軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話 名を呼ばれるべき人の場所を、私は守ります

慰霊式の朝、王都の北庭には、まだ薄い霧が残っていた。

凱旋式の日の中央広場とは違う。

花も少ない。

楽団も控えめだ。

民衆の歓声も、旗を振る子どもたちもいない。

灰色の慰霊碑の前に、白花を抱えた遺族たちが静かに集まっている。

その沈黙は、寂しいものではなかった。

誰かの名を聞くために、人が自分の呼吸を整えている沈黙だった。

私は王国軍式典監理室の徽章を胸につけて、慰霊碑の西側に立っていた。

白いマントではない。

英雄の隣でもない。

黒に近い紺の監理官補の礼装。

袖口には、式典監理室の小さな銀線。

華やかではない。

けれど、今の私にはこれがいちばん落ち着いた。

「リディア嬢」

記録係のノーラが、低い声で呼んだ。

「写し板、設置完了です」

「高さは」

「子どもの目線に合わせています。大人用の刻名板と同じ順番です」

「ありがとうございます」

「車椅子の遺族は、西側控え通路に到着しています」

「先導は」

「テオがついています」

「分かりました」

私は作業板の写しを確認した。

開式。

沈黙。

車椅子の遺族による先行献花。

戦死者名読み上げ。

一般遺族献花。

負傷兵代表礼。

総司令官報告。

低音曲。

閉式。

昨日まで何度も確認した流れだ。

それでも、本番の前には胸が張る。

怖いからではない。

軽く扱ってはいけないものを扱っていると、身体が自然にそうなるのだと思う。

慰霊碑の前で、ユアン・バートン少年が母親と並んでいた。

腕には、父の古い軍帽。

視線は、献花台の前に置かれた写し板に向いている。

自分の父の名がどこにあるのか、もう見つけたのだろう。

表情は硬い。

けれど、前より少しだけ迷いが少ない。

マルグリット・フェイン夫人は、遺族席の最前列にいた。

今日は黒いヴェールを少しだけ上げている。

膝の上には白花。

凱旋式の日、視界を遮っていた旗も花籠も、今日はない。

彼女の前には、慰霊碑と、名を呼ぶ式典官の台だけがある。

少し離れた後援席の端に、イレーネの姿もあった。

白いマントはまとっていない。

淡い灰色のドレスで、髪飾りも小さい。

彼女は誰かに見られるための笑顔を浮かべていなかった。

ただ、膝の上で手を重ね、慰霊碑を見ている。

それでいい。

今日の彼女にできることは、目立たないことだった。

アルバート様は、軍人席の中にいた。

戦功章はつけていない。

今日は英雄席ではなく、東境戦役から帰還した指揮官の一人としての席だ。

彼の顔には緊張があった。

けれど、逃げるような目ではなかった。

少なくとも、今日は自分の部下の名を聞くつもりで来ている。

それだけは分かった。

「リディア」

背後から、カシアン閣下の声がした。

振り向くと、総司令官礼装の彼が立っていた。

黒の軍服に、銀の飾緒。

いつもより式典向きの装いだが、不思議と華やかには見えない。

この人が着ると、飾りでさえ職務の一部に見える。

「閣下」

「準備は」

「予定どおりです」

「不安は」

「あります」

「どこに」

「人の心は、手順だけでは整えきれません」

カシアン閣下は、ほんの少しだけ目を細めた。

「よい不安だ」

「褒められたのでしょうか」

「もちろん」

「閣下は、本当に変わった褒め方をなさいますね」

「君は、分かるようになっただろう」

「……少し」

そう答えると、カシアン閣下の口元がかすかに動いた。

笑ったのだと思う。

そのわずかな表情だけで、朝の冷たい空気が少しやわらぐ気がした。

「今日の中心は、名を呼ばれる者たちです」

私は慰霊碑へ視線を戻した。

「私は、その場所が乱れないように見ます」

「それでいい」

「はい」

「終わったら、昨日の話をする」

「仕事の話から始める、というお話ですね」

「ああ」

「承知しております」

「逃げないな」

「逃げる理由がありません」

そう答えてから、自分の声が思ったより穏やかなことに気づいた。

以前の私なら、きっとこういう会話にも身構えていた。

誰かの言葉の裏を読み、期待しすぎないように、傷つかないようにしていた。

でも今は違う。

この人は、必要な時に必要なことを言う。

