作品タイトル不明
第285話:熱々グラタンと、働く彼女
自分の部屋のオーブンに、チーズをたっぷりと乗せたグラタン皿を滑り込ませる。
タイマーをセットしてしばらくすると、焦げたチーズの香ばしい匂いと、濃厚なバターの香りがキッチンいっぱいに広がり始めた。
「よし、良い焼き色だ」
厚手のミトンで熱々のグラタン皿を取り出し、冷めないように急いで隣の凛の部屋へと運び込む。
リビングのテーブルの中央にドンッとそれを置くと、凛、翔さん、彩音さんの三人が「おおぉ……!」と感嘆の声を上げた。
「お待たせしました。特製・チキンとマカロニのグラタンです。火傷しないように気をつけてくださいね」
「「「いただきます!」」」
三人の声が重なる。
凛は待ちきれない様子で木製のスプーンを手に取り、表面のきつね色に焼けたチーズにサクッと切れ込みを入れた。
その瞬間、中からトロットロの純白のホワイトソースが、湯気と共に顔を覗かせる。
フーフーと一生懸命に息を吹きかけて冷まし、マカロニと一緒にパクリと頬張る凛。
「……んんん〜〜っ!」
もきゅもきゅと咀嚼した瞬間、彼女の顔が案の定「ふにゃっ」と幸せそうにとろけた。
「すっごく美味しい……! ホワイトソースがすっごく濃厚でミルクの甘みがあって、でもチキンの旨味もしっかり出てて……熱々で最高だよぉ、朝陽くん!」
「はは、よかった。マッシュルームも多めに入れといたからな」
続いて一口食べた翔さんと彩音さんも、目を丸くして顔を見合わせた。
「おいおい朝陽くん、これマジでお店出せるレベル! ホワイトソース、ダマ一つないじゃん!」
「ほんとだ、すっごく滑らか……! チーズの塩気とソースの甘みが絶妙だね。……これは凛ちゃんが胃袋を完全に掴まれるわけだわ」
「あ、彩音さんっ……!」
からかうように笑う彩音さんに、凛が顔を真っ赤にして抗議する。
そんな賑やかで温かいやり取りを交わしながら、俺たちは熱々のグラタンを綺麗に平らげた。
昼食後も翔さんの的確なレクチャーは続き、気づけば時計の針は15時を回っていた。
「――よし、今日はここまでにしておこうか。朝陽、あとは自分でいじってみて、わからないことがあったらLINEしてくれ」
「はい、ありがとうございます! 今日は本当に助かりました」
パソコンを閉じ、翔さんと彩音さんが帰り支度を始める。
俺と凛は、二人揃って玄関までお見送りに出た。
「美味しいグラタン、ごちそうさま。最高のお昼ご飯だったよ」
「またね!!」
ニヤニヤと笑いながら手を振る二人に「気をつけて帰ってくださいね」と返し、ドアを閉める。
カチャリ、と鍵をかけた瞬間。
賑やかだった部屋に、再び二人きりの、甘くて穏やかな静寂が訪れた。
「ふぅ……。翔さんたち、相変わらず仲良しで素敵だったね」
「ああ。編集もめちゃくちゃわかりやすかったし、本当ありがたいよ」
リビングに戻ると、凛は「んーーっ」と両腕を上に伸ばして大きく背伸びをした。
そして、気合を入れるように自分の頬を両手でパチンと軽く叩く。
「よしっ! 朝陽くん、私これから17時までには、朝陽くんの動画用のラフ画、絶対完成させるから!」
「え、俺の動画の? そんな、急がなくてもいいぞ?」
「ううん、私が早く描きたいの! だから……もう少しだけ待っててね!」
そう宣言すると、凛は足早に仕事部屋へと向かい、デスクの前に座ってペンを握った。
俺はキッチンで洗い物を済ませてから、自分の部屋に戻る前に、ふと仕事部屋のドアの隙間から中を覗き込んだ。
そこには、巨大な液晶タブレットに向かい、凄まじい集中力でペンを走らせる彼女の姿があった。
カチャカチャとショートカットキーを叩く小気味良い音と、画面の上を滑るペンの摩擦音だけが部屋に響いている。
プロのイラストレーターとして、一切の妥協なく作品と向き合う、凛とした横顔。
(……やっぱ、めちゃくちゃかっこいいな、こいつ)
しかも、彼女が今あんなにも真剣な顔で描いてくれているのは、他でもない『俺のため』のイラストなのだ。
そう思った瞬間。
俺の胸の奥で、どうしようもないほどの『愛おしさ』が、限界を突破してドクンと膨れ上がった。
気がつけば、俺は無意識のうちに仕事部屋に足を踏み入れていた。
足音を立てずに彼女の背後に忍び寄る。
画面に集中している凛は、俺がすぐ後ろに立っていることにも全く気づいていない。
(……怒られる、かな)
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、俺の腕は理性のブレーキを振り切って動いていた。
デスクに向かう彼女の背後から、そっと、でも逃がさないように力強く両腕を回し――彼女の小さな体を、『ぎゅっ』と抱きしめた。
「――――っ」
俺の腕の中に、すっぽりと収まる華奢な肩。
昨日二人で買った『カモミール&ミルク』の甘い香りが、彼女の髪からふわりと舞い上がる。
服越しに伝わる、じんわりとした確かな体温。
いつもなら、こんな不意打ちのスキンケア……いや、スキンシップをすれば、凛は「ひゃぅっ!?」と変な声を出して茹でダコのように真っ赤になり、慌てふためくはずだ。
しかし。
今は、完全に仕事モードに入っている状態。
「…………ん」
俺に抱きしめられた凛は、驚くどころか、動きを止めることすら一瞬だった。
彼女は俺の腕の中に、自分の体重を『こてん』と完全に預けて寄りかかってきたのだ。
「……あと、少し……」
小さくそう呟きながら、俺に包み込まれた状態のまま、彼女はまるでそれが当たり前の日常であるかのように、全くペースを落とすことなくタブレットにペンを走らせ続けている。
(……マジか。どんだけ無防備なんだよ)
完全に俺を信頼しきって、気を許しきっているその態度。
あまりにも予想外で、そしてあまりにも可愛すぎる反応に、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
背中から伝わる彼女の鼓動と、少し高くなった体温。
これ以上くっついていたら、俺の方がどうにかなってしまいそうだった。
俺は彼女の柔らかな髪にそっと自分の顔を埋め、その耳元で、誰にも聞こえないくらい小さな声で囁いた。
「……ありがと、凛」
そして、彼女の頭をポンと優しく撫でると、名残惜しい気持ちを振り切って腕を離した。
邪魔をしないように足音を消して仕事部屋を出た俺は、玄関で自分の靴を履き、隣の自室へと帰還した。
自分の部屋のドアを閉め、ソファに倒れ込む。
「……あー……やばい。心臓もたない」
手のひらに残る、彼女の温もりと甘い香り。
俺は天井を仰ぎながら、17時になるのが待ち遠しくてたまらない。