軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1 セドリックの恋

戴冠式事件から数日後――

がらんどうとなった城にはいつもの騒がしさが戻ってきており、訓練場には、いつものように剣の音が響いていた。

鋭い踏み込みとともに、レオンの剣がセドリックの懐へ入る。

「っ……!」

――カン!

受け損ねたセドリックの剣が、乾いた音を立てて弾かれた。

レオンの剣先が、セドリックの喉元で止まる。

「降参だ」

セドリックは息を吐き、いつものように笑った。

「相変わらず強いな、兄上は」

「まだあと十回はやるぞ」

「じゅ……っ! スパルタすぎるだろ」

「お前が私に勝つまで、だ」

容赦のない返答に、セドリックは肩を落とした。

まったく、この兄は昔からこうだ。自分にも他人にも甘くない。弟相手だろうが容赦なく本気で叩きのめしてくるくせに、こちらが手を抜くことは許さない。

厄介で、真面目で。そして、昔から誰よりも高い場所に立っていた人でもあった。

剣も、頭も、責任感も。

王になるために必要なものを、当たり前のように全部持っている。

「こんな優秀な兄上に勝てるわけないだろ。まったく、俺を代わりに王に指名しようとしたりとか、何考えてたんだよ。荷が重すぎだ」

戴冠式で、あやうく王に指名されるところだったのだ。

よりにもよって、この完璧で強い王の後釜に。

思い出すだけで胃が痛い。あの場で名を呼ばれた瞬間の、血の気が引くような感覚まで蘇る。

冗談めかして言えば少しは軽くなるかと思ったが、レオンは笑わなかった。

「私はそうは思わない。お前は十分強い」

「え……?」

あまりにもまっすぐな言葉だった。

からかいでも、慰めでもない。本気の声だった。

「本気を出していないだけだろう、お前は」

低い声だった。

その声音に、セドリックの笑みがわずかに止まる。

胸の奥を、見透かされたような気がした。

「本気でやれ。私に譲ろうとするな」

「譲るって……別に、俺は」

「お前の剣はそんなものじゃない。私を立てようとするな」

その一言で、セドリックは言葉に詰まった。

数日前にレオンから言われた言葉が、不意によみがえったからだ。

『お前は昔から、私を立てようとして動くところがある。だが、今回はそうする必要はない。だからお前はもっと素直に――』

「兄上、俺は――」

セドリックは言い返そうとした。

「はい、そこまでよ」

やわらかな声が割り込んだ。

振り向くと、チヨが訓練場の入口に立っていた。

「セドリック」

チヨは近づいてくると、迷いなくセドリックの前に立った。

そして、ぐっと顔を近づける。

「……っ!?」

近い。近すぎる。

セドリックは思わず息を止めた。

チヨの白い指が、そっと額に触れる。

「顔が赤いわね」

「チヨが変なことするからだろ――って、うわ!」

言った直後、膝から力が抜けた。

「セドリック!」

倒れかけた体を、レオンが支える。

薄れていく意識の中で、チヨの声が聞こえた。

「もう、この子ったら。無理ばかりして。あなたと一緒ね」

***

夢を見ていた。

幼い頃の夢だ。

広い部屋に、ひとりで寝ていた。

喉が痛い。体が熱い。

けれど、誰も来ない。

父はレオンのところにいた。

王太子として育てられる兄は、国の希望だった。

母はルカのそばにいた。

体の弱い弟を、ずっと心配していた。

だから、セドリックは呼ばなかった。

寂しいと言えば、誰かを困らせる。

つらいと言えば、誰かの手を奪ってしまう。

だから笑っていた。

平気だと、言い続けていた。

だけど本当は――

「……そばに……いて……」

誰かの手が、額に触れた。

ひんやりとして、やさしい手だった。

「ここにいるわ」

その声に安心して、セドリックは眠った。

***

目を覚ますと、自分の部屋だった。

窓の外は夕暮れで、淡い光が差し込んでいる。

寝台の横には、チヨが座っていた。

「起きたのね」

「……チヨ」

「お水、飲める?」

