作品タイトル不明
第六話 慰霊式の準備は、勝利よりも手順が重い
王国軍式典監理室は、軍務式典局の奥にあった。
華やかな広間ではない。
軍旗を掲げる場所でもない。
石壁の細い廊下を抜けた先にある、窓の少ない部屋だった。
壁には、過去十年分の軍主催式典の記録棚が並んでいる。
部屋の中央には大きな作業台。
その上には、名簿、導線図、遺族照会書、負傷兵の出席可否、花の手配書、慰霊碑前の立ち位置図が積まれていた。
きれいな部屋ではない。
けれど、必要なものが必要な場所にある部屋だった。
「ここが、君の席だ」
カシアン閣下が指したのは、窓際の机だった。
机の上には、まだ何も置かれていない。
真新しいというより、きちんと空けられた机だった。
誰かの余りではなく、私のために用意された空白。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「ありがとうございます」
私は一礼した。
「まずは臨時監理官補として、東境戦役慰霊式の準備に入ってもらう」
「承知いたしました」
「式典局長のエルマーは、運営側として引き続き動く。監理室は、その上で基準と確認を担う」
「つまり、式典局が式を回し、監理室が崩れてはいけない部分を見ます」
「そうだ」
カシアン閣下は短く頷いた。
「君に求めるのは、全部を一人で抱えることではない」
その言葉に、私は少しだけ顔を上げた。
「全部を一人で、ですか」
「その癖があるだろう」
「……あるかもしれません」
「ある」
即答だった。
私は思わず小さく笑ってしまった。
「はっきりおっしゃいますね」
「曖昧に言うと、君は曖昧に背負う」
「それは、少し耳が痛いです」
「なら、聞こえているな」
カシアン閣下は作業台の上にある導線図を一枚取った。
「慰霊式では、君が誰かの代わりに動くのではない。誰が見ても同じように動ける形を作る」
「仕組みにする、ということですね」
「ああ」
彼は、部屋の奥に控えていた三人を見た。
「紹介する」
まず前に出たのは、茶色の髪をきっちりまとめた女性だった。
年は私より少し上だろうか。
軍人ではなく、文官の服を着ている。
手には、角を揃えた書類束を抱えていた。
「記録係のノーラ・ベイルです」
彼女は落ち着いた声で言った。
「戦死者名簿、遺族照会、式典後の記録保管を担当しています」
「リディア・フォルスターです。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
次に、片腕を包帯で吊った若い士官が一歩出た。
「現場導線担当のテオ・ランバートです。先日の凱旋式では、南側通路の誘導を補助しました」
「あの時の」
「はい」
彼は少しだけ苦笑した。
「正面階段の時点で、もっと強く止めるべきでした」
「あなた一人の責ではありません」
「ですが、次は止めます」
その声は、若いが、まっすぐだった。
私は頷く。
こういう人がいるなら、現場はきっと動く。
最後に、エルマー卿が扉の横から進み出た。
式典局長でありながら、今日はどこか監理室の一員のような顔をしている。
「運営側として、改めてお願いします」
エルマー卿は言った。
「先日の件で、式典局にも甘さがありました。功績者家門の要望を《演出》として受けすぎた」
「式典局だけの問題ではありません」
「それでも、運営側の問題です」
エルマー卿は、静かに頭を下げた。
「次は、演出が式の意味を侵す前に止めます」
私は少しだけ胸が詰まった。
この人たちは、言い訳をしない。
誰かに責任を押しつけるのでもなく、自分たちの足りなかった部分を見ている。
だから、私もここで働けるのだと思った。
「では、始めましょう」
私は作業台の前に立った。
「慰霊式で最初に決めるべきなのは、花でも席でもありません」
「何だ」
カシアン閣下が問う。
「名を呼ぶ順番です」
私は、黒い革表紙の正式名簿を手に取った。
「凱旋式では、名を呼び直しました。けれど、あれはあくまで崩れた場での緊急対応です。慰霊式では、最初からその名を中心に置かなければなりません」
「部隊順でよいか」
