軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 本来の美しさで

ゴードン伯爵家との婚約破棄、その最終調整を行うために臨んだ夜会。

私はもう、十五歳の少女たちの庭に入り込もうとするような、無理な若作りを一切やめていた。あの日、私の心をズタズタに引き裂いたパステルピンクの布地も、呼吸さえ困難にさせた心を締め付ける大きなリボンも、すべてクローゼットの奥深くへと片付けた。

鏡の中に佇んでいる私は、自分に最も似合う、深く艶やかな濃紺のイブニングドレスを静かに身に纏っている。

無駄な装飾をすべて削ぎ落とした気高いシルエットは、私のすらりとした長身と知的な佇まいをどこまでもエレガントに引き立て、胸元できらめく一粒のサファイアが、大人としての洗練された色香をこれ以上ないほどに際立たせていた。

「お嬢様、本当にお美しいですわ……」

後ろで控えていた侍女が、感極まったように声を詰まらせて涙ぐむ。私は鏡の中の自分に向かって静かに微笑み、小さく頷いた。

もう、傷つくことを恐れて無理に張り付ける歪な仮面はいらない。私は私本来の美しさと気高さで、この因縁の夜会にすべての決着をつけるのだ。

きらびやかな光に満ちた夜会の会場に、私が一歩足を踏み入れた瞬間だった。さざ波が引いていくように、周囲の喧騒がぴたりと静まり返った。

「っ、ロイド侯爵令嬢、か?」

「なんて、神々しいほどにお美しいの……」

「ああ、淡いピンクも可憐だったけれど、あの深い紺色こそ、彼女の知的な美しさを完璧に完成させているわ!」

会場中の視線が、一斉に私へと注がれる。けれど、そこには以前のような嘲笑や憐れみの色は微塵もなかった。あるのは、ただ圧倒的な美に対する、息を呑むような感嘆と畏敬だけだった。

本当は、分かっていた。

ゴードン伯爵家との関係が冷え切ったこの半年間、我が侯爵家には、私の美貌と実家の権勢を狙う高位貴族からの釣書が、それこそ山のように届けられていたのだ。両親からは「あんな無礼な小僧など忘れて、別の良縁を選びなさい」と何度も諭された。二十歳を過ぎた私に、後がないなどということは決してなかったのだ。

けれど、私はそのすべてを頑なに突っぱね続けた。

惨めに足掻いてパステルピンクのドレスを着た、あの雨の日の痛々しい淡い恋。あれを、うやむやなまま終わらせることだけは絶対に嫌だった。だから私は、今日この夜会を、ミッシェルに自ら完璧な婚約破棄を突きつけ、私の手でこの恋に冷徹なケジメをつける『最終決戦の場』として選んだのだ。

もう、誰にも「痛々しいおばさん」なんて呼ばせない。胸を張って気高く歩を進める私の前に、一人の美しい青年貴族が、人混みを割ってまっすぐに歩み寄ってきた。

「アナベル嬢」

その低く、心地よく鼓膜を震わせる男らしい声に、私は思わず目を見開いた。そこにいたのは、私の知っているあの「少年」ではなかった。

見上げるほどにすらりと伸びた長身。その身長は、高身長であるはずの私を、いつの間にか完全に追い抜いていた。仕立ての良い濃紺の正装に包まれた肩幅はどこまでも逞しく、引き締まったシャープな顔立ちには、大人の男としての圧倒的な気品と色香が宿っている。

「ミッシェル……様」

最後に言葉を交わしてから、半年。音沙汰のなかった彼がこれほどまでに変わってしまった理由を、私は知っている。

あの日、雨のテラスで私を傷つけた彼の非礼を知り、私の父であるロイド侯爵は激怒した。ゴードン伯爵家に猛抗議を入れ、ミッシェルを社交界から排除した。爵位を継ぐに相応しい『本物の男』になるまで、騎士団の鍛錬に参加するよう強制放逐したのだ。

「許しを乞うだけの男になれるまで絶対にアナベルの前には現れるな」という、父の厳しい厳命のせいで、彼はこの半年間、私に連絡すら取れずにいたのだと風の噂に聞いていたけれど。

