軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

25

「帰るよ。残念だけど、ここにもう用はない」

ハディスの手を見つめながら、乾いて張りついた唇を、ジルは無理矢理動かした。

「……ナターリエ殿下と国璽を、取り戻しましょう。宣戦布告なんて、大袈裟です」

そうだ、大袈裟だ。そう笑ってほしい。

「サーヴェル家も……っお父様とお母様だって、助けてくれます。ジェラルド様だって! 協力すればいいじゃないですか、なんにも争う必要なんてありません! だから――」

「クレイトスの内紛に、手を貸せと? 冗談じゃない」

ハディスが吐き捨てた。ざわめていているのは、梢か、それとも胸の裡か。

「勝手に争えばいい。僕には――ラーヴェ帝国には、関係ない。どちらに味方しても、いいことなんてひとつもない。内ゲバで疲弊してくれれば、有り難いくらいだ」

「で……、でも、わたしと、陛下の、結婚が」

「どちらか勝った方に改めて打診すればいいことだよ。ジル。これ以上は譲歩できない。ナターリエの安全も確保しないと」

「そうですよ! なのにナターリエ殿下を助けるために、軍を動かすなんて――そんなこと、したら」

戦争になるじゃないか。和平をするんじゃなかったのか。自分のために。

――ああ、でもハディスは気づいていたんじゃないのか。家族が反対していること。自分だけが何も気づかずにいて、まだ夢を見ているだけで。

決定的なことは問えずに、拳を握ってジルは顔をあげた。

「わたしはっ、助けにいきます! ナターリエ殿下を、ひとりでも……っそして国璽を取り戻して、陛下と結婚するんです! それで、問題ないはずです! そうでしょう!?」

ハディスが小さく嘆息した。いつものような、しょうがないと許す仕草ではない。

こめられたのは、失望だ。そしてわざとらしい、試験官のような笑み。

「――それは、竜妃としての判断? それとも、ジル・サーヴェルとしての判断?」

「どっちもですよ! どっちもわたしです、だから――」

「嘘だ」

ハディスが無慈悲に切り捨てた。

「僕より故郷を選ぶんだ。やっぱり、そうなると思った」

端整な口元に、物わかりの悪さに対する苛立ちと、侮蔑がまじっている。

「立派な皇帝になれって言ったのは君だよね」

そう望んだのはお前だろう。だからその責任を取るべきだ。そう、突きつけるように。

「だから僕は竜妃として君がこの内紛に関わることを認めないし、許さない」

「……別に、かまいません! 陛下の許しなんてなくても――」

「なら、もう君は竜妃じゃない」

唐突な、宣告だった。売り言葉に買い言葉のような。

なのにそれだけで、足の底が抜けたような感覚がした。ぐらりと世界が反転する気持ち悪さが先にきて、意味をうまくとらえられない。とらえたくない。唇もわなないて、動かない。

なのに、瞳の縁に勝手に盛り上がってくるものがある――まだ、意味がわからないままでいたいのに。

竜帝より故郷を守る竜妃など、必要ない。

自明の理。愛のない、理。

(嘘だ。違う)

声が出ない。呼吸のしかたを忘れた、魚みたいだ。きっとハディスは気づいている。気づいてくれる。そういうひとだ。

そう信じているのに、差し出した手を引いて、もう笑顔も作らなくなったハディスが、吐き捨てる。

「僕の婚約者でも、なんでもない。ここでお別れだ」

「この、さっきから聞いてりゃ一方的に……っ!」

「開戦するってわかって行かせるか!」

「リック、アンディ! やめなさい!」

父親の制止も振り切ってリックとアンディが飛びかかっていく。それをジークとカミラが制止しにかかる。リックの投げた短剣がかすめて、ハディスの頬に一筋、朱が走る。ハディスが物憂げにまぶたを伏せて、持ち上げる。

「僕に、手を出した。決定打だ」

瞬間、双子の弟達が竜帝の魔力に押しつぶされて沈んだ。

そのまま顎を持ち上げたハディスを中心に、魔力の重圧がかかる。膝をつけという圧倒的な暴力だ。支配者の眼差しに、隣にいた両親もロレンスも、こちらに走ってきたジェラルドも、そのまま膝を突く。立っているカミラとジークも戸惑ったように動きを止めてしまった。

その流れすべてを、身じろぎもまばたきもできず、ジルは見ていた。

夢みたいだ、と思った。いつか見た夢。圧倒的な火力ですべてを平伏していく、理と空を守る竜神の国の皇帝。

「僕は妻にはひざまずく」

何度も聞いたはずの言葉すら、夢ではないかと思う。

「でも、妻以外にはひざまずかない。――ジル。最後だ」

夢だったのかもしれない、今までこそが――だとしたらなんて残酷な夢だろう。

「おいで」

好きなひとに手を差し伸べられて、微笑まれて、こんなに胸が痛いなんて。

「……いけま、せん」

拒まなければいけないなんて。

「こんな脅しみたいな真似をされて、いけるわけ、ないじゃないですか……! 今すぐみんなを解放してください、陛下――お願いだから!」

ハディスが差し出した手をさげて、失笑した。

「ジーク、カミラ。行くぞ。包囲される前に合流する」

「待って待って陛下。アタシたちは……」

「君達は竜妃の騎士だが、ここは敵国のど真ん中だ。死にたくないなら、ラーヴェ帝国での辞職をおすすめするよ」

「待っ――」

「だめだジル姫、行くな……っ竜妃は……!」

ジェラルドに手首をつかまれた。弱い力だ。振りほどける。なのに、脂汗を浮かべて必死で止めようとするその表情から、目が離せない。

「歴代の竜妃は皆、竜帝に殺されている!」

振り向いたジルとハディスの目が合った。まさか、とさぐってしまった。

たぶん、それが決定的な失敗だった。

はっきりとハディスの目に、失望の色が浮かぶ。

「さようなら。紫水晶の瞳をした、お嬢さん」

苦笑い気味にそう告げて、ハディスが踵を返す。瞬間、皆の金縛りがほどけた。ジェラルドが跳ね起きて叫ぶ。

「サーヴェル伯、皇帝を行かせるな!」

「アンディ、リック、サーヴェル領すべてに伝達! 竜帝を確保しろ!」

「決してラーヴェ帝国に戻してはだめよ、戦争になるわ!」

両親の指示にジークが駆け出し、ハディスの背後に飛んできた矢を落とす。カミラも舌打ちしてテラスから飛び出し、ハディスの前に矢を向け、一度だけ振り向いた。

「ジルちゃん、アタシたちは――」

「やめろ、もう隊長は竜妃じゃないんだ」

振り切るようにカミラが顔をそむけた。ジークが目礼したあと、ハディスの前に立つ。ふわりと三人が浮いた。転移だ、と誰かが叫ぶ。そう遠くまでいけないはずだと、空に魔力を押さえる魔術が描かれる。怒号と、剣戟の音。魔力の輝き。

怖くなどない。慣れた光景だ。

なのに、一歩も動けなかった。凍り付いたように、足も動かない。

ただ胸を押さえて、呼吸をしているだけ。馬鹿みたいだ。すべきことはたくさんあるのに、間違っていないと思うのに、文句だって山のようにあるのに、さようならだけで苦しくてつらくて悲しくて張り裂けそうで、何もできなくなる。

(諦めないって、言ったのに。約束を守れば、いいだけなのに)

これが恋だ。

知らなかった。知らないままで、いたかった。