杯を差し出され、セドリックはゆっくり体を起こそうとした。

けれど、ふらついてすぐに顔をしかめる。

「無理しないの」

「……俺、倒れたのか」

「ええ。見事にね」

「格好悪いな」

「格好悪くなんてないわ。あなたもずっと無理をしていたんだもの。戴冠式の準備の時も、レオンの奪還の時も」

チヨは濡れた布を取り替え、額にそっと乗せた。

「あなたも、背負い込みやすいタイプね」

チヨが静かに言った。

「……俺が?」

「ええ。レオンも損な子だけれど、あなたも大概だわ」

チヨは困ったように笑う。

「大事な場面は、全部お兄さんと弟たちに譲っているでしょう。自分は平気な顔をして、我慢する。そういうことばかり上手になってしまったのね」

セドリックは黙った。

胸の奥が、熱とは別のもので痛んだ。

「甘えることも大事よ。何でもひとりで飲み込まなくていいの」

「……なら」

気づけば、声がこぼれていた。

「今日だけでいい。他の誰のところにも行かずに……ずっと、ここにいてくれないか」

言った瞬間、後悔した。

子供みたいだ。

情けない。

「いや、今のは忘れてくれ。熱のせいだ。俺らしくもない――」

「いいわよ」

あまりにもあっさりと、チヨは頷いた。

「今日はここにいるわ」

「……いいのか?」

「ええ」

その返事に、胸がひどく熱くなった。

「……熱のせいだからな」

セドリックは言い訳のように呟いて、布団を口元まで引き上げた。

ずっとそばにいてほしいだなんて、子供みたいな願いだ。

しかも、それを口にした相手がチヨだと思うと、今さらじわじわと恥ずかしさが押し寄せてくる。

たぶん、今の自分は熱のせいだけではなく、別の意味でもひどく弱っているのだろう。

普段なら、こういう空気になる前に軽口のひとつでも叩いて逃げられたはずなのに、今日はうまく笑えなかった。

……それでも、今日だけは少し甘えてもいいのかもしれないと、そんな気にもなってしまった。

セドリックは布団を握る指先に、わずかに力を込めた。

「……物心ついた頃にはさ。父上は兄上にかかりきりだった。兄上は王太子だったから、当然だ」

セドリックはぽつりぽつりと、話し始めた。

「母上はルカのそばにいた。あいつ、昔は体が弱かったから。それも当然だ」

セドリックは笑おうとして、うまく笑えなかった。

「だから俺は、大丈夫な子でいようと思った。風邪をひいても平気だって言った。誰も見舞いに来なくても、寂しくないって思うことにした」

「……そう」

「でも、今日は違うな」

セドリックは天井を見つめたまま、小さく笑った。

「チヨが、ずっといてくれるから」

「私だけじゃないわよ」

「え?」

チヨが机の上を指さした。

そこには、見舞いの品が並んでいた。

レオンからは薬草茶。

ルカからは眠りやすい香り袋。

アルベールからは、少し歪んだ字の手紙。

『セドリックあにうえ、はやくげんきになって』

セドリックは黙ってそれを見つめた。

「みんな、来てたのか」

「ええ。レオンなんて何度も様子を見に来ていたわ」

「兄上が?」

「顔は相変わらず怖かったけれど、心配で仕方ない顔だったわ」

セドリックは目を閉じた。

今度は、ひとりではなかった。

そばにチヨがいる。

そして、家族がいる。

「……悪くないな」

「でしょう」

「今日は、よく眠れそうだ」

***

そう言ったものの、夜になってもセドリックは眠れなかった。

チヨは椅子に座ったまま、うとうとしている。

その横顔を見ていると、胸が落ち着かない。

(よく考えたら男女が寝室で二人きりなんて……まずくないか? いや、でも一回部屋に連れ込んだことあったな……)

初めて会った時のことを思い出す。

レオンに近づく卑しい女性だと勘違いして、軽い調子で声をかけた。あまつさえ、部屋に誘おうとまでした。

「……最悪だ」

セドリックは布団の中で、静かに顔を覆った。

あの時の自分を殴りたい。

よりによって、チヨに。

こんなにも大事になる人に。

(だが、あれから始まったんだよな……全部)