言わないことは、まだ言う時ではないから言わない。

そう思えるだけで、不思議と怖くなかった。

小鐘が鳴った。

慰霊式が始まる。

楽団は鳴らない。

最初に置かれたのは、音ではなく沈黙だった。

カシアン閣下が軍旗の前へ進み、一礼する。

参列者も、それに続いて頭を下げた。

遺族。

負傷兵。

王国軍の者たち。

後援貴族。

そして、ただ見守るために来た人々。

全員が同じ沈黙の中にいた。

最初の献花は、車椅子の遺族だった。

テオが先導する。

西側の通路は広く取ってある。

段差はない。

他の遺族の列とも交差しない。

老いた男性が、車椅子の上で白花を抱えていた。

孫らしい少女が、そばで小さな手を添えている。

彼らは慰霊碑の前へ進み、静かに花を置いた。

誰も急かさない。

誰も見世物にしない。

ただ、その人たちが花を置くための時間が、そこにあった。

その後で、式典官が名簿を開いた。

黒い革表紙。

部隊順。

慰霊碑の刻名順と照合済みの名簿。

ノーラが記録板の横で頷く。

エルマー卿が運営位置から式典官へ合図する。

最初の名が呼ばれた。

「第三槍騎隊、第一班。カイル・デュラン」

一拍。

「同隊、第一班。モーリス・ベル」

一拍。

「同隊、第一班。エリオ・ハント」

名が、霧の残る北庭へ上がっていく。

速すぎない。

遅すぎない。

ひとつの名が遺族へ届いてから、次の名が呼ばれる。

式典官の声は安定していた。

昨日、何度も練習した呼吸だ。

爵位は呼ばない。

家格も呼ばない。

戦場で同じ列に立った者たちを、同じ順で呼ぶ。

「第三槍騎隊、第二班。ロラン・フェイン」

フェイン夫人の肩が、わずかに震えた。

けれど、今日は花を落とさなかった。

彼女は白花を抱えたまま、まっすぐ慰霊碑を見ている。

名は届いた。

今度は、遮るもののない場所で。

式典官は続けた。

ひとり。

またひとり。

名が呼ばれるたびに、誰かの指が白花を握りしめる。

誰かが目を閉じる。

誰かが、かすかに息を吐く。

泣き声は少なかった。

けれど、涙がないわけではない。

ここでは、泣くことも、泣かないことも、どちらも許されていた。

「第七槍歩隊、第四班。ヘンリック・バートン」

ユアン少年の名ではない。

父の名だ。

けれど、その名が呼ばれた瞬間、少年の身体がぴんと伸びた。

彼は写し板を見た。

自分の目の高さにある、父の名前。

ヘンリック・バートン。

その文字を、確かめるように見つめる。

それから、抱えていた軍帽を胸に押し当て、深く頭を下げた。

私は、息を止めていたことに気づいた。

写し板を用意してよかった。

心からそう思った。

大人の目線では見えるものが、子どもには見えないことがある。

それは、ほんの少しの高さの違いだ。

けれど、その少しで、人は自分の父の名を見失うことがある。

名簿は進む。

最後の名まで、略されることはなかった。

式典官の声は、最後の方で少しだけかすれた。

それでも、最後まで呼びきった。

ノーラが記録に印をつける。

エルマー卿が、静かに目を伏せた。

テオは導線の端で、負傷兵の列を支えている。

誰か一人がすべてを抱えているのではない。

それぞれの人が、自分の役目を果たしている。

それが、式を支えていた。

献花が始まった。

最初に、先行献花を終えた車椅子の遺族が、席へ戻る。

次に、部隊順に遺族たちが進む。

花を置く。

名を見る。

戻る。

その流れは、静かで、乱れなかった。

フェイン夫人が慰霊碑の前へ立った。

白花を置く。

一度だけ、指先で石に刻まれた名へ触れる。

ロラン・フェイン。

それ以上、彼女は何もしなかった。

けれど、その短い動きだけで十分だった。

ユアン少年は、母親と一緒に進んだ。

献花台の前で、彼は一度だけ写し板を見た。

それから、慰霊碑を見上げる。

高い位置に刻まれた父の名。

そこへ、母親が彼の白花をそっと添える。

少年は軍帽を抱えたまま言った。

声は小さかった。

けれど、近くにいた私は聞こえた。

「見つけたよ、父さん」

胸の奥が、痛いほど温かくなった。

悲しみが消えたわけではない。

何かが救われたと言うには、あまりにも簡単すぎる。

それでも、彼は父の名を見つけた。

今日の式は、そのためにあったのだと思えた。

