作品タイトル不明
第284話:熱源と、動画編集講座
まぶたの裏に、柔らかな光を感じて意識が浮上する。
(……ん、もう朝か……)
冬の朝というのは、本来なら布団から出るのが億劫になるほど冷え込むものだ。
カレンダーは12月に入ったばかり。
空気はキリリと冷えているはずなのに、今、俺が感じているのは、汗をかきそうなくらいの心地よい熱気だった。
(……なんだ、全然寒くないな。むしろ、ちょっと暑いくらいだ……)
ぼんやりした頭でそんなことを考えながら、ゆっくりと目を開ける。
視界が鮮明になると同時に、その『熱源』の正体が何なのか、嫌というほど理解させられた。
「…………」
すぐ目の前に、吸い込まれそうなほど綺麗な冬月凛の瞳があった。
長い睫毛が微かに揺れ、彼女は俺の腕の中にすっぽりと収まったまま、慈しむような、とびきり柔らかい笑みを浮かべて俺を見つめていた。
昨夜の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
俺の布団に潜り込んできて、「朝陽くんは私を幸せにしてくれるんだよね?」なんてセリフを吐いた、コアラな彼女。
結局、俺は抗うことを諦めて、彼女を抱きしめたまま眠りについたのだ。
しかも。
今、俺の両腕は、彼女の細い腰をガッチリとホールドして、これ以上ないほど密着させている。
(……って、俺、朝までずっと抱きしめてたのかよ!?)
自分の腕に伝わる彼女の体温、パジャマ越しの柔らかな感触。
そして、鼻腔をくすぐる甘い香りが、昨夜よりも一層濃く感じられる。
「……おはよう、朝陽くん」
耳元で、鈴の音のような澄んだ声が響く。
至近距離でそんなふうに微笑まれて、平静を保てる男がこの世にいるなら連れてきてほしい。
「あ……。あー……お、おはよう。……悪ぃ、俺、その……」
自分が彼女を離さないように抱きしめていた事実に、顔が火が出るほど熱くなる。
言い訳を探して視線を泳がせる俺を見て、凛は「ふふっ」と、いたずらっぽく、でも本当に幸せそうに笑った。
「よく眠れたか?」
なんとか声を絞り出して、俺は彼女に尋ねた。
すると、凛は俺の胸に小さく頭をこすりつけるようにして頷く。
「うんっ。すっごくよく眠れたよ。朝陽くんは?」
「……まあ、色々と限界だった気もするけど、なんだかんだ爆睡してたわ」
正直、理性はボロボロだったはずなのだが、彼女の温もりがあまりに心地よくて、泥のように深く眠ってしまった。
この子と一緒にいると、俺の決意なんて本当にあっさりと崩れ去ってしまう。
俺は照れ隠しを込めて、彼女のふわふわの頭を少し乱暴に、でも愛おしさを込めてポンポンと撫でた。
「ほら、起きるぞ。約束のフレンチトースト、作るからな」
「わぁっ……! 食べる!」
弾んだ声と共に、凛が俺の腕から離れていく。
それと同時に、今まで感じていた熱気がふっと和らぎ、12月の少し冷たい空気が俺の肌を撫でた。
(……やっぱり、あいつがいたからあんなに温かかったんだな)
空になった腕の中の感覚に、少しだけ寂しさを感じながら、俺はエプロンを締めるために立ち上がった。
「んんんっ! ふわっふわで甘くて、最高……っ」
休日の少し遅い朝食。
昨日の夜から卵と牛乳、たっぷりの砂糖を合わせた特製アパレイユに漬け込んでおいた厚切り食パンを、バターでじっくりと焼き上げたフレンチトースト。
たっぷりのメープルシロップをかけて頬張った凛は、今朝も完璧に「ふにゃっ」ととろけた顔を見せてくれた。
「さて。今日は10時から、翔さんと彩音さんが来るんだったな」
「うん。動画の編集、教えてもらうんだよね。場所は私の部屋のリビングでいいんだっけ?」
「ああ、その予定だ。凛のパソコンもあるしな」
「じゃあ私、先に自分の部屋に戻って片付けしてくるね!」
凛はパタパタと自分の部屋へ向かっていった。
俺はその間に、二人を迎えてから食べる『お昼ご飯』の仕込みに取り掛かることにした。
今日のメニューは、12月の寒さを吹き飛ばす熱々の『特製マカロニグラタン』だ。
フライパンにたっぷりのバターを落とし、弱火でじっくりと溶かしていく。
そこに小麦粉を振り入れ、焦がさないように木べらで丁寧に炒める。
