作品タイトル不明
35.枢機卿は笑う
空では星が瞬いていたが、ナイジェルの目の前にあるのは闇だった。
両手で耳を塞ぎ、背中を丸めて小さくなっていた。
家には異臭が充満し、外では救いを求める呻きが絶えず続いている。
この世の地獄。
大量に湧いたハエだけが人生を謳歌していた。
ナイジェルが生まれ育った村で疫病が流行り、領主の判断で隔離されたのだ。
村人たちが逃げ出せないよう、バリケードまで建てられた。
耳を塞いでいても、残された村人たちの断末魔が頭に響く。
幼かったナイジェルはただただ恐ろしく、毛布にくるまって祈っていた。
そして意識を失い、少し覚醒しては、また祈った。
飲まず食わずでどれだけいただろうか。
自分が生きているのか死んでいるのかさえ、わからなくなった頃。
突如として、視界に光が射した。
顔を向けることすら叶わなかったナイジェルを抱き上げる誰か。
当時、司祭だった現教皇がそこにいた。
村人が全員息絶え、病の終息が確認された。死してなお、村人たちが苦しまないよう祈祷のための来訪だった。
発見されたナイジェルは、滅びた村で、唯一生き残った子どもだった。
歳を重ね、白髪が多くなった今でも、当時の慟哭が思いだされる。
生への渇望ではない、いっそ楽に殺してくれという願い。
自分が生き残ったのは、正しくきまぐれな神の奇跡だ。
修道者になったあと、病が蔓延る村に派遣されても、ナイジェルは罹患しなかった。同行した修道者たちは次々に倒れても、ただ一人、無事に生還する。
病で苦しんだのは、死を望む人々の残響に怯えた、あのときだけだ。それも飢餓があっただけで、体は蝕まれていなかった。
(そして、また自分は生き残った)
目を開き、大聖堂にある客室の天井を見上げる。
クラウディアは馬車で自分の息の根を止めることもできただろうに。
(これもきまぐれな神のお導きだ)
きまぐれな神は、自分に生きよと仰せなのだ。
居住まいを正し、手を組んで祈る。
(お導きに従い続けることを誓います)
照明が一瞬、明滅した。
導線の不良か何かだろう。
原因について候補を挙げながらも、ナイジェルは、それがきまぐれな神の答えに思えた。
◆◆◆◆◆◆
翌朝、ナイジェルは自分の客室にフェルミナを招いた。
大聖堂へ運ばれてから一か月ほど経ち、ようやく外部と連絡が取れるようになった。
(ギーク枢機卿め。足を引っ張りおって)
面子を潰されたからだろう。日和見主義の老人が、今回はやけに出張ってきていた。
フェルミナに正体を明かす予定はなかった。与える情報を必要最低限に留めて誘導する必要があったし、また彼女から情報が洩れるのを危惧したからだ。
とはいえ、さすがに計画が狂いはじめ、無理にでも軌道修正せざるを得なかった。
いかに身分に酔いしれて、頭の中がお花畑でも、聖女であることは確かだ。使えるものは使う。
連日の忙しさからか、精悍さが損なわれ、若干頬のこけた聖女を見て、ナイジェルは頷いた。
(これでいい)
クラウディアの悪事を訴えるのに、ふくよかでキラキラとした人物と、悩み、憔悴した人物とでは、説得力に大きな違いが生まれる。
だからナイジェルは、あえてフェルミナを助けなかった。
シルヴェスターに会食と称して呼び出されているのも知っている。フェルミナには必要最低限のことしか話していないため、いくら探られたとて何も出ない。
シルヴェスターとフェルミナの間に、クラウディアを介して怨恨があるのは知っている。フェルミナが学生時代のことを話してくれたからだ。
せいぜい圧力をかけてくれと、これも放置していた。
そんなことはおくびにも出さず、眉尻を落としてフェルミナを迎える。
「着任早々、大変だったね」
「ナイジェル枢機卿こそ、お体は大丈夫なのですか?」
自分より他人を気遣うフェルミナに、成長を感じた。
短期間にたくさんの信徒と問題に向き合い、自然と聖女らしく振る舞えるようになったようだ。
「だいぶ良くなったよ」
答えながら、フェルミナの様子を探る。
まだ観察力は足らず、こうして面と向かっても、ナイジェルとノリスが結び付いていない。
(このくらいのほうが扱いやすいか)
残念さを感じるものの、クラウディアとは違うのだからと考え直す。
