軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5 第二王子の危機

セドリックの部屋は広かった。

王子の私室と聞いて誰もが思い浮かべるような、豪奢で美しい部屋だった。

高い天井には繊細な装飾が施され、壁には上質な織物が掛けられている。窓辺には重たげなカーテンが垂れ、磨かれた床には深い色合いの絨毯が敷かれていた。奥には大きなベッド、手前には来客用のソファと小卓。どこを見ても気品と贅沢が行き届いていて、王族にふさわしい空間だった。

けれど、チヨにはその部屋が、少しだけ寒々しく見えた。

整いすぎていて、誰かが心からくつろいだ気配が薄い。

まるできれいに飾られたまま、ずっと誰にも触れられていない部屋のようだった。

チヨは静かに室内を見回し、それから感心したように頷いた。

「まあ、立派なお部屋だこと。……掃除が大変そうね」

セドリックは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「そんな感想を言う女性は初めてだよ」

肩を揺らしながら笑う。けれどその笑みは、どこか作り慣れたものにも見えた。

「……ここに来る女性はたいてい、自分が王妃になれるんじゃないかって期待してるからね」

セドリックは小さくつぶやいた。

そんなセドリックを気にも留めず、チヨはベッドに座り込んだ。

「何をしているの? 早くベッドに来なさい」

ムードも何もない提案に、セドリックは少し目を丸くする。

「この世でいちばん気持ちいいこと、知りたいんでしょう」

セドリックはその言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた。

「俺の先生はずいぶん大胆だね」

セドリックはくすりと笑った。

軽口を返しながらも、どこか気を抜いたようにベッドへ向かい、その端に腰を下ろす。

「それで?」

「うつぶせになりなさい」

「……俺が?」

「そうよ」

迷いのない声だった。

セドリックは少しだけ肩をすくめる。

「リードされるのは初めてだな」

そう言って、素直にうつぶせになった。

柔らかなマットレスが、その体を静かに受け止める。

次の瞬間、チヨはためらいなくベッドに上がり、セドリックにまたがった。

「えっ、ちょ──」

驚いて顔を上げかけたセドリックに、チヨは落ち着いた声で言う。

「ほら、力を抜いて」

ぐっ、と指が入った。

「っ……あ!」

短い悲鳴が漏れる。

「若いのに、ずいぶん固いのね」

ぐり、ぐり、と遠慮なく押す。

押されるたびに、セドリックがびくりと揺れた。

「ここよ。ここが固いの」

「っ、ま、待っ……そこ、ほんとに……」

ぐっ、ぐっ、と、ためらいなく押し込まれる。

最初は跳ねるようにこわばっていた体が、少しずつ、少しずつ沈んでいく。

体に、知らず知らずのうちに積もっていたものが、ゆるんで流れていくようだった。

「……あ」

しばらくして、セドリックが小さく呟いた。

「……何これ」

チヨは当然のように言う。

「肩たたきともみほぐしよ」

そのまま肩から背中へ、ゆっくりと手を移していく。

力強いのに、不思議と痛いだけではない。

押されるたび、胸の奥に張りつめていたものまでほどけていく気がした。

やがてセドリックは目を閉じ、深く息を吐いた。

「……気持ちいい」

その声は、もうさっきの軽薄な笑いを含んでいなかった。

肩の力を抜いた、年相応の青年の声だった。

チヨは満足そうに頷く。

「でしょう? この世でいちばん気持ちいいことよ」

セドリックは苦笑するように、顔を枕に埋めた。

「これは反則だ……。こんなの、太刀打ちできるわけない」

「なにも考えなくていいの」

チヨの声は、どこまでも穏やかだった。

「少し、休みなさい」

「……ん」

チヨは背中をほぐしながら、静かに言った。

「若いのに無理をしているのね。作り笑いばかりしている人ほど、こういうところに出るものよ」

セドリックの呼吸が、わずかに止まる。

「……なんで分かった?」

「年を重ねるとね、見えるようになるものがあるの」

チヨは手を止めずに続ける。

「セールスとか保険とか、いろんな人が来るでしょう? 自分を押し殺して人をだまそうとする人が」

少しだけ、懐かしむような目をした。

「あの子たちも必死だったんでしょうね。自分が生きるために」

それから、やわらかな声で続ける。

「でもね、人を騙すことは、たいてい長続きしないでうまくいかないものよ」

セドリックは、しばらく黙っていた。

その沈黙は重くはなかった。

むしろ、安心して黙っていられるような静けさだった。

やがて、彼はぽつりと呟く。

「……兄上は優秀すぎるんだ」

チヨは何も言わず、続きを待った。

「強くて、正しくて、賢い。だからこそ、貴族たちは怖がる。自分たちの思い通りにならない王は都合が悪いからな」

少し苦く笑った。

「だから俺は、遊び人のふりをしてる。王位に興味なんてない、女遊びしか頭にない馬鹿な王子だって、そう思わせておけばいい」

チヨは黙って背中を押す。

その沈黙に促されるように、セドリックの声がさらに低くなる。

「貴族令嬢の相手をして、貴族どもの機嫌を取って、ガス抜きをして……そうしていれば、兄上に向くはずの敵意が少しは逸れる」

そこで一度、言葉が途切れた。

「兄上は、いい王になる。だから俺は、悪い王子でいい」

その声には誇りがあった。

けれど同時に、誰にも言えなかった疲れと、寂しさも混じっていた。

チヨはぽん、と軽く肩を叩いた。

「偉いのね」