粉っぽさが消えてフツフツとしてきたら、冷たい牛乳を少しずつ、本当に少しずつ加えては混ぜ、ダマにならないように伸ばしていく。
とろり、と滑らかで濃厚なホワイトソースが形になり始めると、キッチンにはバターとミルクの甘くて暴力的な匂いが漂い始めた。
このソースさえ作っておけば、あとは具材とマカロニを合わせてチーズを乗せ、オーブンで焼くだけだ。
「よし、こんなもんか」
火を止め、エプロンを外したタイミングで、凛から『片付け終わったよ!』とLINEが入る。
俺は自分の部屋を出て、廊下で凛と合流した。
「じゃあ、駅まで迎えに行こうか」
「うんっ」
並んでマンションを出て、駅へと向かって歩き出す。
ただ隣を歩いているだけなのに、お互いの手が触れそうな距離感に、どうしてか昨夜の腕の中の温もりを思い出してしまって、俺は少しだけ早足になった。
「おはようございます!」
「あ、朝陽くん、凛ちゃん。おはよう。今日はよろしくね」
駅の改札前で、翔さんと彩音さんの先輩カップルと無事に合流した。
相変わらず美男美女で落ち着いた雰囲気の二人だが、翔さんが俺たちを交互に見て、少しだけ目を細めて優しく微笑んだ。
「なんだか二人とも、朝からすごく……雰囲気が柔らかいね。並んで歩いてくる姿、まるで新婚さんのお出迎えみたいだったよ」
「っ!? べ、別にそんなんじゃ……!」
「ふふっ、本当に。二人とも仲良しで可愛いんだから。ね、凛ちゃん?」
「あ、彩音さんまで……!」
(……まさか、俺の部屋で一緒の布団で寝てたなんて言えるわけがない)
冷や汗をかきながら、俺たちは先輩カップルを凛のマンションへと案内した。
凛の部屋のリビングに移動し、早速、翔さんと彩音さんによる動画編集講座がスタートした。
「それじゃあ、まずは無駄な間をカットしていく作業から始めようか。これを『ジャンプカット』って言うんだけど……」
翔さんのノートパソコンの画面を見ながら、編集ソフトの基本的な使い方を教わっていく。
カットのタイミング、テロップ(字幕)の入れ方、そして効果音をつける場所。
落ち着いたトーンで丁寧に順序立てて教えてくれる二人の説明は非常にわかりやすく、素人の俺でもスルスルと理解できた。
一方、凛はというと。
「じゃあ、私は隣の部屋で作業してるね。翔さん、彩音さん、ゆっくりしていってください」
そう言って、リビングに隣接する『仕事部屋』へとこもっていた。
実は、今凛が描いているのは、他でもない翔さんと彩音さんのYouTubeチャンネルで使うイラスト(立ち絵やロゴなど)なのだ。
今日の二人の訪問は、俺に編集を教えることと、凛のイラストの進捗確認の打ち合わせを兼ねていた。
少しだけ開いたドアの隙間から、大きな液晶タブレットに向かって真剣にペンを走らせる凛の横顔が見える。
学校での『氷の令嬢』とも、俺の前で見せる『甘えん坊』とも違う。
プロのイラストレーターとしての、凛とした冷たくて熱い表情。
(……やっぱ、すげぇかっこいいな)
そんな彼女の姿をこっそりと横目で見ながら、俺も負けじと編集作業の練習に没頭した。
「――よし、基礎はこんなところかな。うん、朝陽くん、すごく筋がいいよ。これならすぐ一人でできるようになると思う」
「ありがとうございます。なんとなく感覚は掴めました。お二人の教え方が上手いおかげです」
二人の言葉にホッと息を吐き、壁の時計を見上げる。
時刻はちょうど、12時を少し回ったところだった。
「翔さん、彩音さん。そろそろお昼休憩にしましょうか」
「おっ、いいの? 実は朝陽くんのご飯、密かにすごく楽しみにしてたんだよね」
「ふふっ。今日は寒いんで、熱々のマカロニグラタンの準備してありますよ。俺の部屋のオーブンで焼いて持ってきます」
俺がそう提案すると、彩音さんが「えっ、朝陽くんの手作りグラタン!? すっごく嬉しい!」とパァッと顔を輝かせた。
と、同時に。
バタンッ!
仕事部屋のドアが勢いよく開き、ペンを持ったままの凛が目をキラキラさせて飛び出してきた。
「グラタン!!」
「……お前は本当に、耳がいいな」
食欲全開の無防備な顔で飛び出してきた凛に、翔さんも彩音さんも思わず楽しそうに吹き出している。
賑やかで温かい、12月のお泊まり二日目のお昼ご飯が、始まろうとしていた。