軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 今夜はわたくし、自分のために咲くことにいたしましたの

アルベルトの声が裏返った。

「届けたのか?」

「はい。今朝、双方の署名が揃いましたもの。公式発表は後日ですが、手続きは速やかに進める方がよろしいかと」

「なぜ勝手に!」

「勝手に?アルベルト様も署名なさいましたでしょう」

「いや、しかし、夜会のあとでも」

「まあ」

エルミーナは目を細めた。

「まさか、まだ取り返せると思っていらしたのですか?」

アルベルトは言葉に詰まった。

エルミーナは、すっと彼の腕から手を離した。

「アルベルト様。貴方はわたくしに、情熱がないと仰いました。淑女すぎると。女性としての華が足りないと」

「それは」

「ですので、今夜はわたくし、自分のために咲くことにいたしましたの」

彼女は、近くの給仕からシャンパンを受け取り、軽くグラスを掲げた。

「どうぞ、これからは詰め物で夢を盛ったご令嬢方とお幸せに」

「詰め……っ」

「わたくしは、もっと立派な方と幸せになりますので」

「立派!?何がだ!どこのどいつだ!」

「……さあ、ナニがでしょうね?」

エルミーナは意味深に微笑んだ。

アルベルトの顔が、赤くなったり青くなったりする。

そのときだった。

「ヴァルモン嬢」

落ち着いた声が、背後からかかった。

振り返ると、そこに立っていたのは王太子殿下だった。

ローラン・ド・シャルドン王太子。

金の髪と青い瞳を持つ、この国の第一王位継承者。

社交界では誰もが気を張る相手だが、本人は割合と気さくな人物として知られている。

その王太子が、エルミーナを見ていた。

正確には、エルミーナを見てから、一瞬だけ瞬きをした。

それは、品定めというほど不躾ではない。

けれど、まったく動揺がなかったとも言えない。

エルミーナは、それを見逃さなかった。

「殿下。ご挨拶が遅れました」

「いや、こちらこそ。今夜は、いつもと印象が違いますね」

「最後の夜会ですもの。少し、気分を変えてみました」

「最後、とは」

「クロワゼット令息との婚約が、近日中に解消されます」

ローランは少し驚いた顔をした。

「それは、初耳でした」

「まだ公式発表前ですので。でも、もうすぐ皆様にもお知らせが届くかと思います」

「そうでしたか」

ローランは、ちらりとアルベルトを見た。

アルベルトは気まずそうに視線を逸らす。

「では、今夜の装いは?」

「自分のためのドレスです」

エルミーナは、真っ直ぐに答えた。

「婚約者の隣に立つためではなく、未来の公爵夫人らしく見せるためでもなく。ただ、わたくしが着たいと思ったものを着て参りました」

ローランは、エルミーナを見た。

今度は胸元ではなく、彼女の顔を。

晴れやかで、少し勝ち誇っていて、けれどどこか吹っ切れた顔を。

「なるほど」

ローランは微笑んだ。

「とてもよくお似合いです」

「ありがとうございます」

「特に、その顔が」

「顔、ですか?」

「ええ。今夜の貴女は、自由になった人の顔をしている」

その言葉に、エルミーナは少しだけ目を瞠った。

胸元ではなく、顔。

ドレスではなく、表情。

そう言われるとは思っていなかった。

「……殿下は、お上手ですのね」

「本心ですよ」

ローランは片手を差し出した。

「よろしければ、一曲踊っていただけますか」

会場が、ざわりと揺れた。

王太子から直々に、ダンスの申し込み。

しかも相手は、婚約解消が近いと告げたばかりの侯爵令嬢。

これは少し、面白いことになる。

エルミーナは、扇の陰で小さく笑った。

「喜んで」

「待て」

アルベルトが、低く声を上げた。

「エルミーナ。殿下の前で失礼だ。今夜は私のエスコートで来ている」

「そうでしたわね」

エルミーナは振り返った。

そして、アルベルトをゴミを見るような目で見据えた。

「最後の婚約者役、ご苦労様でした」

「エルミーナ!」

「もう結構です」

彼女は、王太子の手を取った。

ローランは楽しげに目を細め、彼女をダンスホールの中央へと導く。

音楽が流れ始める。

エルミーナの紫紺のドレスが、夜の花のように広がった。

王太子の手は安定していた。

近すぎず、遠すぎず。

彼女の呼吸を乱さない距離で、自然に導いてくれる。

「随分と思い切った夜にされたのですね」

「捨てられた女が、最後に少しくらい派手に振る舞ってもよろしいでしょう?」

「捨てられた、というより」

ローランは、ちらりと広間の端を見た。

そこではアルベルトが、今にもこちらへ駆け寄りそうな顔で立ち尽くしている。

「手放した男が、自分の愚かさに気づいたように見えます」

「それはお気の毒ですわ」

「同情している顔ではありませんね」

「ええ。しておりませんもの」

エルミーナは晴れやかに微笑んだ。

その笑みを見て、ローランも笑った。

「ヴァルモン嬢」

「はい」

「公式発表が済んだら、改めて茶会に招いても?」

エルミーナは、ほんの一瞬だけ考えた。

王太子からの誘い。

軽い言葉ではない。

だが、今夜の彼女はもう、誰かの顔色をうかがうための令嬢ではなかった。

「お誘いの内容によりますわ」

「では、貴女が退屈しない内容を考えます」

「期待しております」

その頃、広間の端ではアルベルトが限界を迎えていた。

「待て……待ってくれ、エルミーナ!」

彼の声が、音楽の合間に響く。

貴族たちが一斉に振り返った。

「私は、私は間違っていた!」

エルミーナは踊りながら、涼しい顔をしている。

「君がそんな……そんなに……こんなに魅力的だったなど!」

エルミーナは、視線も合わせず優雅にターンをする。

「返してくれ!私の……私の婚約者を返してくれ!」

その叫びは、華やかな音楽と、貴族たちのざわめきに飲み込まれていった。

エルミーナは王太子の腕の中で、これまでにないほど晴れやかな、そして少しだけ意地の悪い勝利の笑みを浮かべた。

ローラン王太子の視線は、確かに、一瞬だけ彼女の胸元へ落ちた。

けれど、すぐに彼女の顔へ戻る。

「失礼。見事なドレスだったので」

「ドレスだけですの?」

「もちろん、貴女も」

「殿下は正直な方ですのね」

「嘘をついても、貴女には見抜かれそうだ」

それは、正しい判断だった。

エルミーナはずっと、人の視線を見てきた。

何を見るか。

何を見ないふりをするか。

何を欲しがり、何を軽んじるか。

視線は、思っている以上に多くを語る。

その点、ローラン王太子の視線は、少なくともアルベルトよりずっと礼儀正しかった。

胸を見る。

しかし、そこだけを見ない。

それはなかなか、悪くない。

曲が終わり、拍手が広がる。

エルミーナは優雅に一礼した。

遠くでアルベルトが、絶望した顔をしている。

三年間、彼のために整えてきた淑女の仮面。

三年間、隠してきた胸。

三年間、見ないふりをしてきた鬱憤。

それらすべてが、今夜まとめて解放された。

エルミーナは、王太子の手を取りながら思った。

男という生き物は、実にわかりやすい。

だからこそ、今度はせめて、見る目のある男を選ぼう、と。