軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第287話:お泊まりの錯覚と、太陽と月のお鍋

ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。

「朝陽くん、来たよー」

パタパタと足音を立ててリビングに入ってきた凛は、可愛らしいデザインの紙袋を大事そうに胸に抱え、どこか誇らしげな顔をしていた。

「おう、おかえり。……その袋は?」

夕食の準備を少し中断し、エプロン姿のまま尋ねると、凛は少しだけドヤ顔を作って、えっへんと胸を張った。

「今日はね、パジャマと明日の分のお着替え、ちゃんと持ってきたよ。昨日の夜みたいなことにはならないから、安心して!」

その言葉に、俺は心底ホッと胸を撫で下ろした。

昨日の夜、脱衣所のドアの隙間から彼女の下着を取りに行かされたあのハプニングは、本気で俺の心臓の寿命を縮めたのだ。

今日はあの変な汗をかくような思いをしなくて済むらしい。

「そりゃよかった。……じゃあ、手洗ってうがいしてこい。ちょうど鍋ができるところだから」

「うんっ!」

手を洗って戻ってきた凛と一緒に、リビングのテーブルに向かい合う。

12月に入り、夜の冷え込みも本格的になってきた今日。

俺が用意した晩ご飯は、冬の定番『豚バラと白菜のミルフィーユ鍋』だ。

テーブルの真ん中に鎮座する土鍋のフタを開けると、昆布と鰹の合わせ出汁の優しい香りが、真っ白な湯気と共にふわりと立ち上った。

土鍋の中に敷き詰められた、豚バラ肉の鮮やかなピンク色と、白菜の葉の淡い緑色のコントラスト。

クタクタに煮込まれて甘みを増した白菜に、豚肉の旨味と脂がしっかりと染み込んでいる。

「わぁ……っ、すっごく美味しそう!」

「熱いから気をつけて食べろよ。ポン酢に、少しだけごま油と柚子胡椒を垂らすのがおすすめだ」

俺の言葉に頷き、凛は自分の取り皿にたっぷりと鍋の具を取り分けた。

小鉢の中でポン酢と絡め、フーフーと一生懸命に息を吹きかけてから、パクリと頬張る。

「はふはふ……おいしっ!!」

目を丸くして、熱さに少しだけハフハフと口を動かした後、彼女の顔はいつものように完全に「ふにゃっ」ととろけた。

「んん〜〜っ、美味しいぃ……! 豚肉の旨味が白菜にじゅわって染み込んでて、ぽん酢の酸味と柚子胡椒のピリッとした感じがたまらないよぉ……っ」

「はは、だろ? 冬はやっぱり鍋に限るな」

俺も一口食べる。

豚肉のコクと白菜の甘み、そこに柚子胡椒の爽やかな辛味がアクセントになって、箸が止まらなくなる味だ。

「おいひい、おいひい……っ」

「こら、ちゃんと飲み込んでから喋れって」

頬袋をリスのように膨らませながら幸せそうに鍋をつつく彼女の姿を見ていると、俺の胸の中までじんわりと温かくなってくる。

二人で鍋をつつき、テレビのバラエティ番組を見て笑い合い、食後の温かいほうじ茶を飲む。

(……ん?)

ふと、俺は不思議な感覚に陥った。

今はお泊まり二日目の夜という、俺にとってはかなりハードルの高い、緊張感のある非日常のイベントの真っ最中のはずだ。

しかし、こうして向かい合ってご飯を食べ、食後にお茶を飲んでくつろいでいるこの空気感は……。

(……よく考えたら、これっていつもの日常と全く同じじゃないか?)

