作品タイトル不明
殿下、その規定名に私の名前は要りません
さらに七日後。
王宮儀典日程室(おうきゅうぎてんにっていしつ) の 受付簿(うけつけぼ) には、 仮運用(かりうんよう) の赤い札が、まだ挟まっていた。
引用区分欄(いんようくぶんらん) 。
個人名接続可否(こじんめいせつぞくかひ) 。
軽微扱(けいびあつか) い可否。
完了表現可否(かんりょうひょうげんかひ) 。
根拠分類(こんきょぶんるい) 。
確認責任者(かくにんせきにんしゃ) 。
例外処理有無(れいがいしょりうむ) 。
総括・ 免責区分(そうかつ・めんせきくぶん) 。
線は増えた。
欄も増えた。
けれど、今朝の机は、いつもより静かだった。
ノエルが赤い札を指で押さえた。
「今日で、仮運用ではなくなるのですか」
「その予定です」
私は予定表を開く。
「 王妃陛下秘書官室(おうひへいかひしょかんしつ) が、 正式規定化(せいしききていか) の 回議(かいぎ) を行います」
「正式規定になると、もう日程室だけの欄ではなくなる」
「はい。王宮全体の様式になります」
ノエルは、少しだけ息を詰めた。
「すごいですね」
「すごいかどうかは、まだ分かりません」
私は受付簿の端を揃えた。
「規定は、名前がついてからが危ないです」
ベネット 卿(きょう) が 決裁印(けっさいいん) の箱を開ける。
「功績に見せた瞬間、手順は人を食う」
午前八時四十分。
王妃陛下秘書官室から、 封書(ふうしょ) が届いた。
ノエルが受付簿を開く。
「 差出部署(さしだしぶしょ) 、王妃陛下秘書官室。件名、 王宮文書取扱規定(おうきゅうぶんしょとりあつかいきてい) 改定案に関する日程室確認について。受付印あり。 回議番号(かいぎばんごう) あり。 封緘(ふうかん) あり」
ベネット卿が封緘を確認し、開封する。
文面は、いつもより厚かった。
本日、王宮文書取扱規定の改定案を関係部署にて確認する。
日程室は、仮運用期間中の実務担当部署として、手順上の確認を行うこと。
確認事項。
一、仮運用で使用した各欄が、正式規定において所管部署別に整理されていること。
二、日程室の提出文書が、王宮全体への命令ではなく、王妃陛下秘書官室への 具申(ぐしん) および実務報告として扱われていること。
三、規定本文、庁内通知、教材、 告示(こくじ) において、職員個人名を規定名または通称として使用しないこと。
四、 制定経緯(せいていけいい) を記す場合、発行主体、回議番号、決裁主体を明記し、起案担当者個人を 顕彰(けんしょう) 対象としないこと。
私は、三つ目で手を止めた。
職員個人名を規定名または通称として使用しないこと。
もう、向こうが先に線を引いている。
「今日の主眼は」
ベネット卿が尋ねる。
「仮運用の正式規定化と、個人名化の防止です」
「王太子府は何をしたがる」
「おそらく、感謝や顕彰の形で、規定の由来に個人名を載せたがります」
「だろうな」
ベネット卿は淡々と頷いた。
「人を守る手順を、人を飾る札にしてはならない」
午前九時五分。
王妃陛下秘書官室から、改定案の正本写しが回ってきた。
持ってきたのは、秘書官室の持参書記官だった。
直接持ち回りではない。
午前の 合同回議(ごうどうかいぎ) に載せる前の、日程室確認用の控えだった。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、王宮文書取扱規定改定案。回議番号あり。封緘あり。添付、制定経緯案、庁内通知文案、様式一覧」
ベネット卿が開封する。
私は、まず様式一覧を見た。
王宮文書取扱規定改定案。
追加様式。
一、引用区分欄。
二、個人名接続可否欄。
三、軽微扱い可否欄。
四、完了表現可否欄。
五、根拠分類欄。
六、確認責任者欄。
七、例外処理有無欄。
八、総括・免責区分欄。
ここまでは、問題ない。
次に、庁内通知文案。
翌月一日より、王宮文書取扱規定に上記各欄を追加し、庁内文書、 復命書(ふくめいしょ) 、公報文案、内部改善記録、教材作成、総括報告書に適用する。
所管。
王妃陛下秘書官室、総括。
法務官室(ほうむかんしつ) 、法務監修。
会計監査室(かいけいかんさしつ) 、費用および監査項目。
王宮公報室(おうきゅうこうほうしつ) 、公報文案。
王宮儀典日程室、日程および手順確認。
問題ない。
私は最後の添付を開いた。
制定経緯案。