献花が終わると、負傷兵代表が進み出た。

松葉杖の兵だった。

凱旋式の日、正面階段の前で足を止めた兵。

今日は南側ではなく、慰霊碑へ続く平らな西側通路をゆっくり歩いた。

通路は広く、誰も急かさない。

彼は慰霊碑の前で止まり、松葉杖を片側へ預け、できる範囲で敬礼した。

その敬礼は、完全な形ではなかった。

けれど、誰よりも正しかった。

アルバート様も、軍人席から立ち上がった。

彼は前へ出ない。

代表ではないからだ。

ただ、自分の席で頭を下げた。

長く。

深く。

その姿を、私は見た。

もう、心が揺れることはなかった。

彼は彼の場所で、これから時間をかけて償えばよい。

私がその隣で支える必要はない。

後援席の端では、イレーネも頭を下げていた。

泣いているかどうかは分からない。

でも、顔を上げて人目を確かめてはいなかった。

それでいい。

今日、彼女が学ぶべきものは、誰かに見られる姿ではない。

最後に、カシアン閣下が慰霊碑の前へ立った。

総司令官報告。

それは、慰霊式で最も短い言葉でなければならない。

長い演説は不要。

慰めの飾り言葉も不要。

昨日、監理室でそう確認した。

「王国軍総司令官カシアン・ヴァルクは、ここに報告する」

低い声が、北庭に響く。

「東境戦役において、ここに名を刻まれた者たちは、帰らなかった」

一拍。

「王国軍は、その名を記録する」

一拍。

「遺族の前で呼ぶ」

一拍。

「そして、次の式で省かない」

その言葉に、私は指先を少しだけ握った。

短い。

だが、必要な言葉だった。

約束ではなく、手順に落とせる誓い。

記録する。

呼ぶ。

省かない。

それが、軍の言葉で言える最大の慰めなのだと思った。

低い行進曲が鳴った。

勝利曲ではない。

帰還の曲でも、凱旋式の日に使ったものよりさらに遅い。

音は短く、静かに終わった。

その後の沈黙が、慰霊式を閉じた。

小鐘が鳴る。

閉式。

予定どおり。

けれど、ただ予定どおりだったわけではない。

名が呼ばれた。

花が置かれた。

遺族が、名を見ることができた。

負傷兵が、無理なく敬礼できた。

それぞれが自分の場所に立てた。

慰霊式は、静かに成功した。

閉式後、遺族たちはすぐには帰らなかった。

慰霊碑の前に残り、名前を見ている。

誰かが花を直す。

誰かが子どもの肩に手を置く。

誰かが、何も言わずに空を見上げる。

私は西側の導線から離れず、流れが乱れないように見ていた。

「リディア様」

フェイン夫人が近づいてきた。

私は一礼する。

「本日は、お疲れのところ」

「夫の名が、最初から呼ばれました」

彼女は言った。

「はい」

「視界も、遮られませんでした」

「はい」

「花を置く時、どこへ行けばよいか、迷いませんでした」

「それは何よりです」

フェイン夫人は、私をじっと見た。

黒いヴェールの奥の目は、今日は少しだけやわらかかった。

「凱旋式の日、私は怒っていました」

「当然です」

「今日も、悲しみは消えません」

「はい」

「でも、夫の名がここにあると分かりました」

彼女は慰霊碑を見る。

「それは、ありがたいことです」

私はすぐには返事ができなかった。

慰めではなく、結果を言われたのだと思った。

名がある。

見える。

呼ばれる。

その三つを守るために、私はここにいた。

「ありがとうございます」

私がそう言うと、フェイン夫人は小さく首を振った。

「礼を言うのは、こちらです」

彼女は深く礼をし、席へ戻っていった。

その背中を見送りながら、私は胸の奥で静かに息を吐く。

大きな達成感ではない。

むしろ、重いものを正しい場所へ置けた感覚だった。

次に、ユアン少年が来た。

母親と一緒に。

彼は軍帽を抱えたまま、私を見上げる。

「リディア様」

「はい」

「父さんの名前、見えました」

「よかったです」

「上の石にもあったけど、下の板にもあった」

「はい」

「下の板、また見られますか」

私は少し考えた。

写し板は式典用に作ったものだ。

けれど、式が終わったからといってすぐ片づける必要はない。

「ノーラさん」

近くにいた記録係へ声をかける。

「写し板は、しばらく慰霊碑の横に置けますか」

「風雨対策をすれば可能です。一月ほどなら」

「では、一月置きましょう。子どもだけでなく、背の低い方にも見やすいはずです」

