンがピクリと動いたのをアンバーは見逃さない。
「なにか他にも夢を見たのね?」
「うん。僕は有名画家で、王家から絵の依頼がくるほど認められていて、次から次へと絵の依頼が入っていた」
「まあ。まるで今のあなたね」
「その頃は食べるものにも事欠く状態で、絵の具も買えなかったのに。寒さに震えながら野宿をするのもたびたびだった。だから……」
「だから?」
「僕は『ああ、ついに僕は妄想の世界で生き始めたんだな』と怯えた」
アンバーはその当時のクリスティアンを想像して胸が詰まる。自分も抑圧された長い年月を過ごし、すっかり自分に自信を失っていた。
だが、クリスティアンの経てきた苦労は、生死に直結するような苦労だ。
「あの日、あなたが倒れたのが、我が家の前だったのも、巡り合わせね」
「本当だ。まさかこんな展開になるなんて」
二人は肩を寄せ合い、そのあとは無言で暖炉を眺める。パチパチと薪がはぜる音だけがする静かな夜だ。
翌日からクリスティアンは猛然と家族の肖像画を描いた。
依頼された仕事で出かけても、家に帰ると絵に向かう。合間にアンバーと会話をし、オーウェンを抱いたり眺めたり。そしてまた絵を描く。
数か月後のある日、アンバーはやっとその絵を見ることができた。
「クリスティアン、これは……なんて素晴らしいのかしら」
「気に入ってくれた?」
「ええ。もちろんよ」
「もし君が嫌じゃなければ、毎年描きたいんだ。家族が家族として成長していく絵を」
「毎年? 私は嬉しいけれど、あなたが大変じゃない?」
「いいや。むしろ最優先で描きたい」
アンバーはそっとクリスティアンの手を取り、自分の両手で包む。
「楽しみ。毎年少しずつ年齢を重ねていく私とあなたとオーウェンが絵になって残るのね」
「オーウェンに兄弟ができるかもしれないよ」
「そうね」
それから毎年、二人の寝室の壁に、一枚ずつ家族の肖像画が増えていく。
三人だった絵は四人になり、オーウェンは少年になっていく。
二人目の赤ちゃんもすくすくと愛らしい少女に成長し、アンバーの艶やかな黒髪に白髪がちらほら交じるようになる。クリスティアンの目尻には笑いじわが刻まれる。
部屋の壁はたくさんの絵が飾られ、絵の中の人物が増えていく。
一番新しい家族の肖像画は、豊かな白髪を結い上げたアンバーと白くなった金髪をひとつに結んだクリスティアンが真ん中にいる。
その二人の左右に長男オーウェンとその妻。妹のアデルとその夫。子供たちには三人ずつ子が生まれ、六人の孫には結婚している者もいる。毎年一回、全員で集まってごちそうを食べ、鏡の前に並ぶ。それがオルブライト家の行事になっている。
「君と出会えたことが、僕の人生の最大の幸運だ」
「私もずっとそう思ってきたわ」
二人の老夫婦が、たくさんの肖像画を眺めてお茶を飲んでいる。
枚数が増えて寝室に飾りきれなくなり、家族の肖像画はホールに移された。
アンバーは壁に飾られているたくさんの家族の絵を眺めながら口の中でつぶやく。
「私は私の人生を、生きたいように生きられたわ」
「うん。僕もだ」
真っ白な髪になったクリスティアンが、アンバーのバラ色の頬を指先でなぞる。
「僕の人生に光を与えてくれたのは君だ」
「あなたは私の光そのものよ。暗闇にいた私を、あなたが照らしてくれたんだわ」
二人は手をつないで座ったまま、また壁の絵に目を向ける。
四十枚の絵の中の、どのアンバーも、楽しそうに笑っている。
「笑って生きてこられたのは、あなたに会えたからよ」
クリスティアンがそっとアンバーの肩を抱いた。