思わず名前を呼んだ私に、ミッシェル様は優しく、そしてどこか狂おしいほどの情熱的な光を宿した青い瞳を向けた。彼は私に向かって、一分の隙もないスマートな仕草で、大きな、剣の鍛錬でマメだらけになった武骨な右手を差し伸べた。

「お迎えに上がりました、僕の美しい婚約者殿」

その堂々たるエスコートに、周囲のご婦人方から「まあ……っ!」と小さな黄色い悲鳴が上がる。

「ミッシェル様、私はあなたとの婚約を白紙に戻すために……」

「嫌です」

ミッシェル様は私の言葉を強く遮ると、差し伸べた手で、私の指先を壊れ物を扱うように優しく、けれど決して逃がさないという強い意志を込めて力強く包み込んだ。彼の手は、以前とは比べものにならないほど大きく、そして驚くほどに熱かった。

「半年前のあの雨の日、あなたを絶望させてしまった僕を、殺したいほどに憎みました。僕がガキのくせに、つまらないプライドであなたを傷つけた。すべて、僕のせいです。本当に申し訳ありませんでした。……侯爵閣下から『娘を侮辱した不届き者』として社交界への出入りを禁じられ、騎士団への鍛錬の参加を強いられた日々、当然の報いだと思いました。あなたに拒絶され、二度と会えなくなる恐怖のなかで、僕はあなたに相応しい男になることだけを考えて、死に物狂いで剣を振り、領政を学びました。……今日こうしてあなたの前に立つ許可を閣下からいただくために、この半年、一瞬たりともあなたのことを忘れた日はありませんでした」

大勢の貴族たちが見守る中、ミッシェル様は私の手を握ったまま、ゆっくりとその場に片膝を突いた。高貴な青年貴族が、一人の女性に捧げる、最高位の臣下の礼。

「兄上が駆け落ちをして僕が急遽、次期当主として家門を背負うことになりました。昼は学園に通いながらも、放課後はロイド侯爵家への賠償や謝罪の算段を示すための慣れない書類仕事に追われ……自分がどれほど生ぬるい環境であなたに甘え、傲慢に傷つけていたかを、その重圧の中で初めて思い知ったのです。この半年、ただ口先だけで謝罪の手紙を送るなどあまりに不誠実だと、必死に次期当主としての基盤を整え、あなたに認められるだけの最低限の男になることだけを考えて生きてきました!」

「ミッシェル様!? 皆様が見ていらっしゃいます……っ」

「見ていればいい。いや、全員に見せるつけるために、僕は今日、ここに来たんですっ!」

ミッシェル様は顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめた。その澄んだ青い瞳には、もう一切の迷いも、子供じみた照れ隠しもなかった。むき出しの、狂おしいほどの情熱だけが、私に注がれている。

「ピンクのドレスも、大きなリボンも、僕のために必死に足掻いてくれたあなたのすべてが、愛おしくて堪らなかった。可愛すぎて、他の男に見せたくなくて、心臓が爆発しそうだったのに……愚かな僕は、それを言葉にできなかった」

「あ……」

「でも、今日の、あなた本来の美しさを纏ったあなたが、世界で一番、宇宙で一番美しい。僕はもう、あなたを子供の背伸びで引き留めたりしない。一人の男として、あなたを愛しています」

ミッシェル様は、私の手の甲に、深く、熱い口づけを落とした。

その瞬間、会場のご婦人方から「キャーーーッ!」という、割れんばかりの黄色い歓声と、興奮に満ちた扇のざわめきが湧き起こった。

「まあ! なんて情熱的なプロポーズかしら!」

「あの美少年が、あんなに雄の顔をして迫るなんて……!?」

「年下の旦那様、最高じゃないの……っ!」

周囲の熱狂を余所に、ミッシェル様はさらに声を潜め、私だけに聞こえる甘く、低い声で囁いた。

「もう、おばさんなんて言わせない。あなたが僕より三歳年上なら、僕はその三倍早く大人になります。 いえ、もうあなたを置いていったりしない。一生をかけて、あなたを僕の愛で溺愛し、囲い込んでみせる。……僕の、生涯唯一の女性になってください、アナベル」