「承知しました」

ユアン少年の顔が少しだけ明るくなった。

「また来てもいいですか」

「もちろんです」

「父さんの名前、また見に来ます」

「ええ」

少年は、ようやく小さく笑った。

ほんの少しだけ。

それでも、たしかに笑った。

その笑顔を見て、私は自分が今日この場所に立っていた意味を、もう一度感じた。

遺族たちが少しずつ帰り始めた後、アルバート様が近づいてきた。

彼は私の前で足を止め、すぐには話さなかった。

以前の彼なら、まず私に言葉を求めただろう。

慰めか、許しか、説明か。

けれど今日は、しばらく沈黙を置いた。

「リディア」

彼はようやく言った。

「今日、部下の名を聞いた」

「はい」

「私は、逃げていたのだと分かった」

「そうですか」

「この先、遺族各家へ謝罪する。式典局の立会いのもとで」

「はい」

「君に許してほしいとは言わない」

私は彼を見た。

その言葉を、ようやく言えたのだと思った。

「それがよろしいと思います」

「君は、もう私の隣には戻らないのだな」

「戻りません」

「分かっている」

アルバート様は、少しだけ苦く笑った。

「今日、ようやく分かった。私は君を隣に置いていたのではない。君に、自分の足元を見てもらっていた」

「……」

「だが、それを君自身だと思っていなかった」

私は何も言わなかった。

その通りだったからだ。

「謝るべきことは多い。だが、今日はこれだけ言う」

彼は深く頭を下げた。

「君が守っていたものを、軽く見ていた。申し訳なかった」

「受け取りました」

私は答えた。

「ただし、その謝罪で終わりにしないでください」

「ああ」

「遺族の方々の前で、同じように、言葉を選んでください」

「分かった」

「そして、二度と省かないでください」

「誓う」

その返事は、以前よりずっと重かった。

彼はもう一度頭を下げ、去っていった。

私はその背中を見送った。

心は揺れなかった。

過去が消えたわけではない。

けれど、過去が私を引き戻すことも、もうなかった。

イレーネは、少し離れた場所にいた。

彼女は私へ近づこうとして、途中で止まった。

そして、遠くから深く頭を下げた。

私は小さく頷いた。

それだけだった。

今は、それで十分だと思った。

北庭の片づけが始まった。

白花は、慰霊碑の前に残すものと、遺族へ渡すものに分けられる。

写し板には、雨除けの布がかけられた。

車椅子用の通路は、当面そのまま残すことになった。

テオが、通路の幅をもう少し広げられないかと石工へ相談している。

ノーラは記録をまとめながら、写し板の常設化について別紙を作っていた。

エルマー卿は式典官たちへ、今日の読み上げの呼吸を次回の基準にすると話している。

式は終わった。

けれど、仕事は終わらない。

そして今の私は、そのことを嫌だとは思わなかった。

「リディア」

カシアン閣下が、慰霊碑の横で私を呼んだ。

私は北庭の端へ向かう。

そこは、遺族の流れから少し外れた場所だった。

仕事の邪魔にはならない。

けれど、慰霊碑は見える。

「まず、仕事の話だ」

閣下は言った。

私は思わず少しだけ笑ってしまった。

「本当に、仕事の話からなのですね」

「そう言った」

「はい」

「東境戦役慰霊式は、監理室基準に照らして適正に終了した」

「はい」

「君の働きは、臨時監理官補として十分だった」

「ありがとうございます」

「よって、臨時ではなく、正式任用を申請する」

私は息を止めた。

「正式任用、ですか」

「王国軍式典監理室、式典監理官。任期は三年。更新あり。権限、報酬、家からの独立性は、すでに君の条件に沿って文書化している」

「私で、よろしいのでしょうか」

「君がいい」

その返事は、あまりにも短かった。

短いのに、心の奥へまっすぐ届いた。

「私は、軍人ではありません」

「必要なのは、軍人だけではない」

「私は、まだ失敗もします」

「するだろう」

「ずいぶん正直ですね」

「失敗しない者はいない。失敗を記録し、次に省かない者が必要だ」

私は慰霊碑を見た。

今日呼ばれた名。

花を置いた人。

見つけたよ、父さん、と言った少年。

それらが胸の中で静かに並ぶ。

「お受けします」

私は答えた。

「王国軍式典監理官として、名を呼ばれるべき人の場所を守ります」

