作品タイトル不明
第一話 そんなにデカパイ自撮り女がよいんですの?
「そんなにデカパイ自撮り女がよいんですの?」
エルミーナ・ド・ヴァルモン侯爵令嬢には、ずっと気になっていることがあった。
婚約者であるアルベルト・ド・クロワゼット公爵令息が、胸の大きな女性を見るときだけ、微妙に視線を泳がせるのである。
気づいたのは、社交界デビューをして間もない頃のことだ。
ダンスの練習をしていたとき、ちょうど胸元の開いたドレスを着た令嬢が近くを通った。
アルベルトの目が、ほんの一瞬だけ、そちらへ引き寄せられた。
一度気づいてしまえば、もう見えてしまう。
大きく胸の開いたドレスの令嬢が挨拶に来るたびに、アルベルトの端正な横顔が、ほんのわずか、そちらへ傾く。
街で偶然すれ違った商家の女性が、豊満な胸元を揺らして歩いていたとき、アルベルトは会話の途中で一秒ほど黙った。
本人はうまく隠しているつもりなのだろう。
確かに、気づかない人間には絶対に気づかないレベルの微細な反応だ。
けれど、エルミーナは三年間、この婚約者をずっと観察してきた。
そして、結論に至った。
(アルベルト様は、おっぱい星人でいらっしゃる)
決定的だったのは、彼の自室にそういった姿絵が隠されていたことだ。
魔導鏡で自分の姿を焼き付ける、いわゆる自撮り姿絵。
最近、貴族令嬢や裕福な商家の娘たちの間で流行しているものだ。
本来は、離れて暮らす家族や友人に近況を伝えるための健全な道具である。
だが、アルベルトの引き出しの奥に隠されていたそれは、健全というには、いささか胸元の主張が強すぎた。
しかも一枚や二枚ではない。
やたらと胸元の開いたドレス。
やたらと谷間を強調する角度。
やたらと柔らかそうな曲線。
侯爵令嬢がひとりで抱えるには、少々、刺激が強い資料群だった。
もっとも、エルミーナはそれを指摘しなかった。
配慮したわけではない。
単純に、指摘したところでどうなるものでもないと思っていたし、何より、エルミーナ自身にはあまり関係のない話だったからだ。
エルミーナは、世間一般でいう『胸の大きな女性』には該当しない。
少なくとも、彼女はそう思っていた。
婚約者に相応しくあろうと、いつも品のある、きちんとした装いを心がけてきた。
胸元は程よく隠し、腰はコルセットで締め、全体的に『公爵令息の婚約者』として完璧な外見を作り上げる。
それが、エルミーナの三年間だった。
アルベルトの隣に立っても恥ずかしくないように。
クロワゼット公爵家の未来の夫人として、誰からも後ろ指をさされないように。
露出を控え、所作を整え、声の大きさまで意識してきた。
だから、アルベルトが神妙な顔でエルミーナを呼び出したとき、彼女はてっきり、結婚式に関する何らかの手続きの話だと思っていた。
クロワゼット公爵家の応接室。
向かいに座ったアルベルトは、いつになく深刻な顔つきをしていた。
彫りの深い顔立ち。
整った眉。
灰色の瞳。
客観的に見れば、非常に美しい男性だとエルミーナは思う。
おっぱい星人であることを除けば、非の打ちどころのない婚約者だった。
「エルミーナ嬢」
「はい」
「少し、重要な話がある」
「何でしょうか」
アルベルトは一度、重々しく息を吐いた。
「……婚約の、破棄を考えている」
「……そうですか」
「突然のことで申し訳ないと思っている。だが、このまま婚約を続けることが、君にとっても私にとっても不幸せなことだと判断した」
「理由を伺っても?」
「互いに、情熱が感じられない」
エルミーナは瞬きをした。
「情熱、でございますか」
「ああ。君は完璧だ。家柄も、教養も、振る舞いも申し分ない。誰もが君を理想的な婚約者だと言うだろう」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「だが……」
アルベルトはそこで、少し気まずそうに視線を逸らした。
「君は、あまりにも淑女すぎる」
「淑女であることが問題なのですか?」
「そういう意味ではない。ただ、私の心が動かない。君には隙がない。女性としての華やぎというか、私にだけ見せる熱のようなものが……」
「つまり」
エルミーナは、にっこりと微笑んだ。
「わたくしに、色気が足りないと?」
「そこまでは言っていない」
言っているも同然だった。
エルミーナは、静かに紅茶のカップを置いた。
怒りはなかった。
悲しみも、思ったほどなかった。
ただ、心の奥で、何かがすうっと冷めていく感覚だけがあった。
三年間。
彼の隣に相応しくあろうと、淑女として振る舞い続けてきた。
その結果、彼は言うのだ。
淑女すぎる、と。
女性としての華が足りない、と。
(なるほど)
エルミーナは納得した。
この男は、エルミーナを見ていなかったのだ。
品よく隠されたものの奥に、何があるのか。
それを知ろうともせず、勝手に物足りないと判断した。
しかも、その目は三年間ずっと、よその胸ばかり追いかけていた。
「わかりましたわ」
エルミーナは、穏やかに言った。
アルベルトが少し面食らったような顔をする。
もっと泣いたり、縋ったり、怒ったりすると思っていたのかもしれない。
「では、書類の準備をいたしましょう」
「……本当に、良いのか」
「良いも何も、アルベルト様が望まれたことでしょう」
「それは、そうだが」
「ご安心くださいませ。情熱のない女ですので、取り乱すこともございません」
その言葉に、アルベルトはわずかに眉を寄せた。
だが、何も言わなかった。
婚約破棄の手続きは、思いのほかあっさりと進んだ。
弁護士を交えて話し合い、双方の家同士での確認事項を整理し、必要書類を揃える。
アルベルトは、クロワゼット家側からの申し出であることを明記した。
慰謝料も、体裁を保つための条件も、淡々と書類に落とし込まれていく。
エルミーナは書類に目を通し、確認し、サインをした。
アルベルトも同様に。
あとは王都法務局へ届け出れば、婚約解消は正式に受理される。
公式発表は、両家の面子を保つため、数日後に整えることになっていた。
エルミーナはペンを置いて、アルベルトを真っ直ぐに見た。
「アルベルト様。ひとつだけ、お願いがあります」
「……何だ」
「今週末の夜会に、一緒に出ていただけますか。婚約解消が公式に発表される前に、最後の婚約者として、一度だけ」
アルベルトは少し考えてから、頷いた。
「……それくらいなら、構わない」
「ありがとうございます」
エルミーナは書類を丁寧に封筒に収めながら、内心でひっそりと計画を練り始めた。
最後の夜会。
最後の婚約者。
ならば、エルミーナ・ド・ヴァルモンとして、悔いなく楽しもうではないか。