作品タイトル不明
28. お前に自由をやろう
漆黒に染めたシルクのドレスが、燭台の光を受けて滑らかに輝いている。
「お美しいです、レティ様!」
アリエッタが両手を口に当て、感極まったように涙を浮かべた。
光の加減で緑がかって見えるタイトなラインのドレスは、引き締まったレティシアの体の線を、より一層美しく際立たせる。
「旦那様の瞳と同じ色ですね。とてもよくお似合いです」
「……偶然だ」
うっとりと見惚れ、アリエッタは感慨深げに息を吐く。
宝石商が勧めてきた色が、偶然同じ色だっただけ。
――そう言い訳しようとして、レティシアは口をつぐむ。
「言い寄る令息がいたら、マクガイン伯爵が助けてくださるそうです」
「目立たないよう、壁の花になるから問題ない」
「それは無理かと」
……即答だった。
***
マクガイン伯爵家の馬車を降り、向かった先には煌びやかなホールが広がっている。
今夜はアリエッタの部屋で眠ると辺境伯邸の皆に告げ、そっと屋敷を抜け出した。
「レティ様、くれぐれもお気を付けください。貴族の中にはとんでもなく軽薄な男もおります。困ったらすぐ、仰ってください」
採寸するときにどうしても大人の姿にならねばならず、また信頼できる男と見込んで、幼女と同一人物であることはマクガイン伯爵にも告げてある。
扉が開いた瞬間、ざわりと会場が静まり返った。
談笑していた者も、踊っていた者も、その場にいたすべての者が動きを止める。
数十にも及ぶ視線が、レティシアへと一斉に集まった。
「レティ様、大丈夫ですか?」
「ん? 何がだ?」
魔法帝であるレティシアにとって、視線など自分に集まって当たり前。
臆する様子など微塵もなく、レティシアはざわめきの中へと足を踏み入れる。
「……どこの令嬢だ」
「見たことがない顔だな。マクガイン伯爵の遠縁らしい」
最初の一人に声をかけられたのは、入場からわずか数十秒のことだった。
「よろしければ、ボクと一曲……」
そんな暇はない。ロイドはどこだ。
失礼にならないよう、レティシアは努めてにこやかに断った。
二人目。三人目。四人目。
気づけば会場にいた男性の半分以上が、じわじわと距離を詰め、ゆるやかな包囲網を形成している。
なんとも暇な奴らだ。
長居して収拾がつかなくなっても面倒だ。
レティシアは人の流れを読み、話しかけられないよう、するりするりと抜けていく。
軽食を食べて知らない男とダンスする。一体コレの、何が楽しいんだ。
そのうえ肝心のロイドが、どこにもいない。
理解に苦しみながら避難先を探したところで、バルコニーへの扉を見つけ、滑り込んだ。
夜風が頬を撫で、会場の熱気を覚ましてくれる。
追いかけられても面倒なので鍵をかけ、レティシアは改めて、ガラス越しにザッと会場を見回した。
あの高身長。いればすぐに見つけられるはずだが、まったくもって見当たらない。
「せっかくドレスアップしたのに……」
ん? 待て待て、何を言ってるんだ私は?