「よろしい」

カシアン閣下は頷いた。

それから、ほんの少しだけ間を置いた。

「次に、仕事の外の話だ」

胸が、静かに鳴った。

私は顔を上げる。

カシアン閣下は、いつものようにまっすぐ私を見ていた。

逃げも、照れ隠しもない。

ただ、少しだけ慎重だった。

「君の時間を、仕事の外でいただきたい」

「……それは、面談でしょうか」

「違う」

「監理室の今後の改善案について」

「それも違う」

「では」

「茶だ」

あまりにも簡潔で、私は少しだけ目を瞬いた。

「お茶、ですか」

「ああ」

「閣下が、私をお茶に誘っていらっしゃるのですか」

「そうだ」

「ずいぶん、率直ですね」

「曖昧にすれば、君は仕事の話に戻すだろう」

「……戻すかもしれません」

「だから、率直に言う」

カシアン閣下は、ほんの少しだけ声を低くした。

「君と、仕事の外でも話したい」

北庭の風が、白花の香りを運んでくる。

慰霊式の後の庭で、恋の言葉には少し不似合いかもしれない。

けれど、この人らしいとも思った。

華やかな舞踏会でも、甘い詩でもなく。

仕事を終えた後、名がきちんと呼ばれた場所のそばで、まっすぐにそう言う。

「私は、仕事を始めたばかりです」

「知っている」

「監理官として、覚えることも多いです」

「知っている」

「家のことも、整理が必要です」

「必要なら手続きを手伝う。手を出しすぎない範囲で」

「そこまで考えていらっしゃるのですね」

「当然だ」

当然。

その言葉が、なぜか胸にしみた。

この人の当然は、人を縛るためのものではない。

人が自分の足で立てるように、必要な線を引くものだ。

「では」

私は少しだけ微笑んだ。

「勤務外の時間に、お茶をいただきます」

「日程は」

「監理室の予定表を確認してから」

「君らしい」

「褒め言葉でしょうか」

「もちろん」

「では、ありがとうございます」

カシアン閣下の口元が、今度ははっきりと笑った。

といっても、ほんのわずかに。

けれど、私はもうそれを見逃さなかった。

「リディア」

「はい」

「私は、君を英雄の隣に置きたいわけではない」

「はい」

「誰かの代わりにしたいわけでもない」

「はい」

「君が君の仕事をしている場所の隣に、私も立ちたいと思っている」

息が、少しだけ止まった。

甘い言葉ではない。

けれど、私がいちばん欲しかった形の言葉だった。

私の仕事を消さない。

私の役目を奪わない。

その場所の隣に立ちたい、と言ってくれる。

「それは」

私はゆっくり答えた。

「とても、ありがたいお申し出です」

「ありがたいだけか」

「今は、そういうことにしておいてください」

「分かった」

「分かるのですね」

「急がない」

「意外です」

「そうか?」

「はい」

私は少しだけ笑った。

「総司令官閣下は、何でも即断なさる方だと思っていました」

「戦場ではな」

「今は?」

「君の歩幅を見る」

その言葉で、胸の奥がまた温かくなった。

歩幅。

誰かの隣を飾るためではなく、自分の足で歩くこと。

それを見てくれる人がいる。

「では、ゆっくり歩きます」

「ああ」

「置いていかないでください」

「置いていかない」

「私も、立ち止まったままではいません」

「知っている」

短い返事。

確かな声。

私は慰霊碑へ視線を戻した。

白花が風に揺れている。

今日呼ばれた名は、石に刻まれ、記録され、遺族の前で声にされた。

まだ悲しみはある。

後悔もある。

失敗の記録も残る。

でも、次に省かないための手順も残った。

数日後、王国軍式典監理室に、私の正式任用書が届いた。

臨時監理官補ではない。

式典監理官、リディア・フォルスター。

任期、権限、報酬、所属。

すべて文書になっている。

フォルスター侯爵家にも写しが送られた。

グランヴィル侯爵家にも、私の勤務に関与できないことが正式に通知された。

父は最初、複雑な顔をしていた。

けれど、王国軍総司令部の文書を前に、何も言えなかった。

イレーネは、私を見て小さく言った。

「お姉様は、もう戻ってこないのですね」

「家には戻るわ」

「そうではなく」

「あなたの代わりに、という意味なら戻らない」

妹は少しだけ目を伏せた。

「はい」

その返事は、以前より小さかった。