本規定は、王太子府内部改善研修に際し、王宮儀典日程室主任調整官代理リディア・クラウゼンが試作した引用区分欄を基礎とする。
王太子府における一連の改善過程を踏まえ、同職員の実務上の貢献を庁内に記録し、今後の文書管理教育の基礎とする。
そこで、指が止まった。
ベネット卿も同じ箇所を読んでいた。
ノエルが息を呑む音が、すぐ横で小さくした。
「分類しなさい」
ベネット卿が言う。
「王宮文書取扱規定改定案に添付された制定経緯案です」
「問題は」
「規定本文そのものではなく、制定経緯案です。日程室職員個人名が、規定の由来および教育の基礎として接続されています」
「なぜ不可か」
「本件は、王宮儀典日程室統括官名義の具申および仮運用報告を、王妃陛下秘書官室、法務官室、会計監査室、王宮公報室等が確認し、王宮文書取扱規定へ組み込むものです。起案担当者個人を規定名または制定経緯の中心に置くことは、発行責任、所管、決裁主体を曖昧にします」
「ほかには」
「職員個人の実務経験を、本人名付き教材または顕彰記録として使用しないという、これまでの規定に反します」
ベネット卿は頷いた。
「返案を起案しなさい」
「はい」
私は羽根ペンを取った。
王妃陛下秘書官室宛て。
王宮文書取扱規定改定案に関する日程室確認について。
規定本文および追加様式一覧について、日程室として手順上の異議なし。
ただし、添付の制定経緯案について、以下の修正を要する。
原案。
本規定は、王太子府内部改善研修に際し、王宮儀典日程室主任調整官代理リディア・クラウゼンが試作した引用区分欄を基礎とする。
王太子府における一連の改善過程を踏まえ、同職員の実務上の貢献を庁内に記録し、今後の文書管理教育の基礎とする。
上記文案は、職員個人名を規定制定経緯および庁内教育に接続する恐れあり。
本改定は、王宮儀典日程室統括官名義の具申および仮運用報告を基礎とし、王妃陛下秘書官室、法務官室、会計監査室、王宮公報室等の確認を経て行われるものである。
起案担当者個人名は、回議履歴および日程室内部控えに留め、規定本文、庁内通知、教材、告示、制定経緯欄には使用しないことを提案する。
修正文案。
本規定は、王宮儀典日程室統括官名義により提出された引用区分欄等の仮運用報告、および関係部署の確認結果を基礎として、王妃陛下秘書官室が庁内文書管理手順として整理するものである。
制定経緯の詳細は、各回議番号、決裁主体、所管部署の記録により確認する。
職員個人の実務経験、氏名、心身負荷、 補填(ほてん) 処理履歴を、規定名、通称、教材名、顕彰記録として使用しない。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理(しゅにんちょうせいかんだいり) 。
リディア・クラウゼン。
書き終える。
ベネット卿が、文面を読む。
「よい」
「はい」
「自分の名を消したな」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「内部控えに置きました。外へ出す場所が違います」
ベネット卿の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「よろしい」
欄外に記す。
日程室確認済。
統括官決裁印(とうかつかんけっさいいん) が押される。
午前九時三十八分。
ノエルが封緘する。
王妃陛下秘書官室へ正本。
法務官室、会計監査室、王宮公報室、王太子府へ写し。
搬送者、ノエル。
ただし、四部署の写しは秘書官室の午前合同回議へ接続する扱いとし、ノエルは正本を秘書官室へ直接搬入する。
「走るな」
「はい。急ぎますが、走りません」
ノエルは早足で出ていった。
午前十時五分。
ノエルが戻ってきた。
「王妃陛下秘書官室への正本受領印あり。写しは午前合同回議の配布束へ接続済みです。秘書官室受付簿上で、法務官室、会計監査室、公報室、王太子府への回付予定を確認しました」
「よろしい」
ベネット卿が頷く。
ノエルは少しだけ口元を引き結ぶ。
「秘書官室の書記官が、制定経緯の個人名は回議履歴へ、と復唱していました」
「余計な説明は」
「していません」
「よろしい」
私は手元の控えを見る。
個人名は、回議履歴へ。
それだけで、十分だった。
午前十時四十分。
法務官室から通知が届いた。
王宮文書取扱規定改定案における制定経緯記載について、日程室返案の方針を妥当とする。
規定本文、庁内通知、教材、告示において、職員個人名を規定名、通称、制定由来、教材名として使用することは不可。
