軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

55 『聖母子像』

輝王歴六百四十八年 二月七日

クリスティアンの仕事は三年も先まで貴族たちの予約で埋まっていた。

『春の女神』に感動したとある貴族が『夏の女神』を依頼し、それを聞いた他の貴族たちが慌てて『秋の女神』と『冬の女神』をそれぞれ依頼した。

絵姿の依頼は引きも切らず、肖像画も依頼が殺到している。

クリスティアンの絵はどんどん値が上がり、今や彼は大変な人気を誇る画家である。しかし彼を見出して専属契約をした画商のチャールズ・コナハンはクリスティアンに急かすようなことは一度も言ったことがない。

「客は待たせればいい。あなたの絵にはそれだけの価値がある。購入者に消費されるような画家になってはいけない。好きな絵を好きなように描けばいい」

今クリスティアンが仕上げているのは俗世での時間が残り少ないローズ公爵夫人に納める『聖母子像』だ。

教会のステンドグラスと祭壇を背景に象牙色のローブをゆったりと身にまとった聖母が乳児を抱いていて、乳児と聖母は互いに見つめ合っている。多彩な色の組み合わせのステンドグラスは聖アグナリウス修道院の壁にはめ込まれているものだ。

黒髪の聖母と濃い色の金髪の乳児は見る者の心に静かな波紋のような響きを与えた。たまたま用事でクリスティアンの部屋に入ったマーサは、完成した絵の前でしばらく呆然としたあと急に涙ぐんで「娘時代の楽しかったことを思い出しました」と言って絵に向かって祈り始めた。

修道院の院長である老女は(世間で話題の画家の絵とやらを私も見せてもらおう)と絵を携えて修道院にやって来たシスターローズの部屋に向かった。

そして壁に掛けられた絵の前で 跪(ひざまず) く彼女の姿に驚き、視線を壁の絵に向けて目を見開いた。

そこには生き生きと血の通った母子像が描かれている。絵を見つめていると自分がまだ十代の頃の、ある日の記憶が突然甦った。

「修道院に入って信仰に身を捧げよう」と決意した日の記憶が、その時の真っ直ぐで熱い気持ちと共に鮮明に思い出された。

「これは……まあ……なんという絵でしょう。私の少女時代の気持ちを昨日のことのように思い出させてくれましたよ」

するとシスターローズは微笑んで

「わたくしには『この国のために良き人を育てよう、皆の規範になろう』と誓った日のことを思い出させてくれました。あの日の自分に恥じないよう、親を失った子どもたちの育成を今後の課題にしようと心に決めたところです」

院長はシスターローズを説得して『聖母子像』を礼拝堂の壁、ステンドグラスの反対側に飾ることにした。

輝王歴 六百五十一年 五月一日

『聖母子像』が聖アグナリウス修道院の礼拝堂に飾られてから三年。

絵はじわじわと評判になり、聖アグナリウス修道院に飾られたクリスティアンの『聖母子像』は「清き心と記憶を呼び起こす絵」として国内はもとより国外からも人が訪れるようになっていた。

「おとうたま!リシュよ!」

「リス?どこだい?」

「あしょこ!」

トタトタトタ、とオーウェンがクリスティアンに駆け寄って木の上を指差した。

「本当だ。木の実を持ってるね」

「きのみ、おいしい?」

「美味しいんだろうねえ」

顔立ちのよく似た二人はリスを見上げながら楽しげだ。

ここはクリスティアンの森の隠れ家。

この季節にここに来ていたという老婦人の気持ちがアンバーにもよく分かる。風は爽やかだし、まだ夏の虫はいない。木陰を作ってくれる新緑は次第に緑を濃くし始めていて瑞々しく、木々の間を飛び回る野鳥は子育てに忙しい。

アンバーは庭のハーブを摘んで籠に入れていた。ミントを加えたハーブティーはつわりで食欲が出ないときに胃の調子を整えてくれる。オーウェンを授かっただけでも奇跡だと思っていたのに、三年たってまた神様は夫婦に贈り物をしてくれたのだ。

今、三人は医師の許可を得て森の隠れ家に静養に来ている。

今はバーもドレスショップの仕事も絵本専門店の仕事もおおよそは各責任者に任せている。アンバーはやっと経理を全面的に人に任せられる心情になった。アンバーが取り仕切る仕事は領地経営と作物の買い付けだけになった。

店舗の仕事を人に任せたおかげで領地経営に専念できる。領民たちの生活を底上げするのが今後の課題だ。

義母カーラは離婚してマーサやヘンリーと「三老会」なる集まりを週に一度開くのを楽しみにしている。ワインとおしゃべりとカードゲームを楽しんでいるらしい。

クリスティアンがオーウェンを抱いて石積みの家に入ってきた。

「やあ、いい匂いだね」

「もうすぐ生姜を入れたクッキーが焼き上がるわ」

「すっかりここの台所の使い方に慣れたんだね」

「ええ。ここに来ると気持ちも体も若返るようだわ」

「君はいつでも若々しいよ。僕だけ歳をとっていくようでヒヤヒヤする。例の夜会にはどうしても行くのかい?」

アンバーはゆったりと笑って「王家の招待を断る貴族なんていませんよ」と渋い顔のクリスティアンをたしなめた。

「陛下が君を見るときの表情がどうも気に入らないんだよね。人に気づかれないようにこっそりと君を見ている。僕の目はごまかせないのに」

「もう、お馬鹿さんね。おなかに赤ちゃんがいる女に変な目を向ける人なんていませんよ」

(それを言うならご自分のことを心配しなさいな。いろんな女性に狙われてること、わかってないのかしら)

アンバーの心の声に気づくはずもなく、クリスティアンはやれやれとため息をついて

「君はおなかに赤ん坊がいるときだって男たちを引き寄せてしまうからね。夜会に行くたびに僕は彼らを牽制しなくちゃならなくて疲れるんだよ」

アンバーは苦笑して、焼き上がった生姜入りクッキーをかまどから取り出した。オーウェンはこのクッキーをミルクと一緒に食べるのが大好きだ。

相変わらず美しい顔の夫はオーウェンと自分を眺めて表情を緩めている。彼が子供好きなのはライラの遊び相手をしている頃から知っていたが、我が子にはいつもとろけるような顔で接している。

アンバーは最近、自分が手に入れた幸せの多さにクラクラする時がある。今の自分の周りには、昔の自分が欲してやまなかったものがふんだんに溢れていた。

「生きていればこそ、ね」

突然つぶやいたアンバーの言葉の理由をクリスティアンは尋ねない。

生きることに価値を見いだせなかった娘時代のことをアンバーから聞いているのだ。

「そうだね。生きていればこそ、だね」

テーブルの上のアンバーの手にクリスティアンが大きな手を重ねた。

それを見たオーウェンが椅子の上に立ち上がり、身を乗り出して自分の小さな手も重ねた。アンバーとクリスティアンが顔を見合わせて笑う。

アンバーが晴れ晴れとした顔でクリスティアンに宣言した。

「あなたとの結婚は私の人生で最大の成功よ」