初めて呼び捨てにされた、その名前。見上げるほどに大きく、逞しく成長した『彼』の、嘘偽りのない愛の告白に、私の胸は信じられないほどの速さで跳ね上がった。

無理に若返る必要なんて、最初からなかったのだ。この麗しい青年は、私のすべてを、私という存在そのものを、狂おしいほどに愛してくれている。

「……はい、ミッシェル。不器用な私の、可愛い婚約者様」

私が真っ赤な顔でそう微笑み返すと、ミッシェルは世界で一番幸せそうな笑みを浮かべ、私の身体を引き寄せるようにして、力強く立ち上がった。

夜会会場を包み込む、地鳴りのような歓声と拍手。

張り詰めていたすべての緊張が、ミッシェルの胸の中で一気に、心地よい熱となって弾けた。

「……っ、アナベル……!」

私が彼の耳元で紡いだ言葉が彼の耳にどう響いたのだろう。ミッシェルは耳たぶまで真っ赤に染めながらも、もう以前のように視線を逸らしたりはしなかった。それどころか、私の腰に回された彼の大きな手が、ぐっと力強さを増す。引き寄せられた胸元から、鍛え上げられた青年の体温と、トクトクと激しく打つ鼓動が、ドレス越しにまっすぐ伝わってきた。

彼はそのまま、周囲の貴族たちに向けて、傲慢なほどに不敵で、けれど最高に誇らしげな笑みを浮かべてみせた。

「聞いたか、レオン。僕の、妻になる女性だ」

人混みの最前列で、ニヤニヤしながら拍手を送っていた男友達のレオンが、あきれたように肩をすくめる。

「はいはい、ごちそうさま。これからは誰も、ロイド侯爵令嬢に無礼な口は利けないな。あんな恐ろしい番犬が目を光らせてるんだからさ」

その言葉通り、会場のどこを見渡しても、もう私を「痛々しい」などと哀れむ者はいなかった。それどころか、私の纏う濃紺のドレスと、それを堂々とエスコートする若き夜会の主役に、誰もが羨望と感嘆の眼差しを向けている。フォックス伯爵令嬢をはじめとする少女たちは、あまりの格の違いに圧倒され、遠巻きに顔を青くして縮こまるしかなかった。

私は、そっとミッシェルの腕に自分の手を絡めた。

「ミッシェル、少し顔が赤いですわ。やはり、少し背伸びをしすぎたのではありませんか?」

かつての私なら、不安を隠すために意地悪な言い方になっていたかもしれない。けれど、いまの私から出たのは、年の離れた恋人を愛おしむ、悪戯っぽくも優しい微笑みだった。

ミッシェルは、私の視線を受け止めるために、その長い身を少しだけ屈める。上から覗き込んできた彼の青い瞳は、熱く、どこまでも真剣だった。

「背伸びなんかじゃない。これでも、あなたを目の前にして、必死に理性を保っているんだ。……アナベル、僕があなたをどれだけ独占したくて、この日を待っていたか、本当に分かっていますか?」

低く耳元で囁かれたその男らしい声に、今度は私の心臓が大きく跳ね上がる。

三歳年下の、可愛い、ツンツンとした私の婚約者。彼はもう、私の前を歩く大人たちの背中を追いかける必要などないほどに、立派な『一人の男』として、私のすべてを包み込んでくれていた。

「ええ。身に染みて、よく分かりましたわ」

私が降参するように微笑むと、ミッシェルは嬉しそうに目を細め、私のエスコートを再開した。

雨のテラスで流した涙も、似合わないピンクのドレスに縋った夜も、すべてはこの日のためにあったのだ。深く艶やかな濃紺のドレスの裾を揺らしながら、私は、私のために世界で一番優しく、強くなった旦那様と共に、光り輝く未来への一歩を堂々と踏み出したのだった。