軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

エピローグ おばあちゃんは異世界にいきました

レオンとチヨは、並んで川辺に立っていた。

二人が初めて出会った、あの川のほとりに。

川の流れは、あの日と変わらず静かだった。

陽を受けた水面はきらきらと揺れ、岸辺の草をやさしく撫でていく。風はやわらかく、春の匂いを含んでいた。王都から少し離れたこの場所に立っていると、城の喧騒も、戴冠式のざわめきも、帝国での騒動さえも、ひどく遠いもののように思えた。

「……不思議なものだな」

レオンが目を細め、川の流れを見つめる。

「最初にここへ来たときは、まさかこんなことになるとは思っていなかった」

その声に、チヨはくすりと笑った。

「私もよ。まさか川から、どんぶらこっこ、どんぶらっこっこと、王子様が流れてくるなんて思わなかったわ」

「どんぶらこっこ?」

チヨは懐かしそうに目を細めた。

「あのときのあなた、ひどく思いつめた顔をしていてね。きっと、自ら死を選んだのだろうって思ったわ」

「……やはり、気づいていたか」

「それにあなたは、ずっと危うかったもの。長男だから、王太子だからって、なんでも一人で背負わなくちゃいけないと思いこんでいて」

レオンは、少しだけ苦く笑った。

「実際、背負うしかないと思っていた」

「ええ。でも、勝手に全部抱え込もうとするから、見ているほうは気が気じゃなかったのよ」

「ずいぶん手厳しいな」

「教育係ですもの」

チヨが胸を張ると、レオンは小さく笑った。

その笑い方は、もうあの日のように痛々しくはない。弟たちを思い、国を思い、それでもなお自分の幸せを捨てきれずに苦しんでいた青年の顔ではなく、ちゃんと生きて、ここに立っている男の顔だった。

それが、チヨには何よりもうれしかった。

「でも」

レオンが、静かに言う。

「あの日、君と出会えてよかった」

チヨは一瞬、言葉を失った。

まっすぐに向けられる視線は、いつだって少し困る。ことに、こうして二人きりのときはなおさらだった。

「……あらあら。急にそんなことを言うのね」

「事実だ。君がいなければ、私はここにいなかった」

チヨは照れくささをごまかすように、ふいと視線をそらす。

「もう。本当にまっすぐなんだから」

そう言って、なんとなく川面をのぞきこんだ、そのときだった。

「あら?」

思わず声が漏れる。

隣でレオンがすぐに反応した。

「どうした?」

チヨは水面を見たまま、首をかしげる。

「……おかしいわね」

「何がだ」

「最近、老眼がひどいでしょう?」

あまりにも自然に出てきた言葉に、レオンは一瞬だけ沈黙した。

「……ろうがん?」

チヨは自分の頬に手を当て、不思議そうに水面を見つめる。

「水に映る顔が、なんだか若く見えるのよ」

レオンは、何を言われたのか理解するまでに少し時間がかかったようだった。だが、すぐに呆れたような、それでいて笑いをこらえるような顔になる。

「……チヨ」

「なあに?」

「君は十分若い」

「またまた。そういうお世辞はいいのよ」

「お世辞ではない」

あまりにも真面目な声音で言うものだから、チヨはぱちぱちと瞬きをした。

そして、もう一度そっと水面をのぞきこむ。

揺れる水の上に映っていたのは、見慣れた――いや、見慣れていたはずなのに、どこか認めきれなかった顔だった。

やわらかな頬。

しわのない目元。

つやのある髪。

少女と呼んでもいいほどに若い顔。

チヨは息をのんだ。

「あらあら……」

今度の声は、先ほどよりもずっと小さい。

「本当に、若いわ……」

しばらくそのまま固まってから、チヨはじわじわと顔を赤くした。

「あ、あらまあ……どうしましょう……」

両手で頬を押さえる。

「私、こんなに若い顔をしていたのに、ずっとおばあちゃんみたいなことを言っていたの? いやだわ……」

「何を言ってるんだ? チヨの言動がおばあちゃんみたいなのは、今さらだろう」

チヨはしゃがみこみそうな勢いで、その場にうずくまった。

「あらまあ……恥ずかしい……」

耳まで真っ赤になっている。

レオンはそんなチヨを見下ろして、なんとも言えない顔をした。

「私は別に、チヨらしいと思うが」

その一言に、チヨは何も言えなくなった。

「私らしいのはそうなんだけれども……」

「どうした?」

「いえ、なんでもないわ」

川の音だけが、しばらく二人のあいだを流れていく。

やがて、レオンがぽつりと言った。

「……前から、少し考えていたことがある」

「何かしら?」

「君は、本当にこの世界の人間なのかと」

チヨの肩が、ぴくりと揺れた。

「言動も、知っていることも、ときどき妙に噛み合わない。貴族でも平民でもないような感覚を持っているのに、人として大切なことは、誰よりもよく知っている。まるで、違う世界から来たみたいだと、ずっと思っていた」

レオンは川を見たまま続ける。

「もしそうなのだとしたら」

ゆっくりと、チヨを見る。

「それは、私のせいなのかもしれない」

「……あなたのせい?」

「私が、君をこの世界に呼んでしまったのではないかということだ」

チヨは目を見開いた。

レオンは視線を川へ戻し、低く言う。

「あの日、私は川の中で、こう願った」

風が吹く。

水面が揺れる。

「弟たちを幸せにしたい、と」

その言葉は、どこまでも静かだった。

「自分がどうなってもいいから、せめて弟たちだけは幸せにしたいと、そう願った。……だから、この世界のどこにもいなかった君が来たのだとしたら、それは私の願いのせいかもしれない」

チヨの胸が、どくんと鳴る。

その瞬間、忘れかけていたものが、不意に心の底から浮かび上がってきた。

冷たい水。

薄れていく意識。

そして、あのとき確かに胸の奥で思ったこと。

「……そういえば」

チヨは小さくつぶやいた。

「私も、願ったのよ」

レオンがチヨを見る。

「何を?」

答えようとして、急に言葉に詰まる。

今さら口にするには、あまりにも気恥ずかしい。

(……恋くらい、してみたかったって)

思い出した瞬間、顔が熱くなった。

「……わ、忘れてしまったわ。最近、物忘れがひどくて」

視線を上げられない。

もし本当に、その願いをかなえるためにこの世界へ来たのだとしたら。

もし、目の前にいる人が、その願いの答えなのだとしたら。

「チヨ」

名前を呼ばれる。

やさしく、けれど逃がさない声だった。

チヨは、おそるおそる顔を上げる。

レオンは、ひどく真剣な目をしていた。

「私がチヨに釣り合うには、五十年早いのは分かっている」

その言葉に、チヨは思わず目を丸くした。

レオンは少しだけ苦笑する。

「それでも、チヨとずっと一緒にいたい」

風が止む。

世界が、しんと静まる。

「弟たちにも……私にも、チヨが必要だ」

チヨはしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。

「そうね……」

頬に残る熱を、春の風が少しだけさらっていく。

「……三十年くらい早い、かしらね」

春の光の中で、二人の影が寄り添うように水辺へ伸びていた。