ノーラが訊いた。
私は首を振る。
「基本は部隊順です。ただし、今回は慰霊碑への刻名確認があります。遺族の照会順と、部隊順と、慰霊碑上の刻名位置が食い違わないよう、三つを照合します」
「三つ」
テオが目を瞬いた。
「名簿だけでは駄目ですか」
「駄目です」
私は言った。
「名を呼ぶ順が正しくても、慰霊碑の刻名が別の列にあると、遺族はそこで迷います」
「ああ……」
「呼ばれた名を聞いたあと、遺族が花を捧げる。そこで目の前の石にその名が見つからないと、式は途切れます」
「なるほど」
テオは真剣な顔で頷いた。
「歩く順番にも関わりますね」
「はい」
私は少しだけ微笑んだ。
「だから、導線担当のあなたに最初から関わっていただきたいのです」
テオの顔が、一瞬だけ明るくなった。
自分の担当が、ただの人の流れではなく、式の意味に関わっていると分かった顔だった。
「ノーラさん」
私は次に、記録係へ向き直った。
「戦死者名簿、遺族照会書、慰霊碑刻名案を三列で並べられますか」
「できます」
「略称ではなく、正式名で」
「もちろんです」
「それから、同名の方がいないか確認を」
「東境戦役では、カイルが二名、ロランが三名います」
「では、読み上げ時には所属を必ず添えましょう。遺族席の札にも所属を入れます」
「承知しました」
「エルマー卿」
私は式典局長を見る。
「式典官の読み上げ台は、慰霊碑の正面ではなく、少し右へずらしてください」
「理由は」
「遺族が花を捧げる時、式典官と正面で交差します。名を呼ぶ人と、花を置く人がぶつかる形になるのは避けたいです」
「なるほど」
エルマー卿はすぐに導線図へ線を引いた。
「右へ半歩。いや、一歩ですね」
「はい。一歩でお願いします」
「楽団は」
「最初は不要です」
「完全に?」
「少なくとも、名を呼ぶ前には」
私は答えた。
「音で整えるより、まず沈黙を置くべきです。音は、花を置き終えたあとに短く」
「勝利曲ではなく」
「帰還行進曲の低音部を、さらに遅くしてください」
「分かりました」
作業台の上で、紙が動く。
札が並ぶ。
線が引かれる。
部屋の空気が少しずつ整っていく。
私はその音を聞きながら、胸の奥が落ち着いていくのを感じた。
ここでは、私が一人で全部を持つ必要はない。
私が言えば、誰かが記録する。
誰かが導線へ落とす。
誰かが運営案へ変える。
それは、今まで私がずっと欲しかった形だった。
昼過ぎ、慰霊碑前の下見へ向かった。
王城の北庭。
華やかな庭園ではなく、軍旗の影が落ちる静かな場所。
中央に、灰色の慰霊碑が立っている。
その周りには、まだ刻名用の仮板が並べられていた。
石工たちが寸法を測り、軍務係が照合をしている。
「ここで花を置くのですね」
私は碑の前に立った。
足元の石畳は平らだが、東側だけ少し傾いている。
雨が降れば、そこに水が流れるだろう。
「テオさん」
「はい」
「花を捧げる導線は、南から入れて西へ抜ける案でしたね」
「はい」
「東側は使わない方がいいです。雨の後に滑ります」
「昨日、確認しました。確かに濡れると危険です」
「では、東側は近衛のみ。遺族は通さないでください」
「承知しました」
「車椅子の方は?」
「二名、出席予定です」
「段差を避けるなら、西側から入る方がいいですね」
「西側だと、他の遺族の列と交差します」
「では、車椅子の方だけ先に花を捧げる時間を設けましょう。開式前ではなく、開式後、最初の献花として」
テオが少し驚いた顔をした。
「最初に、ですか」
「はい」
「格の問題は」
「帰れなかった人のために来た遺族です。歩けるかどうかで後ろへ回す理由はありません」
テオは一瞬黙り、それから深く頷いた。
「分かりました。先導をつけます」
「お願いします」
その時、慰霊碑の前で一人の少年が立ち尽くしているのが見えた。
父の古い軍帽を抱えた少年。
凱旋式で、父の名が呼ばれた時に頭を下げていた子だった。
付き添いの女性がそばにいる。
母親だろうか。
少年は仮板の名前をじっと見つめていた。
「フェイン夫人ではありませんね」
ノーラが小さく言う。