けれど、以前より聞こえた。

アルバート様からは、遺族各家への謝罪記録の写しが届いた。

私宛てではない。

式典監理室宛ての業務報告として。

それでよかった。

謝罪は、私を通すものではない。

彼は彼の場所で、自分のしたことを引き受け始めている。

そして、カシアン閣下からは、茶会の日程案が届いた。

仕事の文書とは別に。

けれど、驚くほどきちんとした日程案だった。

第一候補、七日後の午後。

第二候補、十日後の午前。

第三候補、十四日後の夕刻。

場所は、王城北庭ではなく、ヴァルク辺境公爵家の王都邸。

同席者なし。

ただし、最初の面会として礼法上必要な控えの者は置く。

私はそれを見て、思わず笑ってしまった。

恋の誘いというより、業務調整に近い。

けれど、私の時間を私のものとして扱ってくれている。

急に呼び出さない。

曖昧にしない。

選択肢を示す。

それが、何よりも心地よかった。

私は返書を書いた。

第一候補の日程で伺います、と。

ただし、勤務後の時間に限ること。

そして、仕事の話ばかりにならないよう、お互い努力すること。

返書の翌日、カシアン閣下から短い文が届いた。

承知した。

努力する。

その二行を見て、また笑ってしまった。

この人は本当に、甘い言葉が上手ではない。

でも、私はその二行を大事にしまった。

慰霊式から十日後。

私は監理室の机に、新しい作業板を広げていた。

次は、負傷兵叙勲式。

その次は、遺族支援金授与式。

さらに、辺境砦再建の起工式。

やるべきことは多い。

名を呼ぶ順番。

席の高さ。

車椅子の通路。

子どもの目線。

負傷兵が無理に立たずに済む礼の形。

ひとつずつ、手順にする。

ノーラが記録を取り、テオが導線を引き、エルマー卿が運営へ落とし込む。

私はその中で、必要な線を見ている。

どこから先が飾りで、どこから先が意味を侵すのか。

誰の名が見えなくなるのか。

誰の足元が危うくなるのか。

そういうものを、見落とさないために。

机の端には、式典監理室の徽章がある。

白いマントではない。

英雄の隣に立つための布でもない。

それでも、私にとっては、今まで受け取ったどんな装飾より重く、誇らしいものだった。

「リディア監理官」

ノーラが呼んだ。

私は顔を上げる。

「叙勲式の席次案です」

「ありがとう。負傷兵の方の立礼時間は短くしていますか」

「はい。座ったまま礼を受けられる形式に変更しています」

「よかった」

「それから、ユアン・バートン少年から手紙が届いています」

「ユアン様から?」

「はい」

ノーラが差し出した小さな封筒には、少し不格好な文字で私の名が書かれていた。

開くと、短い文があった。

父さんの名前を、また見に行きました。

下の板があったので、すぐに見つけられました。

母さんも、よかったと言っていました。

私はしばらく、その手紙を見つめていた。

胸の奥が、静かに満たされていく。

大きな勝利ではない。

拍手もない。

けれど、これが私の仕事の答えなのだと思った。

「写し板は、常設化の申請を出しましょう」

「すでに草案を作っています」

「さすがですね」

「監理室ですので」

ノーラが表情を変えずに言う。

私は笑った。

この部屋は、やはり私に合っている。

窓の外では、王都の空が青く広がっていた。

遠くの広場では、次の式典のための旗が準備されている。

旗は美しい。

花も美しい。

音楽も、拍手も、人の心を動かす。

それを否定するつもりはない。

ただ、その前に名がある。

席がある。

足元がある。

誰かが見るべき高さがある。

それを忘れない限り、美しいものはきっと本当に美しくなる。

私は作業板の一番上に、今日も小さな札を置いた。

名を呼ぶ前に、飾らない。

その下に、もう一枚札を足す。

名を呼ばれるべき人の場所を、守る。

白いマントは、もう私のものではない。

英雄の隣も、もう私の場所ではない。

けれど、私はもう誰かの隣を飾るためだけの令嬢ではない。

名を呼ばれるべき人が、きちんとその名を聞けるように。

花を置く人が、迷わずその場所へ辿り着けるように。

帰ってきた者も、帰らなかった者も、同じ式の中で軽んじられないように。

私は、ここに立つ。

私の名で。

私の役目で。

そして、私の選んだ場所で。