彼女はいつも不思議だった。

子供のように無邪気かと思えば、誰よりも大人のように人の痛みに気づく。

アルベールが意地を張れば、叱るのではなく隣に座った。

ルカが自分を隠そうとすれば、好きなものを好きでいいのだと笑った。

兄上がひとりで背負おうとすれば、当たり前みたいにその荷物を一緒に持とうとした。

そして、セドリック自身にも。

『あなたも、大変だったのね』

その一言で、ずっと隠していた場所を見つけられてしまった。

ずっとそばにいると言われて、泣きそうなほど嬉しかった。

これは、寂しさだけじゃない。

母に重ねたわけでもない。

チヨでよかった。

この人にいてほしかった。

「……まずいな」

兄上とチヨをくっつけようとしていた。

チヨなら兄上を救ってくれると思った。

それは嘘じゃない。

けれど、今ならわかる。

自分はずっと、チヨの笑顔を目で追っていた。

誰かに茶を差し出す手を見ていた。

呆れたように「あらあら」と笑う声を、もっと聞きたいと思っていた。

兄上の隣にチヨが立つ姿を想像すると、胸の奥がぎゅっと痛む。

譲れない。

譲りたくない。

「……俺、チヨのことが好きなんだ」

言葉にした瞬間、すべてが形になった。

笑った顔が見たい。

呆れた顔も、怒った顔も、自分に向けてほしい。

誰かの教育係でも、兄弟みんなの大事な人でもなく。

ほんの少しでいい。

自分だけを見てほしい。

「……兄上にだって、譲れるわけないだろ」

小さな声だった。

けれど、昨日までなかった熱があった。

その時、チヨがふと目を覚ました。

「あら……セドリック、起きていたの?」

「……少しな」

「まだ眠れない?」

チヨは立ち上がり、自然な仕草で額に触れた。

心臓が跳ねる。

「熱はだいぶ下がったみたいね。よかったわ」

ほっと笑うチヨを見て、セドリックは思った。

好きだ。

この人が好きだ。

「……チヨ」

「なあに?」

「今日、いてくれて……ありがとう」

それだけ言うのが精一杯だった。

チヨはやわらかく微笑む。

「どういたしまして。明日も顔色を見に来るわ」

「……明日も?」

「ええ。病み上がりなんだから当然でしょう」

明日も来る。

そう思っただけで、胸が弾んだ。

セドリックは布団を少し引き上げ、顔を隠す。

「……本当に、熱のせいだな」

「まだ熱いの?」

「いや。そういう意味じゃない」

「変な子ね」

チヨはくすりと笑った。

その笑い声を聞きながら、セドリックは目を閉じた。

もう譲らない。

兄上にも。

誰にも。

***

翌日。訓練場には、再び剣の音が響いていた。

「もう動いて大丈夫なのか」

レオンが剣を構えたまま言う。

「無理はするな。ひとりで抱え込もうとするなよ」

「それは兄上に言われたくないって思ったところだ」

セドリックは笑った。

そして踏み込む。

昨日とは違う速さだった。

レオンの剣を受け、流し、間合いを詰める。

――カン!

次の瞬間、セドリックの剣がレオンの剣を弾いた。

金属音が高く鳴り、レオンの剣が地面に落ちる。

セドリックは剣先を兄に向けた。

「兄上に勝ちを譲るのはやめる。これからは本気で行く」

レオンは一瞬だけ目を見開いた。

そして、満足そうに笑う。

「それでいい」

「……兄上?」

「私も負けない」

次の瞬間、レオンの足が動いた。

「え」

セドリックの手元が揺らぎ、剣が宙を舞う。

からん、と地面に落ちた。

「足技は卑怯だろ、兄上!」

「相手が剣だけを使うと思うな」

レオンは剣を拾い、セドリックの喉元に向ける。

「私は本気のお前と戦って、そして勝つ」

そこから先は、ひどかった。

レオンの太刀筋は遠慮がなく、セドリックは受けるだけで精一杯になる。

「待て、兄上! 俺、病み上がりだから!」

少し離れた場所で見ていたチヨは、呆れたように笑った。

「あらあら。元気になってよかったわね」

その声に、セドリックは一瞬だけ振り向きそうになる。

けれど、すぐにレオンの剣が迫った。

「よそ見をするな」

「っ、わかってる!」

こっぴどく打ち込まれながらも、セドリックは笑っていた。

もう譲らない。

勝ちも。

あの人の隣も。

この胸に灯った、厄介な恋心も。