「第七槍歩隊の遺族です。父親が戦死、母親と息子が出席予定」
「名前は」
「ユアン・バートン。父親はヘンリック・バートンです」
私は少し迷った。
今の私は、正式な役目を持っている。
けれど、遺族へ何を言うべきかは慎重に決めなければならない。
慰めの言葉は、時に軽くなる。
私はゆっくり近づいた。
「ユアン様」
少年が振り向く。
まだ十歳にもならないだろう。
けれど、軍帽を抱える手だけは妙にしっかりしていた。
「お父上の名を確認されているのですか」
「……はい」
「見つかりましたか」
「ありました」
少年は仮板を指した。
「でも、少し上の方で」
私は見上げた。
たしかに、子どもの目線からは少し高い。
大人なら問題ない。
けれど、花を捧げに来る家族の中には子どももいる。
私はノーラを見る。
「仮板の位置を、一段下げられますか」
「全体の配置が変わります」
「慰霊碑本体の刻名位置は動かせませんね」
「はい」
「では、献花時に置く写し板を用意しましょう。子どもが見られる高さで、同じ順番のものを」
「なるほど」
ノーラはすぐに記録を取った。
「写し板。献花台の前。子どもの目線に合わせる」
「はい」
ユアン少年が、私を見る。
「父さんの名前、下にも出るんですか」
「献花の時に、見えるようにします」
「本当?」
「はい」
私は頷いた。
「お父上の名を、あなたが見つけられるように」
少年は軍帽をぎゅっと抱えた。
泣きはしなかった。
ただ、少しだけ唇を噛んだ。
その姿を見て、胸が痛む。
でも、その痛みは仕事を止めるためではなく、仕事の理由として持つべきものだった。
付き添いの女性が、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ準備の途中です」
私は答えた。
「当日、きちんと見えるようにいたします」
その約束を、今度は曖昧な善意ではなく、正式な仕事として言える。
それが、ひどく重くて、同時にありがたかった。
監理室へ戻ると、私は作業台の中央に大きな板を置いた。
板には、慰霊式の流れを横に並べる。
開式。
沈黙。
車椅子遺族の先行献花。
戦死者名読み上げ。
一般遺族献花。
負傷兵代表礼。
総司令官報告。
短い低音曲。
閉式。
それぞれの下に、担当者名を置く。
ノーラ。
テオ。
エルマー卿。
式典官。
近衛士官。
花係。
記録官。
そして、私の名前。
「これを、当日まで毎朝確認します」
私は言った。
「誰が何をするか。どこで止まったら誰が判断するか。誰か一人が倒れても、次の人が引き継げるようにします」
「君の名前が少ないな」
カシアン閣下が板を見て言った。
いつの間にか部屋へ戻っていたらしい。
「監理官補なので」
「以前なら、全部自分の欄に置いただろう」
「……置いたかもしれません」
「進歩だな」
「褒められているのでしょうか」
「もちろん」
即答だった。
私は少しだけ笑ってしまった。
「閣下の褒め言葉は、いつも不思議です」
「そうか」
「はい」
「では、次から分かりやすくする」
「いえ」
私は首を振った。
「今のままで、分かるようになってきました」
カシアン閣下は、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情は、笑みに近かった。
でもすぐに、彼は作業板へ視線を戻す。
「写し板は良い判断だ」
「ご覧になっていたのですか」
「報告を受けた」
「そうでしたか」
「子どもの目線は、軍式典では抜けやすい」
「軍人の方は、背が高い方が多いですから」
「そういう問題だけではないだろう」
「はい」
私は静かに頷いた。
「名を呼ぶことは、大人のためだけではありません」
「そうだな」
カシアン閣下の声が少しだけ低くなった。
「戦死者の子は、自分の父がどこにいるのかを見つける必要がある」
その言葉に、私は手元の札を見た。
ヘンリック・バートン。
ユアン少年の父。
名簿の中の一行。
けれど、その一行を探す子どもがいる。
だから、位置も高さも順番も、ただの事務ではない。
「リディア」
「はい」
「君は、名を忘れないための手順を作っている」
