作品タイトル不明
第403話:お目覚めと、雪夜のひそひそ話
ふと、意識がゆっくりと水面へ浮上してきた。
まどろみの中で、自分の腕の中やお腹のあたりに、何かじんわりと温かいものがあるのを感じる。
少しだけ鼻腔をくすぐる、甘くていい匂い。
それに……俺の右手は、なぜか小さくて柔らかい手を、ギュッと握りしめているような気がする。
「……ん……」
ゆっくりと重い瞼を開ける。
焦点が合うと、そこには俺の胸に寄りかかったまま体を少し捻り、至近距離でこちらを覗き込んでいる凛の顔があった。
「あ。おはよう、朝陽くん」
「……え? あれ、凛……?」
ふにゃりと笑う彼女の顔を見て、俺は一気に覚醒した。
そうだ、俺は凛の後ろに座って『人間のソファー』になっていて……そのまま寝落ちしたんだ。
慌てて握りしめていた彼女の手をパッと離す。
「ごめん! 俺、いつから寝てた!?」
「ふふっ、お昼ご飯の後、ちょっとしたらすぐ寝息が聞こえてきたよ。今はもう夕方の五時前」
「マジか……三時間以上も爆睡してたのか、俺。重かっただろ、ごめん」
「ううん、全然」
俺が慌てて身を起こそうとすると、凛は少しだけ心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできた。
「すごくぐっすり寝てたみたいだけど……体調悪いの? お腹痛いとか、どこか具合悪い?」
「いや、体調はすこぶる元気だ。全然悪くないよ」
「本当? ならいいけど……」
「ただ……その」
俺は少しバツが悪くなって、頭をポリポリと掻いた。
「腕の中がすごく温かくて、居心地良すぎたから……つい安心して爆睡しちゃっただけだ。俺の方こそ、集中してる邪魔してごめんな」
「っ……! ぜ、全然、邪魔じゃないし……っ。私こそ、朝陽くんがくっついててくれたから、お仕事すごくはかどったから……!」
俺が素直に理由を白状すると、凛は一瞬で耳の先まで真っ赤にして、慌てて視線を逸らした。
やっぱりこの距離感、お互いに心臓に悪い気がする。
「よしっ。それじゃあ、すっかり夕飯の時間だし、ご飯にするか!」
「うんっ! 私、すっごくお腹空いちゃった!」
照れ隠しのように立ち上がった俺の言葉に、凛がパァッと顔を輝かせた。
キッチンへ向かい、半日とろ火で煮込み続けていた大鍋の蓋を開ける。
その瞬間、部屋中に赤ワインとデミグラスソースの深く濃厚な香りが広がり、リビングにいた凛から「はぁぁ……いい匂い……」と歓声が上がった。
付け合わせに、ガーリックバターを軽く塗ったバゲットをトースターでカリッと焼き上げる。
深めのお皿にたっぷりとシチューをよそい、生クリームを少しだけ垂らせば完成だ。
「お待たせ。特製、牛すじのビーフシチューだ」
「わぁぁ……! すっごく美味しそう!」
こたつの上に並べられたご馳走を前に、凛は目をキラキラと輝かせている。
「いただきますっ」
凛が早速スプーンを手に取り、ゴロリと大きな牛すじ肉と、濃厚なシチューを一緒にすくって口へ運ぶ。
ハフッ、と頬張った瞬間、凛の目が見開かれた。
「んん〜っ……!! なにこれ、お肉がとろとろ! 噛まなくても口の中でホロリって溶けちゃう……!」
「数時間煮込んだからな。野菜の甘みもしっかり出てるだろ」
「うんっ! シチューの味がすごく深くて、お店で食べるやつみたい……! バゲットにつけて食べると最高だよぉ……」
氷の令嬢の面影など微塵もない、幸せそのものといった顔でシチューを堪能する凛。
