作品タイトル不明
第188話:夕暮れのキッチンと、着信。
火曜日の夕方。
アパートの201号室に帰ってきた俺は、エプロンを身につけてキッチンに立っていた。
フライパンの中で、豚肉と野菜がジュージューといい音を立てて炒められている。
(……今日も一日、なんとかやり過ごしたな)
体育祭明けの余波は今日も続いており、休み時間のたびに陸上部からの勧誘や、他クラスの女子から話しかけられる事態が頻発していた。
とはいえ、昨日凛と『他の女子とは遊ばない』と約束した手前、俺はひたすら愛想よく、かつ隙を見せないようにそれらを躱し続けた。
ちなみに凛の方はというと、昨日俺を連れ去った時のような強引な行動には出なかった。
遠くからジッと見つめる視線は少しだけ怖かったが、それでも「朝陽くんが周りから認められるのを応援しよう」と、彼女なりに我慢して見守ってくれているような、不思議な温かさも感じられた。
「よし、こんなもんかな」
料理が完成し、皿に盛り付ける。
以前なら、隣の部屋でイラストの仕事をしている凛のキリが良いタイミングを見計らって、ご飯の時間を調整していた。
しかし最近、凛から「仕事中でも、ご飯ができたら遠慮なく呼んでいいよ。朝陽くんのご飯、早く食べたいし!」と言われたため、完成したらすぐに俺からLINEで呼ぶという新しいルールになっている。
俺はエプロンで手を拭きながらスマホを取り出し、『ご飯できたぞ』と短いメッセージを送信した。
メッセージを送信してスマホをポケットにしまおうとした、まさにその直後だった。
手の中で、スマホがブーブーと小気味良い震えを始めた。
画面に表示された文字を見て、俺は少しだけ目を丸くした。
着信の相手は『叔母さん』。
両親を亡くした俺を実の息子のように可愛がり、一人暮らしの支援までしてくれている、母方の叔母からだった。
「もしもし、おばさん?」
電話に出ると、電話口からパッと花が咲いたような明るい声が聞こえてきた。
『あ、朝陽! 元気にしてる? 急に電話してごめんね』
「ううん、大丈夫だよ。ちょうど晩飯作り終わったところだし」
『ふふっ、そう。毎日美味しそうな晩ご飯の写真送ってくれるから、元気にやってるのは分かってるんだけどね。おじさんも毎日写真見て、「朝陽はやっぱり料理上手いな」って褒めてるわよ』
おばさんの声を聞くと、自然と口元が緩む。
離れて暮らしていても、俺をずっと気にかけてくれている二人の存在は、俺にとってとてもありがたかった。
『そういえば朝陽、今年の誕生日もちゃんとお祝いしてあげられなくてごめんね。来年こそは絶対にそっちに行くから』
「そんなの全然気にしてないよ。いつも色々と送ってもらってるし、感謝しかないからさ」
『もう、朝陽は相変わらず真面目で良い子なんだから』
そんな風に、他愛のない、けれど温かい近況報告を交わしていた時だった。
ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。
「朝陽くーん、ご飯ありがとー! すっごくいい匂いする!」
リビングのドアが開き、仕事終わりの伸びをしながら、無防備な笑顔の凛が部屋に入ってきた。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
俺のスマホはスピーカーにしているわけではないが、静かな部屋の中で響いた凛の嬉しそうな声は、マイクを通してしっかりとおばさんの耳に届いてしまったらしい。
電話の向こうで、おばさんがピタッと言葉を止めた。
『……あれ? 朝陽、今……可愛い女の子の声がしたわよね?』
「えっ、あ、いや……!」
『もしかして朝陽、彼女できたの!?』
一気にテンションが跳ね上がったおばさんの声に、俺は顔を真っ赤にして慌てた。
「ち、違うよ!」
本当なら「彼女じゃないから!」と続くはずだった言葉を、俺はギリギリで飲み込んだ。
俺の目の前には、俺が誰と電話しているのかを察して、慌てて両手で口を塞いでいる凛がいる。
ここで「彼女じゃない」とはっきり否定してしまえば、保留にしてもらっているとはいえ、両思いの彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったからだ。
「違うんだ、ちょっと……その、友達がご飯食べに来てて……」
俺がしどろもどろになって言い訳をすると、電話の向こうでおばさんは「ふふっ」と意味ありげに笑った。
『そうなんだ。まあ、いいわ。元気そうで安心した』
おばさんは深くは追及してこなかったが、絶対に何かを勘違いしている声色だった。
『でね、今日電話した本題なんだけど。今度、おじさんと二人で出張に行くの。その帰りにそっちの近くを通るから、少しアパートに顔を見に行ってもいいかしら?土曜日なんだけど…。』
「えっ、土曜日? おじさんも一緒に?」
『ええ。久しぶりに朝陽の顔が見たくて。……お昼、朝陽の作ったご飯が食べたいなー、なんて』
おばさんのお茶目なリクエストに、俺は一瞬だけ部屋の隅で小さくなっている凛の方をチラリと見た。
だが、俺も久しぶりに二人に会いたかったし、何より、凛のおかげで少し前を向けるようになった今の自分を、二人にちゃんと見てもらいたいという気持ちがあった。
「わかった。じゃあ、部屋片付けてお昼ご飯作って待ってるよ」
『ほんと!? 嬉しい! 楽しみにしてるわね!』
「うん、道中気をつけてな」
じゃあね、と通話を終えようとした直前。
おばさんが、思いっきりニヤニヤしたような、からかうような声で言った。
『あ、そうそう。……土曜日、その「女の子」のことも、ちゃんとおじさんたちに紹介してもらうからね? じゃあね!』
ツーツー、という通話終了の音が空しく響いた。
俺がスマホを耳から離して深いため息をつくと、口を塞いだまま固まっていた凛が、恐る恐る近づいてきた。
「あ、朝陽くん……ごめんなさい、私、声入っちゃったよね……?」
「……ああ。バッチリ入った。誤魔化そうとしたけど、バレてる」
俺が力なく頷くと、凛は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あ、あのな、凛。今度の土曜日なんだけど……」
「は、はいっ!」
「俺を育ててくれた、おじさんとおばさんが……このアパートに、遊びに来るらしい」
その言葉を聞いた瞬間、凛の顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。
ただの来客ではない。俺にとっての『実質の親』だ。
静かだった201号室に、週末に向けた嵐の予感が、静かに、しかし確実に吹き荒れようとしていた。