軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 離れの甘い毒

本邸から少し離れた、緑豊かな庭園の隅にひっそりと佇む離れ。

そこには、本邸の息が詰まるような格式や冷徹な空気とは無縁の、どこか締まりのない、ひどく甘ったるい時間が流れていた。

「あはは! おとうさま、すごーい!」

三歳のシリルが、おもちゃの木馬にまたがって無邪気な声を上げる。それをソファに腰掛けたウィリアムが、父親らしい優しい眼差しで見守っていた。

「シリル、上手だね。次はもっと上手に乗れるようになるよ」

パトリシアの懐妊を知ったあの日から、ウィリアムの足取りは驚くほど軽くなっていた。

本邸に帰れば、パトリシアは変わらず冷淡で、彼の手を拒み、業務的な会話しか交わしてくれない。それでもウィリアムの心は折れなかった。なぜなら彼の中で、「パトリシアは妊娠による情緒不安定と、かつての浮気に対する怒りで拗ねているだけ」という極めて都合の良い解釈が完成していたからだ。

最愛の妻は、俺との子供をそのお腹に宿している。

その事実だけで、ウィリアムの罪悪感は綺麗さっぱり消え去っていた。自分はいつか必ず許される。だからこそ、今は彼女に拒絶されて傷ついた心を、この温かい離れで癒やしてもいいはずだ――。

「ウィリアム様、お疲れではございませんか? ハーブティーを淹れましたの」

ふわりとした、甘い香りを纏わせながら、バレリーが歩み寄ってきた。

彼女は豊かな栗色の髪を緩く結い、いかにも家庭的で、男の庇護欲をそそるような仕草でカップをテーブルに置く。そして当然のようにウィリアムの隣に腰掛け、その華奢な身体を彼の肩へと預けた。

「ありがとう、バレリー。君の淹れてくれるお茶は、いつも心が落ち着くよ」

「ウィリアム様はこんなに奥様と、お腹のお子様を愛していらっしゃるのに。奥様は、まだお許しくださらないのですね……」

バレリーは怯えたように視線を落とし、そっとウィリアムの大きな手を両手で包み込んだ。

彼女の口から出た言葉には、パトリシアに対する悪意も、正妻の座を脅かそうという野心も一切なかった。ただそこにあるのは、圧倒的な「無力さ」だけだ。

元より、貧乏男爵家の次女として生まれ、長男の慰め相手、そして三男の閨係としてラヴァル家に翻弄されてきたバレリーにとって、人生とは自らの意志で切り開くものではなかった。ただ与えられた運命を、涙を流しながら受け入れることしか彼女にはできなかったのだ。

だからこそ、すべてを手に入れ、毅然と家門を統治するパトリシアという女性は、バレリーにとって「高貴で、冷たくて、自分たちを支配する怖い人」以外の何者でもなかった。力を持つ者が下す決定に、自分のような無力な存在が逆らえるはずがない。ただ恐怖に身をすくませるだけだ。

自分はただ、かつて流されるままに関係を持ったウィリアムと市井で再会し、彼に懇願され、求められたからここにいるに過ぎない。自分一人の力では、シリルに満足な食事を与えることすらできなかった。だから、ウィリアムが用意してくれたこの立派な屋敷に身を寄せることも、彼に縋ることも、彼女にとっては生きるための唯一の選択肢であり、それ以上の倫理的な是非を考える余裕など、彼女の弱い心には最初から備わっていなかった。

「かわいそうなバレリー。君は何も悪くないのに、怯えさせてしまってごめんね」

ウィリアムは、自分を頼るしかない無力な彼女の肩を抱き寄せた。

「いいえ……。私は、ウィリアム様が側にいてくださるだけで、それだけで幸せなのです。奥様がどれほどお怒りでも、私はここで、静かに貴方様をお待ちしておりますわ……」

「バレリー……っ」

ウィリアムの胸に、甘い毒のような快感が染み渡っていく。

本邸で完璧な女侯爵として君臨するパトリシアの前では、自分は常に「無力な婿養子」でしかなかった。だが、この離れでバレリーを抱いている時だけは、男としての自尊心を満たされ、絶対的な王でいられるのだ。

眠気を覚えたシリルを寝室へと寝かしつけ、戻ってきたバレリーを、ウィリアムは逃がさないように引き寄せた。その細い腰を抱きすくめ、自らの寂しさを埋めるように、そのままベッドへと押し倒した。

重ねられる肉体の熱。

パトリシアに拒絶された寂しさを埋めるように、ウィリアムは貪欲にバレリーの肌を貪る。バレリーは何の躊躇もなくそれを受け入れ、彼の背中に腕を回して甘い吐息を漏らした。

二人は、自分たちがどれほど不潔で、悍ましい裏切りを重ねているか、全く理解していなかった。

ウィリアムはパトリシアを「最愛」と呼びながら別の女の身体で寂しさを埋め、バレリーは正妻への敬意も罪悪感も持たぬまま、その甘えを笑顔で全肯定する。

離れの寝室に漂うのは、安価で、けれど一度浸かれば抜け出せない、ぬるま湯のような依存の香りだった。

「ああ、バレリー。やはりここが、僕の本当の救いだ……」

「ええ、ウィリアム様。ずっと、こうしていましょうね……」

愛の言葉を囁き合う二人は、夢にも思っていない。

自分たちがこの甘い毒に溺れているまさにその瞬間も、本邸のパトリシアが、暗い絶望と引き換えに「本物の血の復讐」を着実に進めているということを。

そして、ウィリアムが我が子の誕生を夢見て微笑むその未来が、実の兄の手によって、すでに粉々に打ち砕かれているということを。

夜の帳が下りる中、離れの灯火は、本邸の冷徹な闇に飲み込まれるようにして、怪しく揺れていた。