作品タイトル不明
51.枢機卿は静かに笑う - 第三章完 -
早朝、日差しに熱せられる前の大聖堂は、涼やかな空気に満ちていた。
協会の本部であるここは、修道者をはじめとした教徒たちによる献身の集大成である。
素朴な石造りでハーランド王国の王都にあるような煌びやかさとは無縁だが、壁や柱に施された彫刻や、巨人も難なく通れそうな列柱廊が特徴的だった。
柱は一本で、大人十人分の太さを誇るほどだ。
遠く離れて見なければ列柱廊の全容は窺えない。
中を歩けば、自分が小人になったように感じられた。
そんな列柱廊を抜けた大聖堂の最奥、教皇が自室として使っている部屋では厳かな雰囲気が漂う。
部屋の主である教皇は、白髪に彩られた老人だった。
その佇まいは儚く吹き飛ばされそうでもあり、地震が起きても微動だにせぬ巨石のようでもある。
目の前で頭を垂れるナイジェルへ、教皇は哀愁の目を向ける。
「実に遺憾だ」
「面目もありませぬ」
「だから言っておったであろう、君は人を信じ過ぎると」
修道者も人である限り道を踏み外す。
時には疑うことも必要だと、教皇は孫を見るような目でナイジェルを諭す。
ナイジェルは頭を下げるばかりだった。
「まさかこれほど大胆不敵な行動に彼らが出るとは思わず……このたびの一件は、私の不徳の致すところに尽きます」
「君に抜擢され味を占めたのだろう。君まで巻き込まれずに済んだのは不幸中の幸いだ」
教皇はナイジェルを善人だと信じていた。
ナイジェルが、信じ込ませていた。
今回の件も、直属の部下に騙されたと思っている。
「とはいえ、処分せずにはいられない。当分の間、謹慎を言い渡す。なに、君が敬虔な修道者であることは、みなが知るところだ。すぐに謹慎も解けるだろう」
「これを反省の機会とし、より深く教皇様のお言葉を胸に刻む所存です」
ナイジェルのおかげで甘い蜜を吸っている修道者は少なくない。
根回しは済んでおり、この面談も形だけのものに過ぎなかった。
今後ナイジェルが他国へ派遣されることはなくなるが大した痛手ではない。
むしろ枢機卿の義務から解放された気分だった。
「拘束されて君も心労が溜まっているだろう。ゆっくり休みなさい」
「ご配慮感謝致します」
教皇の部屋を辞し、列柱廊を歩く。
巨大な柱が並んだ廊下は、夏でもひんやりとした風を運んだ。
長い廊下を、ナイジェルは無表情で歩く。
(まさかリンジー公爵令嬢と繋がっていたとは想定外だ)
犯罪ギルドの離反には勘付いていた。
不満を隠さない彼らが一時を境に従順になれば、何かあって然るべきである。
(スラフィム殿下に唆されたと思っていたのだが)
情報がドラグーンからアラカネル連合王国へ流れている形跡があった。
スラフィムの一度目の暗殺は失敗し、送り込んだ暗殺者は死んだと聞かされているが、手を結ぶ機会があるとすればそのときだろう。
教会の失墜を虎視眈々と狙っているスラフィムが、この機を逃すとは思えない。
(追及したところで証拠がなければ言い逃れられるだけだ)
家族を人質にとり恐怖で支配していても限界はある。
元々犯罪ギルドの人間は反骨精神が強い。
加えて人質を殺し続ければ、やがていなくなる。
ナイジェルとしても確証がない限り、人質の数を減らすわけにはいかなかった。
(大人しく縮こまっていればいいものを)
いつも直接やり取りするのはベゼルに限っていた。とはいえドラグーン全体が寝返っている確証もなかった。
だから娼婦を買ってまで情報を流したのだ。
互いの情報が結び付けば答えを得られるように。
尻尾を掴めたら、アラカネル連合王国と犯罪ギルドの繋がりを白日の下に晒し、引きずり落とす算段だった。
元々自分に繋がるような証拠を残すような愚は犯していない。
そして結果、動いたのはクラウディアだった。
(果たして、どこでどう繋がったのか)
全く見当がつかない。
だが、わからないもどかしさよりも高揚感が勝った。
人形のようなナイジェルの顔に、僅かに生気が戻る。
ずっと退屈だった。
少し計略を巡らせるだけで、呆気なく人は思いのままになる。
教皇でさえもそうだ。
今回の件では、ナイジェルが主犯だとは夢にも思っていない。
ナイジェルにとっては教皇こそが、疑うことを知らない善人そのものだった。
枢機卿の地位に就くまで、それこそ若い頃は相応の苦労があったように記憶している。
けれどブロンドに白髪が混ざるようになってからは、変わらない景色を眺めているようなだった。
何の変化もなく時間だけが過ぎる日々。
飽き飽きだった。
そこへ先日、一石が投じられた。
(明日を楽しみに思うのは、いつ振りだろうか)
中小の国々では依然、教会の力が強い。
ハーランド王国へ入れなくても、やりようはある。
クラウディアがどこまで教会に抗えるか、どうやって追い詰めようか考えるだけで心が躍る。
無表情だった顔に珍しく気持ちが宿る。
ナイジェルの顔に浮かんだのは――無邪気さとは無縁の、凶悪な笑みだった。