軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

03.魔法が解けた日

掃除を終えた私は、得意の風魔法で水を高速回転させ、数十分で洗濯から乾燥までを片付けた。

絶えず水と魔力に触れていた指先が、薄氷が肌に突き刺さっているかのように鋭く疼く。

どれほど高度な魔法を操れたとしても、家事をこなしていれば手は荒れるし、走り回っていれば足腰は疲れる。この生活の痛みまでは消し去れないのだ。

ズキズキとひりつく指先を隠し、執事と侍女たちへ淡々と指示を下す。

休む間もなく執務室へ籠もり、机に山をなす書類の束と向き合った。

葡萄酒の醸造。

これ一本で、ウォルジー領の家計はかろうじて回っている状態だ。

生産から出荷に至る膨大な事務作業を一人で回し、辛うじて領民の生活を維持している。本来なら河川の治水や備蓄計画にも着手したいが、物理的に手が足りない。

もどかしさを奥歯で噛み殺し、午後は継母の尻拭いに追われる。

彼女は夜会へ出向くと騒ぎ立てるだけで、出席の返事も手土産の手配もすべて私に丸投げだ。

衣裳店への連絡を済ませ、ようやく屋敷の仕事が一段落する。

最後に残されたのは、領地の視察。

魔法で空を駆ければ一瞬だが、人目を忍ぶ私は大人しく馬を走らせる。

亡き母の背中を追うように村々を巡り、異変の兆しがないかをこの目で確かめる。

満足な教育を受ける暇もなかった私にとって、泥にまみれた現場こそが唯一の教科書であり、領民との絆を繋ぎ止める最善の一手だった。

夕刻に帰宅し、今度はお風呂の準備に取りかかる。

薪を節約するため、風魔法で酸素を送り込み一気に火力を引き上げた。

朝のスープは焦がしてしまったが、湯浴みなら熱湯さえ沸かせばいい。あとは各々が水で調整すれば済む。

朝の調理で見せたような、零点一ミリを制御する繊細な集中力は、今の私にはもう一滴も残っていなかった。

家族が去り、冷え切った食堂で汚れた食器を黙々と片付ける。

脂の浮いた水に手を浸しながら、ようやく私の一日は終わりを迎える。

……失敗した。

フルールから強請られていたデザートの果物を、すっかり失念していたのだ。

彼女は腹いせに、食卓に飾られた薔薇を巨大化させ、花瓶ごと粉々に砕いてみせた。皿一枚だって今の我が家には貴重だというのに。

花瓶は生活の必需品ではないが、自分の魔法で咲かせた花を飾りたがる彼女のために、また新しいものを工面しなければならない。

家族が食い散らかしたあとの冷えた残り物を、執務室で独り静かに口にする。

屋敷はしんと静まり返り、冷えた空気の中で、広げた新聞のインクの匂いだけが鮮明に感じられた。

この孤独なひとときだけが、一日の中で唯一、私が私として深い呼吸を許される時間だ。

誰も助けてくれない地獄のような日々を耐えられたのは、たった一つの『希望』があったから。

五歳から八歳までの三年間、まるで幼馴染のように寄り添って過ごしたレオ。

陽光を溶かし込んだような金の髪に、稀少な淡い金色の瞳を持つ美しい少年。

帝国の貴族である祖父の遠縁だという彼は、療養のためにこの伯爵領を訪れていた。母が亡くなったあの日、彼は自国へと帰ってしまったけれど、別れ際に「十八歳になったら、必ずこの場所へ戻る」と約束してくれたのだ。

「僕は魔力が弱いから、家を継ぐことはできないんだ。だから、大人になったら結婚してほしい。必ずソフィーに会うために戻ってくるよ」

魔法の強さが貴族の権威そのものであるこの世界では、性別を問わず、強大な魔力を宿した第一子が家督を継ぐのが絶対の理だ。

私のように長子が娘であれば、他家から婿養子を迎えるのが通例となっている。

レオは、確かに魔法をほとんど使えなかった。

そのせいか、誰もが振り返るような美貌を持ちながらも、どこかいつも自信なげで、同い年なのに「ソフィーは頼りになるね」と私の後ろをついて回ることが多かった。

その気品あふれる佇まいは帝国の高位貴族であることを微塵も疑わせなかったが、魔力なき次男以下であれば、他家へ婿入りする道しかないのだろう。

私は、彼から贈られた指輪をそっと見つめる。

彼の瞳と同じ、澄んだゴールドの石が嵌め込まれた、かけがえのない約束の証。

泥にまみれ、水仕事に追われる今の私には、この指輪を嵌める資格などないのかもしれない。

……けれど、いつか彼が会いに来てくれたそのときには、胸を張ってこの輝きに相応しい微笑みを返したい。

だから明日も、私は『お姉ちゃん』として、たった一人この家を支え続けるのだ。

『お姉ちゃんだから』の魔法が解けたのは、私の十八歳の誕生日の、わずか二日前のことだった。

十八歳になれば成人として認められ、私は正式にこの伯爵家の当主となる。

その日を指折り数えていた私のもとに、一通の号外が舞い込んだ。

〈帝国の第一王子、レオポルド・ド・リュミエール。婚約内定か――!?〉

紙面に躍る姿絵は、成長の歳月を差し引いても見紛うはずがない。

あの日々を共に過ごした、あの少年だ。

かつて彼が暗殺者に襲われ、私の母が彼を庇って命を落としたあの惨劇。

その際、彼が手の甲に刻んだ大きな傷跡までもが、民衆へ手を掲げる姿絵には克明に描かれていた。

「……嘘よ」

私の手から新聞が離れ、ひらひらと舞いながら床に落ちる。

呆然としながらも、身体は無意識に、執務室の片隅へと歩み寄った。

もう一つの心の拠り所。

そこにあるはずの、母が私の成人式のために遺してくれた、黄緑色のリボンが結ばれた特別なワイン。

――けれど。伸ばした指先が触れたのは、虚空を漂う冷たい空気だけ。

そこにあるのが当たり前だった母の形見は、跡形もなく消えていた。

「……ふ、ふふ。あはははは!」

喉の奥から、乾いた笑いが溢れ出す。

希望の光だった王子様は幼い幻想だった。

残ったのは伯爵家の威信を浪費し、散らかすしか能のない粗大ゴミたち。

何のために、誰のために。

私は『お姉ちゃん』という名の、無償で動く便利な使い捨ての道具に成り下がっていたのだろうか。

ああ、全部わかったわ。

ここは私の家じゃない。

私が守り続けてきたのは、温かな家族などではなく――『お姉ちゃんなら何とかしてくれる』と甘え腐った、寄生虫の飼育箱だったのだ。