作品タイトル不明
第13話 光と影の妊婦
ロイド侯爵家本邸は、かつてないほどの祝祭の空気に包まれていた。
女侯爵パトリシアの懐妊。それは家門の存続を揺るがす最大の懸念が払拭されたことを意味していた。医師や侍女たちはパトリシアの体を極限まで労り、絨毯の一枚、お茶の温度一つに至るまで、至高の配慮が尽くされている。まさに、光に満ちた幸福な妊婦の姿がそこにはあった。
――だが、その光が強ければ強いほど、庭園の隅にある離れの影は濃くなる。
ある日の午後、パトリシアは数人の侍女を従え、自らの足でその離れを訪れた。
応接室に現れたバレリーは、突然の本妻の訪問に、まるで肉食獣の前に引き出された小動物のように体を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で平伏した。その背後では、三歳のシリルが母親のスカートの裾を握りしめ、怯えた目でパトリシアを見上げている。
かつて、この親子の存在を知ったばかりの二ヶ月前、パトリシアは一度だけ、彼女たちに相応の資金を渡してこの家を去るよう、支援を申し出たことがあった。あの時は、ウィリアムの浅はかな拒絶と、バレリーの「ウィリアム様と離れたくない」という無力な涙によって、その申し出は流れてしまった。
しかし、今のパトリシアの心境は、あの時とは決定的に違っていた。
パトリシアは、自身のまだ平らなお腹にそっと手を当てた。
自らの内側で育ちつつある、新しく、愛おしい命。我が子の存在を感じるたびに、パトリシアの胸には、強烈な母性と、それと同等の深い罪悪感が去来する。
(この子は、実の父親を伯父と呼ばれ、叔父を父親と呼びながら育つのね……)
夫を騙し、実兄の種を宿して家門を守る。その背徳の決断に、一片の迷いもない。けれど、母となったパトリシアの緑の瞳は、目の前で怯えるシリルを、ただの「夫の不貞の証拠」としては見られなくなっていた。
この少年には何の罪もない。ただ、父親が愚かなウィリアムであり、母親が運命に流されるだけの無力なバレリーであったというだけで、将来は庭師の見習いとして、日陰の人生を歩むことが決まっている。
パトリシアは静かに、けれど明確な意志を込めて口を開いた。
「バレリー。もう一度、貴方に提案をします。……ロイド家の名を出さず、シリルの将来を保証するための『支援』をさせてちょうだい。王都から少し離れた場所に、貴方たち親子が一生不自由なく暮らせるだけの邸宅と、十分な額の金品を用意します。シリルをしかるべき教育機関に通わせるための資金も、私がすべて個人名義で払いましょう」
それは、力を持つ女性であるパトリシアが提示できる、最大限の、そして本物の「慈悲」だった。これを受け入れれば、シリルは泥にまみれることなく、平民の上流階級として誇りある未来を掴むことができる。
しかし、その言葉を聞いたバレリーは、青ざめた顔をさらに白くさせ、激しく首を振った。
「いいえ……いいえ、奥様! どうか、どうか私たちをウィリアム様から引き離さないでくださいませ……っ!」
バレリーの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「私は、何も望みません……。シリルが将来、どのような身分になろうとも、それは神様がお決めになった運命ですわ……。私はただ、ウィリアム様の側で、あの方の優しいお言葉をいただきながら、シリルと静かに暮らせれば、それだけで……それだけで良いのです……っ」
それは、どこまでも無力な女の、頑なな拒絶だった。
バレリーにとって、自分の力で息子を育てることや、遠い土地で新しい生活を始めることなど、想像するだけで恐怖で身がすくむような大事業なのだ。それよりも、この離れでウィリアムの庇護に縋り、彼の「僕が守るから大丈夫だ」という甘い言葉の中に引きこもっている方が、どれだけ楽か。
彼女は我が子の「具体的な未来の利益」よりも、今この瞬間の「目に見えるぬるま湯」を選んだのだ。
「……そうですか」
パトリシアは小さく息を吐き、差し伸べた手を静かに引いた。
心にあるのは、怒りではない。ただただ、深い、深い、やり場のない悲しみだった。
この無力な母親は、自分の子供の未来を、あの空っぽなウィリアムの優しさに預けてしまうのだ。そしてシリルは、その代償として、ロイド侯爵家という大樹の影で、一生日陰を歩むことになる。
「貴方の意思は分かりました。もう、二度とこの申し出はしません。……シリル、可哀想に」
パトリシアは最後に、少年に向けて、切ない慈愛の眼差しを向けた。
そして、一度も振り返ることなく、光の満ちる本邸へと戻っていった。
その日の夜、離れにやってきたウィリアムは、バレリーから事の顛末を聞かされ、ひどく憤慨した。
「パトリシアめ、妊娠して気が立っているとはいえ、また君たちを追い出そうとするなんて! 大丈夫だよバレリー、シリル。僕が、絶対に君たちをここに置いてみせるからね」
ウィリアムは、バレリーとシリルを強く抱きしめ、自分の正義感に酔いしれていた。
だが、彼は気づいていない。
本邸の光の中にいるパトリシアが、消えない悲しみと我が子への罪を背負いながら、ウィリアムという男の存在そのものを、ロイド侯爵家から完全に消し去るための冷徹な罠を、すでに完成させつつあるということを。
罪深き光を宿す母と、果てなき影に惑う母。
二人の母親の決断の差が、ラヴァル家とロイド家の未来を、決定的に二つへと引き裂いていく。