起案担当者名は、回議履歴、起案控え、内部保存記録に限り保存可。
私は、その最後の一文に触れた。
保存可。
その二文字は、消去ではなかった。
午前十一時十分。
会計監査室からも通知が届いた。
王宮文書取扱規定改定案における制定経緯記載について。
日程室返案の分類を採用可。
制定根拠欄には、個人名ではなく、発行主体、決裁主体、回議番号、所管部署を記載すること。
今後の様式改定記録において、以下の区分を設けることを提案する。
発行主体。
決裁主体。
回議番号。
所管部署。
起案控え保存先。
個人名公開可否。
教材接続可否。
顕彰接続可否。
ノエルが、その八項目をすぐに控える。
「個人名公開可否、教材接続可否、顕彰接続可否……」
彼が呟きながら、下書きの端へ細い三本の線を引いた。
羽根ペンの先が、紙の端を静かに割っていく。
午前十一時四十分。
王妃陛下秘書官室から、中間承認が届いた。
王宮文書取扱規定改定案について、日程室返案、法務官室通知、会計監査室通知を踏まえ、制定経緯案を修正する。
本日午後一時半までに、正式改定案の最終確認を行う。
日程室は、最終確認において手順上の確認のみ行うこと。
なお、職員個人名を規定名、通称、教材名、顕彰記録として使用しないことを再確認する。
午後一時半。
今日の期限は、規定そのものに引かれた赤線だった。
正午。
私は 文官携行食(ぶんかんけいこうしょく) を食べた。
無塩(むえん) の 硬餅(かたもち) 。
乾燥果実。
水。
ノエルは机上の公文書を避け、自分の席で硬餅を 齧(かじ) っていた。
「知られなくても、消えはしませんね」
ノエルが、硬餅を見つめたまま呟いた。
「はい」
私は水を飲んだ。
「残るべき場所に、残ります」
食後、水場で指先と口元を洗い、 麻布(あさぬの) で拭き、机を 刷毛(はけ) で払う。
午後一時二十分。
王妃陛下秘書官室から、正式改定案の最終確認回議が届いた。
持ってきたのは、秘書官室の持参書記官だった。
直接持ち回り。
午後一時半の定期便で承認控えを出すため、日程室の確認印をその場で回収する必要があった。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、王宮文書取扱規定改定正式案。回議番号あり。 回議板(かいぎばん) あり。先行部署、法務官室、会計監査室、王宮公報室確認印あり」
封緘ではない。
回議板の上に、確認印が並んでいた。
ベネット卿が読む。
私も横で確認する。
王宮文書取扱規定改定正式案。
追加項目。
引用区分欄。
個人名接続可否欄。
軽微扱い可否欄。
完了表現可否欄。
根拠分類欄。
確認責任者欄。
例外処理有無欄。
総括・免責区分欄。
制定根拠。
王宮儀典日程室統括官名義による仮運用報告。
王妃陛下秘書官室回議番号、七一四。
法務官室確認番号、二二九。
会計監査室確認番号、一〇六。
王宮公報室確認番号、三三一。
所管。
王妃陛下秘書官室、総括。
法務官室、法務監修。
会計監査室、監査項目。
王宮公報室、公報文案。
王宮儀典日程室、日程および手順確認。
個人名公開可否。
不可。
教材接続可否。
不可。
顕彰接続可否。
不可。
起案控え保存先。
王宮儀典日程室内部控え。
回議履歴保存先。
王妃陛下秘書官室。
私は、最後の二つを見た。
内部控え。
回議履歴。
私の名前は、そこに置かれる。
庁内通知には、出ない。
教材名にも、ならない。
「問題は」
ベネット卿が尋ねる。
「ありません。発行主体、決裁主体、回議番号、所管部署が記載されています。個人名公開可否、教材接続可否、顕彰接続可否はいずれも不可。起案控え保存先と回議履歴保存先も明記されています。手順上、異議なしです」
ベネット卿は確認票へ印を押した。
日程室異議なし。
持参書記官は一礼し、回議板を抱えて廊下へ戻っていった。
午後一時半。
王妃陛下秘書官室の午後定期便により、王宮文書取扱規定改定案の承認控えが届いた。
王宮文書取扱規定改定、承認。
施行日、翌月一日。
追加様式、引用区分欄、個人名接続可否欄、軽微扱い可否欄、完了表現可否欄、根拠分類欄、確認責任者欄、例外処理有無欄、総括・免責区分欄。
規定名、王宮文書取扱規定補則第八。
通称使用、不可。
職員個人名による呼称、不可。
教材名接続、不可。
顕彰接続、不可。
私は予定表へ記入した。
王宮文書取扱規定補則第八。
翌月一日施行。
通称使用不可。
個人名接続不可。
