作品タイトル不明
第401話:小さくなった包丁と、休校日
木曜日の朝。
目覚めて隣の凛の部屋から自分の部屋に戻り、リビングの遮光カーテンをシャーッと開けた俺は、思わず「おわっ」と声を漏らした。
「朝陽くん? どうし……うわぁ……! すっごい真っ白!」
パジャマ姿のまま俺の後ろからひょっこりと顔を出した凛も、窓の外を見て目を丸くしている。
昨日から降り続いていた雪は夜通し街を白く染め上げ、アパートの前の道路は完全に雪に埋もれ、見渡す限りの見事な銀世界になっていた。
「これ、玄関開けたら雪崩れ込んでくるんじゃないか?」
「ふふっ、かまくら作れそうだね」
窓ガラスに顔を近づけて、二人で外の景色にはしゃいでいたその時だった。
こたつの上に置いていた俺と凛のスマホが、同時に『ピロン』と通知音を鳴らした。
「ん? 学校の公式アプリからだ」
「えっと……『大雪及び寒波が週末まで続く予報のため、生徒の安全を考慮し、木曜日と金曜日は臨時休校とします』……」
画面の文字を読み上げた凛と、バチッと視線が交差する。
木曜日と金曜日が休校。つまり、土日と合わせて『四連休』が確定した瞬間だった。
「「……やったーっ!!」」
「週末までずっとお家だ! 雪道歩かなくていいんだ!」
「おじいちゃんたちからの差し入れもあるし、昨日スーパーで買い出ししておいて本当に良かったな」
両手を上げて喜ぶ凛とハイタッチを交わし、俺たちは温かい部屋で安心感を分かち合った。
一応、通知の最後に『各自、自宅で予習を進めるように』という一文もあったが、それについては毎日少しずつ無理のない範囲で進めれば問題ないだろう。
「とりあえず腹ごしらえだ。朝飯にするぞ」
俺がサッと作った温かいお味噌汁と、出汁をたっぷり含ませただし巻き卵、それに炊きたてのご飯で二人でしっかりと朝食をとる。
温かいご飯でお腹を満たした凛は、寒さ対策としてお気に入りのモコモコな『羊のルームウェア』に着替えると、気合を入れるように両手で頬をパンッと叩いた。
「よーし。時間がたっぷりできたし、納期は週末だったけど、今日中にイラストのお仕事を全部終わらせちゃおうかな!」
気合を入れるように両手で頬をパンッと叩き、凛は早速自分の部屋のデスクへと向かっていった。
凛が液晶タブレットに向かって凄まじい集中力を発揮し始めたので、俺も自分の時間を過ごすことにした。
キッチンのシンクに、水をたっぷりと吸わせた砥石をセットする。
休校で時間ができた時だからこそできる、愛用の包丁たちの本格的なメンテナンスだ。
まずは1000番の中砥石で、刃の形をしっかりと整えていく。
シャッ、シャッ、と、一定のリズムで刃が削れる小気味良い音がキッチンに響く。
続いて3000番の仕上砥石で滑らかにし、最後は8000番の超仕上砥石で刃先を鏡面のように磨き上げていく。
指の腹でそっと刃先をなぞり、引っ掛かりがないか、納得のいく仕上がりになっているかを確かめる。
「……ふぅ。とりあえず、一時間くらいか」
時計の針が十時を回った頃。
ちょうど柳刃包丁を研ぎ終え、布巾で水気を拭き取っていた時だった。
トテトテと足音が近づいてきたかと思うと、俺の背中にふわりと柔らかい重みがのしかかり、腰に細い腕が回された。
「お疲れ。イラスト、キリのいいところまで終わったか?」
「うんっ、少し休憩。……ぎゅーっ」
モコモコの羊姿のまま背中にピタッと張り付きながら、凛が俺の肩越しに手元を覗き込んでくる。
「朝陽くん、包丁のお手入れしてたんだね。……わぁ、すっごく綺麗。お顔が映りそうなくらいピカピカ」
「だろ? こまめに研いでおかないと、食材の細胞を潰して味が落ちちゃうからな」
「そっかぁ。……あれ? でもこの包丁、なんだか少し小さくなってる?」
凛が、俺の手元にある三徳包丁を不思議そうに指差した。
「ああ、これか。お肉や魚を捌くのに頻繁に研ぐから、刃がだんだんすり減って、買った時よりも一回りくらい小さくなってるんだよ」
俺が笑って答えると、凛は「そうなんだ……」と小さく呟き、俺の背中に回した腕の力を少しだけ強めた。
凛から伝わってくる温もりと、どこか嬉しそうな気配を感じながら、俺は「よし。それじゃあ夜のビーフシチューの仕込みを始めつつ、お昼ご飯の準備にするか」と包丁をしまった。
お昼までの残り二時間。
俺は綺麗に研ぎ澄まされたばかりの包丁で、大量の玉ねぎや人参、マッシュルームをスパスパと小気味良く刻んでいく。
下茹でした牛すじ肉と一緒に大鍋へ投入し、赤ワインとデミグラスソースを加えてとろ火でコトコトと煮込み始めた。
やがて部屋の中に、お肉と野菜が煮込まれる匂いが漂い始める。
「あさひく〜ん……いい匂いすぎて、お腹空いて集中できないよぉ……」
デスクから涙声で訴えかけてくる凛に、「ははっ、ごめんごめん。今お昼にするからな」と笑い返し、俺は昼食の仕上げに取り掛かった。
夜は時間をかけて煮込むこってりとしたビーフシチューなので、お昼はあっさりと温かいメニューにする。
細めのそうめんを使い、鶏肉とネギの旨味をたっぷり引き出した『鶏肉と柚子胡椒の 温麺(にゅうめん) 』だ。
「いただきますっ」
凛がお箸で麺をすくい、フーフーと息を吹きかけてからチュルンとすする。
「……ん〜っ! 優しいお出汁の味が染みるぅ……」
「柚子胡椒を少し溶かすと、ピリッとして体が温まるぞ」
「ほんとだ! 爽やかな香りが抜けて、すっごく美味しい! これならいくらでも食べられちゃうね」
あっという間に温麺を平らげた凛は、「エネルギー補給完了! 午後も頑張る!」と元気いっぱいにデスクへと戻っていった。
午後。
家事も仕込みも終え、特にやることもなくなった俺は、イラスト作業に集中している凛の後ろに座り込んだ。
「朝陽くん……?」
「ちょっと、背もたれ」
「えへへ……どうぞ」
俺が『人間のソファー』になるように後ろから凛を包み込むように座ると、凛も自然な動作で俺の胸に背中を預け、再びペンを走らせ始めた。
部屋の中には、とろとろに煮込まれるビーフシチューの極上の匂いが漂っている。
腕の中にすっぽりと収まる凛の、真剣に画面を見つめる横顔。
学校で『氷の令嬢』と呼ばれるその凛とした美しさと、俺の胸に体重を預けてくれている無防備さのギャップに、俺はどうしようもなく胸を甘く締め付けられていた。
(……集中してる時の凛も、本当に綺麗だな……)
外の雪はまだ降り続いているけれど、この部屋の中だけはどこまでも温かくて、平和だ。
特大の休校日がくれた、極上の特等席。
俺は愛しい彼女の横顔とシチューの匂いを堪能しながら、静かに目を閉じるのだった。