「今日、君を呼んだのは、一つ謝らなければならないことがあるからだ」
「ナイジェル枢機卿が、わたしにですか?」
「ああ、ノリス司祭のことでね」
「ノリス司祭に何かあったんですか!?」
すっかりノリスに気を許していたフェルミナは目を見開く。
「そのノリスが、私だ」
「え……?」
目に見えてフェルミナは固まった。
思考が手に取るようにわかる。
(そんな、まさか)
「そんな、まさか……」
同じフレーズが発せられて、笑いそうになる。
彼女が事実を呑み込むには、しばらく時間がかかりそうだ。
「え、どうして、ですか?」
「枢機卿という身分はしがらみも多い。君に寄り添って行動するためには、身分を偽るしかなかったのだ」
どれだけ善きおこないが周知されても、フェルミナは一修道者に過ぎない。
ナイジェルが後ろ盾となり、ノリスが現場での対応力を補佐することで、はじめて聖女候補として名乗りを上げられたのだと易しく告げる。
「私が傍にいなければ、他の聖女候補に排除される危険だってあった。フェルミナ、君を守るためには、必要なことだったのだ」
呆然としながら、フェルミナは頷いた。
次いで現状について、疑問が投げかけられる。
彼女にとって一番の関心事だった。
「……お姉様の護送は、どうなったんですか?」
「まんまと逃げられてしまった。こうなることを予期していたようだ」
「では、異端審問は? おこなわれないんですか?」
フェルミナの表情が陰る。
信徒たちに大見得を切った手前、事態が覆るのを恐れているのだろう。
この辺りの先を読む力は、相変わらずない。
「心配しなくていい、待っていれば自ずと姿を現す」
「異端審問にかけられたら困るのでは?」
「かけられないほうが困るのだ。このまま異端審問の場に姿を現さなければ、窮地に立たされるのは彼女のほうだからね。逃げた彼女を、民衆はどう判断するかな? 後ろ暗いことがあるから逃げたのだと、自ら罪を確定させるようなものだ」
だから必ず、クラウディアは異端審問を受けに来る。
本当は早々に逃亡を明るみにしたかったが、ナイジェルが護送していたとなると、要らぬ詮索を受けかねなかった。特にシルヴェスターは、以前の事件と絡めて追及してくるだろう。
クラウディアの護送は、ノリス司祭によるものでなければならない。
手を回そうにも、ギーク枢機卿の目が邪魔をした。
許可なくハーランド王国に入国したことについて、国王からも説明を求める書簡が届き、急ぎの対応を迫らせた。
(まったく、なんと心躍ることよ)
自分の思いどおりにならない状況が、楽しい。
久方ぶりに、張り合いのある問題だった。
頬が緩みそうになるのを律する。
「私たちとしては、むしろそのほうが楽かもしれないね。一段落ついたら、私は教会本部へ戻る予定だ。君にも同行してほしいと思っている」
想定外の状況で、駒は多いに越したことがない。
大聖堂ではやれることに限りがある。
ハーランド王国から一刻も早く出ることが先決だった。
クラウディアの逃亡を公表するのは、教会本部に戻ってからになるだろう。
「ギーク枢機卿が許すでしょうか? この事態は、わたしが招いたことなのに……」
「君を止められるのは世界広しといえど、教皇猊下ただお一人だよ。聖女は、枢機卿と同等の地位にあるのだから」
殊勝なことを言うフェルミナを諭す。
「君だってことの成り行きを見守りたいだろう? 思いだすのだ、クラウディア嬢にされたことを。君は彼女のせいで、帰る屋敷を、家族との団らんを失ったのではないか」
フェルミナが責任転嫁させていた、クラウディアの悪行を振り返る。
一つ一つ挙げていくと、フェルミナは深く頷いた。
(同じ父親から生まれた娘でも、本人の意思でここまで変わるものなのだな)
クラウディアに比べ、誘導しやすいフェルミナに苦笑が浮かびそうになる。
おかげで手間がかからずに済んでいるのだが、物足りないのも正直な感想だった。
「異端審問には枢機卿が参加するが、もちろん聖女も同席できる。一緒にクラウディア嬢の転落を見届けようではないか」
――クラウディアが王国騎士団によって護送されている旨をナイジェルが知ったのは、フェルミナと共に教会本部へ向かっている道中の出来事だった。