胸の奥が、また静かに熱くなった。
この方は、どうしてそういう言い方をするのだろう。
甘くはない。
優しく包むようでもない。
けれど、私が何をしているのかを、必要な言葉で正確に呼んでくれる。
「ありがとうございます」
「礼は慰霊式が終わってからでいい」
「はい」
「ただし、今日の判断は良い」
「……今、褒めましたか」
「褒めた」
「分かりやすくなりました」
「そうか」
カシアン閣下の口元が、ごくわずかに動いた。
今度は、確かに笑ったのだと思う。
私は視線を作業板へ戻した。
仕事中に余計な顔をしてはいけない。
そう思ったのに、少しだけ頬が熱くなる。
困ったことに、私はこの人の短い評価にだいぶ弱くなっているらしい。
夕方、監理室に一通の申し入れが届いた。
差出人は、アルバート・グランヴィル。
内容は、慰霊式前にリディア・フォルスターへ面会を求めるもの。
私は封書を読んで、しばらく黙った。
「私的面会は、今は避けるべきです」
先に言ったのはノーラだった。
「慰霊式の準備中です。元婚約者としての接触は、外から見れば不適切に映ります」
「同感です」
エルマー卿も頷く。
「ただ、彼には遺族謝罪の準備がある。完全に遮断すると、また別の問題が出ます」
テオは腕を組んで考え込んだ。
「式典監理室立会いで、業務上の確認だけにするとか?」
「それがよいと思います」
私は封書を置いた。
「ただし、私個人への謝罪や婚約の話は受けません。慰霊式に関する確認だけです」
「では、そのように返答します」
ノーラがすぐに文案を書き始める。
私はその横顔を見ながら、少しだけ不思議な気持ちになった。
以前なら、こういうことも自分で全部判断し、自分で文面を整え、自分で受け止めていただろう。
今は違う。
周囲が線を引いてくれる。
私が自分の仕事から外れそうになった時、その線を一緒に守ってくれる人がいる。
「リディア嬢」
エルマー卿が、少しだけ申し訳なさそうに言った。
「明日、アルバート殿とイレーネ嬢が来る可能性があります」
「イレーネも?」
「白いマントの扱いについて、どうしても説明を受けたいと」
「今さら、ですか」
「はい」
私は小さく息を吐いた。
胸が痛まないわけではない。
けれど、もう振り回される感覚はなかった。
彼らが何を言うとしても、私には私の席がある。
私の役目がある。
そして、守るべき名がある。
「分かりました」
私は言った。
「では、明日は業務上の確認として対応します」
「無理はしないでください」
ノーラが静かに言う。
私は少し驚いて、彼女を見る。
「ありがとうございます」
「監理室の人員が倒れると、式が困りますので」
「実務的ですね」
「はい」
ノーラは表情を変えずに頷いた。
「実務的な心配です」
その言い方に、私は笑ってしまった。
ここは本当に、私に向いている場所かもしれない。
優しさが、きちんと実務の形をしている。
夜、監理室の灯りを落とす前に、私はもう一度作業板を見た。
名簿。
導線。
献花順。
写し板。
担当者。
判断者。
どれもまだ仮の状態だ。
けれど、昨日よりずっと形になっている。
誰か一人の頭の中にあるものではない。
部屋にいる全員が見て、直して、引き継げる形になっている。
私は机の上に置かれた自分の辞令を見た。
臨時監理官補。
期間、権限、報酬。
そして私の名。
リディア・フォルスター。
その文字を見ても、もう胸が痛むことはなかった。
むしろ、少し背筋が伸びる。
白いマントは、私のものではない。
英雄の隣も、私の場所ではない。
でも私は、ここで名を守る手順を作っている。
その仕事を、誰かに正式に求められている。
窓の外には、王都の灯りが見えた。
広場の方角は、もう暗い。
けれど明後日には、慰霊碑の前にまた人が集まる。
名を聞くために。
花を置くために。
帰らなかった人が、帰らなかったまま忘れられないために。
私は作業板の一番上に、小さな札を置いた。
誰かに見せるためではない。
自分が忘れないための札だった。
名を呼ぶ前に、飾らない。
その一文を見て、私は静かに灯りを消した。