普段から、凛は俺の部屋でご飯を食べ、俺の部屋のソファでくつろぎ、俺の部屋のお風呂に入っている。

『お泊まり』だからといって、何か特別なことをしているわけではない。

違うのは、最後に「じゃあ、おやすみ」と言って自分の部屋のベッドに向かうか、俺の部屋の床に敷いた布団に向かうか、ただそれだけの違いだ。

(……俺たち、寝る時以外は、もうずっと一緒にいるんだな)

その事実に改めて気づかされた瞬間、俺の心は、鍋の熱気とはまた違う、温かくて甘い多幸感で満たされていった。

食後。

「じゃあ、お風呂借りるね! ……今日はちゃんと着替え持ったから!」

と、念押しして脱衣所へ向かった凛は、宣言通り何のハプニングも起こすことなく、お風呂を済ませてリビングに戻ってきた。

「ふぅー、気持ちよかったー! 次、朝陽くんの番だよ!」

ほんのりと上気した頬と、彼女から漂う『カモミール&ミルク』の匂いに少しだけドキッとしつつも、俺もバトンタッチでお風呂に入る。

お互いに入浴を終え、パジャマ姿でリビングに揃ったところで、凛が提案してきた。

「ねえ、今日のストレッチとマッサージ、私の部屋でやろっか。……さっき描いてたイラストのラフ、朝陽くんにも見てもらいたいし」

「お、マジか。じゃあお邪魔させてもらうか」

二人で隣の凛の部屋へと移動する。

広々としたリビングのラグマットの上に座り、いつもの日課であるストレッチを始めた。

その後、俺は彼女の後ろに回り、凝り固まった肩や背中をゆっくりと指圧していく。

「ん……そこ、気持ちいい……」

「今日はずっとタブレットに向かってたもんな。肩甲骨の周りがガチガチだぞ」

「んふふ、朝陽くんの手じゃないと満足できないよ……」

(言い方!!)

猫のように目を細めて脱力する凛の肩を、優しく、じっくりと揉みほぐしていく。

カモミールの香りと、彼女の柔らかな体温。

「よし、こんなもんかな。お疲れ様」

「はー……極楽だった。ありがとう、朝陽くん」

凛はパタパタと仕事部屋へ向かうと、大きなタブレット端末を抱えて戻ってきた。

そして、少し照れくさそうにはにかみながら、俺の隣に座って画面を見せてきた。

「……これ、さっき描いてたラフ。どう、かな」

画面を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

「これ……ラフ、なのか?」

「うん。まだ色を塗る前の、イメージを形にしただけの段階だけど」

「いや、凄すぎるだろ……そのまま世に出せるんじゃないか?」

そこに描かれていたのは、温かい湯気が立つ大きなお鍋と、見ているだけで出汁の匂いやバターの香りが伝わってきそうな、優しい食卓の風景だった。

俺の顔やキャラクターを描くのではなく、『俺の作る料理』と『温かい空間』そのものを主役にしてくれている。

俺のチャンネルのコンセプトを、これ以上ないほど完璧に、そして最高に美しく表現してくれていた。

「すごいな……見てるだけで腹が減ってくる。色使いも温かくて、凛の優しさが滲み出てるみたいだ」

「ほ、ほんと……? よかったぁ……」

俺の絶賛に、凛はホッと胸を撫で下ろして嬉しそうに微笑んだ。

俺はさらに画面を食い入るように見つめ、そして、ある『小さな秘密』に気がついた。

コトコトと煮込まれているお鍋のフタの端っこと、お鍋の下に敷かれたランチョンマットの模様。

そこに、さりげなく、でも確かな存在感で描かれているマークがあった。

ポカポカと温かい『太陽』と、それに寄り添うような綺麗な『三日月』のマーク。

「……凛。これって」

「えっ、あっ……」

俺がそのマークを指差すと、凛はハッとしたように顔を赤くして、恥ずかしそうに俯いてしまった。

「これ……俺と、お前か?」

「…………うん」

消え入りそうな声でコクリと頷く彼女のつむじを見て、俺の胸の奥がきゅうっと締め付けられるように熱くなった。

ただの仕事として描いたんじゃない。

俺と凛、二人のチャンネルだという想いを、こんなに素敵な形で作品に込めてくれていたのだ。

「……ありがとう。最高だよ、このイラスト。めちゃくちゃ嬉しい」

俺が心からの言葉を伝えると、凛は顔を上げ、少し潤んだ瞳で俺を見つめ返した。

「えへへ……朝陽くんにそう言ってもらえて、私もすっごく嬉しい」

太陽と月が寄り添うイラストを挟んで、俺たちはどちらからともなく笑い合った。

お泊まり二日目の夜は、お鍋の熱気よりもさらに温かく、穏やかに更けていくのだった。