相手の女性が見たくて潜入したはずだったのに。
思わず口を突いて出た言葉に戸惑いながらも、忙しいロイドのことだ。
もしかしたら急な仕事が入って、参加できなくなったのだろうと思い至る。
ならばこれ以上この場にいても意味がないな。
中に入るとまた話掛けられそうだから、バルコニーから帰るか。
高さを確認しようと、向かった先に人がいた。
バルコニーの端にある、柱の陰でぼんやりと夜空を見上げている。
レティシア同様、異性から話しかけられるのに疲れ、舞踏会が終わるまで隠れていたのだろうか。
だとしたら邪魔をしてしまった。申し訳ないことをした。
その男性がゆっくりと振り返る。それは、レティシアがよく見慣れた顔。
暗がりの中でも、見間違えようがなかった。
「……ロイド?」
レティシアに向けられたロイドの目が、微かに見開かれる。
一人だ。お相手らしき令嬢は、どこにもいない。
――良かった。
自分に隠れて、会っていたわけじゃなかった。
それが分かればもうこんなところに用はない。
さて飛び降りやすそうな場所はどこだと探したところで、レティシアは手首を掴まれた。
「……本当に、実在していたのだな。お前は何者だ?」
痛くはないが、これでは到底逃げられない。
離す気はないらしく、いつの間にかバルコニーの手すりへと追い詰められる。
「俺の寝室で……何をしていた」
「……」
そんなこと、説明できるわけがないじゃないか。
強い口調で問われ、レティシアはゆっくりと自分の手首に視線を落とす。
魔法を使えば振りほどけるだろうが、そうする気にはなれなかった。
「見たことのない令嬢だが、どこの家門だ。ここに来た目的は何だ。俺を追ってきたのか?」
ホールから心配そうに、マクガイン伯爵が視線を送っている。
大丈夫だと微笑んで、レティシアは手首に触れる力強い指先をじっと見る。
「今度こそ、逃がさない」
「……そうか」
お前が大切に想う女性が、どんな者なのか確かめたかった。
言えたら楽なのだがな、と思わず苦笑いが零れる。
「大人の女性相手だと、お前はそんな顔をするのだな」
幼女の自分に向けてくれる、穏やかに包み込むような、過保護な眼差しとはまるで違う。
感じたことのない熱が伝わり、レティシアの胸が壊れそうに軋んでいく。
「さっきから、お前は何を言っている? 俺の問いに答えろ」
「幼い子どもと大人の女とでは、向ける目も違って当然という話だ」
息が、少し苦しい。
こんな気持ちは二十五年間、一度も感じたことがなかった。
急激に体温が下がっていく。
触れるロイドの指だけが唯一、温かな温度を感じさせてくれた。
なんだか泣いてしまいそうだ、とレティシアは思った。
でもなぜそう思ったのか、自分でもよく分からなかった。
「お前の名は?」
「…………」
生涯、お前だけを愛すると誓ったのに、心に決めた女性が他にいたとは。
あの騎士の誓いは何だったんだ。
……この、大噓つきめ。
ともに過ごした時間すべてが、レティシアにとって初めての……ただの『レティシア』として過ごせた唯一の時間だった。
全部全部、ロイドが与えてくれたものだ。
「そうか。私はいつの間にか、お前のことを好きになっていたのだな」
向けられた言葉を訝しみ、ロイドの眉間に深い深い皺が寄る。
理解が追い付かず、悩んでいる時に見せる顔だ。
無表情だと思っていたのに、ちょっとした表情の変化から、そんなことまで分かるようになってしまった。
幼女のふりをして、振り回したのは自分だ。
その上、愛する女性との仲を引き裂いてしまった。
「ロイド・セシリオ。お前に自由をやろう」
「……先ほどから、一体何を言っている?」
「解放してやると言ったのだ。せいぜい私に感謝しろ!」
一ヶ月ものバカンスを終えた今、晴れやかに笑うレティシアには、十分すぎるほどの魔力が漲っている。
魔力が戻ればこの国を去ると決めたのは、自分自身だ。
ロイドに向かって一歩踏み出すと、近くなった距離にロイドの目が見開かれる。
レティシアは背伸びをし、ロイドに抱き着くようにして、するりと腕を絡ませる。
石像のように動きを止めたロイドがおかしくて、くすりと笑みを零し、――それからそっと、唇を重ねた。
「私の名は、レティシア・アルヴェーヌ」
不遜にも、敵国の魔法帝と同じ名前を名乗る美女。
「……さよならだ」
再び掴もうと伸ばしたロイドの手を払い、レティシアはバルコニーの手すりに指をかけた。
そのまま一気に乗り越える。
眼下にある夜の庭には、菫の花が咲き広がり、控えめな美しさに思わず見とれた。
この程度の高さなど、魔法帝にとっては無いにも等しい。
風を身体にまとい、レティシアはふわりと着地した。
「待て……!」
背後でロイドが身を乗り出す気配がしたが、もうそんなもの関係ない。
振り返らずに駆け出すと、ドレスの裾がほどけるように風に揺れ、跡形もなく消えていった。