その「美味しそうに食べる顔」を見ているだけで、俺の方まで胸とお腹がいっぱいになってくるのだった。
食後、お風呂も済ませてスウェット姿でくつろぐ、夜のリラックスタイム。
「さて、凛。今日は一日イラストの仕事頑張ってたから、マッサージは特別コースにするな。こっち向いて座れ」
「えっ、本当!? やったぁ……」
俺が声をかけると、凛は嬉しそうに俺の前にちょこんと座り、背中を向けてきた。
いつものように足先をほぐした後、今日は上半身を中心にマッサージしていく。
まずは、一日中ペンを握り続けていた右手。
親指の付け根や手のひらを、少し強めの力で揉みほぐす。
「……んっ、あ……そこ、すごく痛気持ちいい……」
「やっぱり結構凝ってるな。肩から腕にかけても張ってるぞ」
続いて、手首から肘、二の腕にかけてゆっくりと押し流すようにマッサージし、最後に肩や肩甲骨の周りをじっくりと時間をかけてほぐしていく。
「〜〜〜っ……はぁぁ……」
俺の大きな手で温めながら筋肉の緊張を解いていくと、凛の口からとろけるようなため息が漏れた。
気がつけば、凛の体からは完全に力が抜け、背中から俺の胸へと完全に寄りかかってきている。
まるで骨抜きにされたスライム状態だ。
「どうだ、少しは楽になったか?」
「うん……朝陽くんの手、すごくあったかくて……なんか、体ごと全部溶けちゃいそう……」
目を半分閉じたまま、ふにゃふにゃの笑顔で甘えた声を出す凛。
「はいはい。じゃあ今日はもう寝るか。ほら、立つぞ」
俺は完全にオフモードになった凛を支えるように立たせ、二人で並んで布団へと潜り込んだ。
部屋の明かりを消すと、静寂の中に窓を叩く微かな雪の音だけが聞こえてくる。
少し冷え込んだ部屋の空気とは対照的に、厚手の毛布に包まれた布団の中は、お互いの体温でぽかぽかと温かかった。
「……ねえ、朝陽くん」
「ん? どうした」
暗闇の中、隣から凛の小さな声が聞こえてきた。
二人だけの秘密の空間で交わす、夜のひそひそ話だ。
「明日は、何して過ごそうか? せっかくのお休みだけど、外はまだ雪みたいだし……学校の予習の課題はあるけど」
「そうだな。でも、凛は一番気になってたイラストの仕事、今日で全部終わらせたもんな」
「うんっ。だから明日は、心置きなくのんびりできるよ」
天井を見上げながら、俺は明日の『自由な一日』に思いを馳せる。
「……映画祭りにするか? サブスクで気になってた映画、まとめて何本か観るとか」
「あ、それいいかも! 私、前に朝陽くんが言ってたアクション映画、一緒に観てみたい」
「マジか。じゃあ、明日の昼間は映画のお供に何か作るか。夕飯のバゲットが少し余ってるから、フライパンで特製のシュガーバターラスクでも作ろうかな。あと、温かいココアも淹れてさ」
「わぁ……! サクサクで甘いやつだ! 絶対美味しい!」
「ふふっ。映画館みたいだね」
隣で凛がモソモソと寝返りを打ち、こちらを向いた気配がした。
「じゃあ……映画に飽きたら、前に買ったきりになってる二人用の協力ゲーム、一緒にやろ?」
「いいな、それ。ずっと積んでたし、ちょうどいい機会だ」
「うんっ……。なんだか、明日が来るのがすっごく楽しみ……」
少しずつ、凛の声が小さくなり、穏やかな寝息に変わっていく。
大雪で外には出られないけれど、俺たちにとっては、この温かい部屋の中が最高のテーマパークだ。
「……おやすみ、凛」
隣から聞こえてくる規則正しい寝息にそっと囁きかけ、俺もまた、明日へのワクワク感と温かい多幸感に包まれながら、静かに目を閉じるのだった。