そのたったひと言が、思いがけず深く刺さったのか、セドリックの指先がわずかにシーツをつかんだ。

「……そんなふうに言われたの、初めてかもしれない」

かすれた声だった。

「皆、俺のことを遊んでいるだけの男だと思ってる。そう見えるようにしてきたのは俺だけど……でも、たまに分からなくなるんだ」

チヨは静かに聞いていた。

「俺、本当にこれでよかったのかなって。誰にも本当のことを言わないまま、笑ってばかりいて……気づいたら、自分でも何が本音か分からなくなる時がある」

その言葉は、弱音というより、ようやく零れ落ちた本心だった。

チヨは背に触れたまま、やさしく言った。

「では、なおさら正直に言わなくてはだめね」

「……誰に?」

「お兄さんに、よ」

セドリックは目を閉じたまま、弱く笑った。

「無理だよ。兄上はきっと、俺のこと軽蔑してる」

その瞬間だった。

「軽蔑などしていない」

低い声が、扉の方から響いた。

部屋の空気がぴたりと止まる。

振り向くと、そこにレオンが立っていた。

「兄上……!」

セドリックが目を見開く。

「お前の苦悩に気づいてやれなくて、すまなかった」

セドリックは言葉を失った。

しばらくして、ようやく掠れた声を絞り出す。

「……いつから?」

「最初からよ」

チヨは悪びれもせず肩をすくめた。

「あなたのことが心配だったのでしょう。扉の外で、ずっと落ち着きなくうろうろしていた気配がしたもの」

「俺の心配……?」

「そうよ。あなたが悲鳴をあげた時なんて、外ですごい音がしたわ。慌てて何かにぶつかったのじゃないかしら」

その言葉に、セドリックは思わずレオンを見る。

「兄上が……?」

レオンは咳払いした。

「……あんな状況で平然としていられる方がおかしいだろう」

あまりにも不器用な言い訳だった。

セドリックは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。

「あははっ……はははははっ!」

「なぜ笑う」

「ふっ……くく、あの冷静沈着な兄上が、そんなふうになるなんて」

レオンは眉を寄せた。

「私は昔から、そう器用な人間じゃない」

「嘘だろ。ずっと完璧だったじゃないか」

「お前にはそう見せるしかなかっただけだ」

そのひと言に、セドリックの表情が揺れた。

レオンは弟を見つめたまま、静かに続ける。

「父上が亡くなってから、私はずっと考えていた。王になる者が弱さを見せてはいけないと。迷いも不安も、誰にも見せずにいなければならないと思っていた」

少しだけ声が低くなる。

「だが、そのせいで……お前にまで、何も言わせない兄になっていたのかもしれない。俺は、お前の兄失格だ」

レオンの目には、はっきりと後悔がにじんでいた。

部屋の中が、しんと静まる。

セドリックはゆっくりと身を起こした。

その目は赤くなりかけていたが、必死にこらえているのが分かった。

「違う……兄上は、何も悪くない。俺は……兄上の役に立ちたかっただけなんだ」

ぽつりと落ちたその言葉は、あまりにも幼く、まっすぐだった。

「兄上が立派だから。すごいから。だからせめて……兄上のためになる弟でいたかった」

声が震える。けれどもう、止められなかった。

レオンは息を呑み、それからゆっくりと弟のそばまで歩み寄った。

「……馬鹿だな」

その声音は、叱るものではなく、どうしようもなく愛しいものを見るような響きだった。

「お前も立派な、私の弟だ」

レオンはセドリックの肩に手を置く。

「お前が私のために動いてくれていたことを、私は誇りに思う。苦しいやり方だったとしても、それでもお前は、国と私を守ろうとした」

セドリックの目から、とうとう一筋、涙がこぼれた。

「兄上……」

「ありがとう、セドリック」

たったそれだけの言葉だった。

けれど、それはセドリックがずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。

彼は顔を伏せ、肩を震わせた。

泣くまいとしているのに、もう抑えきれなかった。

レオンはそんな弟を見て、一瞬ためらい、それから静かに抱き寄せた。

セドリックは驚いたように息を呑み、次の瞬間、子どものようにその胸元をつかんだ。

「……っ、兄上……!」

ずっと強がってきたものが、そこでようやくほどけた。

「すまなかった」

レオンは弟の頭に手を置き、低く言った。

「これからは、一人で背負うな。私も背負う。お前は私の弟だ」

セドリックは何も言えず、ただ頷いた。

肩を震わせながら、何度も、何度も。

少し離れた場所で、その様子を見ながら茶をすすっていたチヨは、そっと目を細めた。

「やっぱり、似たもの兄弟ね」

兄弟ははっとして顔を上げる。

涙でぐしゃぐしゃのまま見られていたことに気づき、セドリックが慌てて顔を拭った。

「……先生、なんでお茶飲んでるの?」

「こんな場面でもまた茶か」

「まあまあいいじゃない。泣いた後は、ほっとするお茶で水分補給よ」

レオンが小さく息を吐く。

「私とセドリックの分もあるんだろうな」

「ええ。ちょうど飲み頃よ」

セドリックが鼻をすすりながら、少しだけ笑った。

「兄上、不思議な人を拾ってきたな」

チヨはすぐに言い返す。

「拾ったのはわたしよ。川から流れてきたのだから」

セドリックは涙のあとを残したまま、くしゃりと笑う。

レオンも呆れたように額を押さえたが、その口元には確かに笑みがあった。

泣いて、笑って、ようやく胸のつかえが取れたような空気が、部屋の中に満ちていく。

豪奢なのにどこか冷たかったその部屋が、今は少しだけ、あたたかく見えた。