午後二時。
王太子府から、短い受領確認が届いた。
王宮文書取扱規定改定承認控えを受領。
翌月一日より、王太子府内部文書において補則第八を適用する。
日程室への追加照会なし。
リディア・クラウゼンへの謝意記録、所見要求、顕彰照会なし。
私は最後の行を見た。
顕彰照会なし。
新しい言葉が増えている。
けれど、それも、欄の中に収まっていた。
午後二時四十分。
法務官室から、庁内教材作成指針案が届いた。
追加欄。
規定名。
通称使用可否。
職員個人名接続可否。
起案者公開可否。
教材化可否。
顕彰接続可否。
回議履歴参照先。
所管部署。
ノエルが、手元の下書きへ静かにペンを走らせた。
「総括・免責区分の後ろに、制定経緯欄を置きます」
「広くなりますね」
「はい」
「何のために」
ノエルは少し考えた。
「名前を飾らずに、記録するためです」
ベネット卿が横から言った。
「悪くない」
ノエルが真顔で姿勢を正した。
午後三時。
王妃陛下秘書官室から、正式施行通知の庁内掲示文案が届いた。
以下、翌月一日より施行。
王宮文書取扱規定補則第八。
文書引用、要約、見出し化、標語化、個人名接続、軽微扱い、完了表現、根拠分類、確認責任者、例外処理、総括・免責区分に関する各欄を新設する。
本補則において、職員個人名を規定名、通称、教材名、顕彰記録として使用しない。
制定経緯は、回議番号および所管部署記録により確認する。
私は、その最後の一文を視線でなぞった。
乾いた黒い文字の並びが、王太子府が求めた 顕彰札(けんしょうふだ) の前に、冷徹な境界線を引いていた。
午後三時半。
私は、仮運用最終報告を起案した。
王妃陛下秘書官室宛て。
引用区分欄等仮運用最終報告。
仮運用期間中、日程室において以下の欄を試用。
引用区分欄。
個人名接続可否欄。
軽微扱い可否欄。
完了表現可否欄。
根拠分類欄。
確認責任者欄。
例外処理有無欄。
総括・免責区分欄。
適用対象。
公報文案。
復命書。
内部改善記録。
教材作成案。
総括報告書案。
効果。
一、職員個人名への称賛、謝意、反省、所見要求、顕彰接続を防止。
二、完了、問題なし、確認済、定着済、総括済等の表現について、根拠、責任者、例外、残存課題の確認を可能にした。
三、王太子府内部改善研修に関する各記録を、個人接続ではなく手順改善として整理した。
四、仮運用各欄を王宮文書取扱規定補則第八へ移行することについて、日程室として手順上の異議なし。
留意事項。
本報告は、日程室統括官名義の実務報告であり、起案担当者個人の顕彰、教材化、規定名接続を目的としない。
起案担当者名は、日程室内部控えおよび王妃陛下秘書官室回議履歴に留める。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
ベネット卿が読み終えた。
「よい」
「はい」
「最終報告だ」
「はい」
「寂しいか」
私は少し考えた。
「少しだけ」
ベネット卿は何も言わなかった。
統括官決裁印が押された。
午後三時五十分。
ノエルが封緘する。
王妃陛下秘書官室へ正本。
法務官室、会計監査室、王宮公報室、王太子府へ写し。
搬送簿に記録。
午後四時。
仮運用最終報告は、午後連絡便に乗った。
夕刻。
予定表を閉じる前に、私は私的な覚え書きの欄へ書いた。
手順は、人の名前を 冠(かん) するためではなく、人を次の負担から外すためにある。
羽根ペンを置く。
窓の外では、夕暮れの光が王宮の壁を淡く染めていた。
昔の私は、名前を消された。
成果からも。
失敗からも。
責任からも。
必要なときだけ呼ばれ、都合が悪いときには誰のものでもない紙が私の机に残った。
だから最初は、名前が残ることを怖がった。
消されることも。
載せられることも。
どちらも、同じくらい怖かった。
でも今は、少しだけ分かる。
名前は、載せればいいのではない。
消せばいいのでもない。
置く場所を間違えないこと。
規定名ではなく。
教材名ではなく。
顕彰札ではなく。
起案控え。
回議履歴。
責任の棚。
そこにあれば、十分だ。
ノエルが受付簿の赤い札を外した。
仮運用。
その文字が、机の上で静かに伏せられる。
代わりに、彼は新しい札を差し込んだ。
正式運用。
ベネット卿が決裁印をしまう。
日程室には、今日も紙の音だけが残った。
殿下。
その規定名に、私の名前は要りません。
本当に手順が変わったのなら。
誰かの名前ではなく。
次に守られる人の欄で、示してください。