作品タイトル不明
第43話:壊血病の恐怖と、樽の中の「魔法」
果てしなく続く、紺碧の大海原。
山名宗全が率いる巨大ガレオン船団は、赤道直下の容赦ない日差しを浴びながら、香辛料の島々を目指して南下を続けていた。
出航から数ヶ月。
当初は「天下の海を制する無敵の提督」として意気揚々と乗り込んだ宗全であったが、その覇気は、見渡す限りの海と、閉鎖された船内という過酷な環境によって徐々に削り取られようとしていた。
「ええい、まだ着かぬか! このままでは積み込んだ水が腐ってしまおうぞ!」
豪華な装飾が施された船長室で、宗全は苛立たしげに海図を叩いた。
涼しい顔をして兵を動かしていた京都での戦とは違う。
風が吹かなければ進めず、嵐が来れば神に祈るしかない。
自然の猛威と、莫大な借金に対する焦燥感が、老将の神経をギリギリまで削り取っていた。
そんなある日。
船内に、得体の知れない「恐怖」が蔓延し始めた。
「御大将……! ま、また一人、水夫が倒れましてござりまする!」
血相を変えて飛び込んできた側近の報告に、宗全は顔をしかめた。
「またか! 一体どうなっておる! 流行り病か!?」
「それが……熱はござりませぬが、歯茎より血を流し、全身の肌がどす黒く変色いたして……またたく間に衰弱していくのでござりまする……」
壊血病。
新鮮な野菜や果物が長期間摂取できないことによる、ビタミンCの欠乏。
史実のヨーロッパの大航海時代において、海の男たちを最も恐れさせ、何万人もの命を奪った「海の死神」が、日本の船団にも容赦なく牙を剥いていたのだ。
「馬鹿な……幕府より支給されし上等な干し飯と塩漬け肉を、腹いっぱい食わせておるのだぞ! なぜバタバタと倒れおる!」
宗全は船室を飛び出し、異臭の漂う船底の治療所へと向かった。
そこで彼が目にしたのは、かつて戦場で勇猛に槍を振るった屈強な水夫たちが、亡霊のようにやせ細り、うめき声を上げながら床に転がっている地獄絵図だった。
『……なんじゃこれは。いくさで死ぬなら本望だが、刃を交えることもなく、こんな得体の知れない病で兵を失うなど……』
武士としての誇りも、借金返済の野望も、見えない死神の前では無力だった。
「御大将……どうか、どうか助けてくだされ……」
足元で倒れる若い水夫の手を握りしめ、宗全はギリッと歯を食いしばる。
『くそっ! これ以上働き手を失えば、船を動かすことすらできん! そうなれば、利子どころか元本すら返せず、山名家は終わりじゃ……!』
「建前」の威厳は消え失せ、彼の心の中は破産への恐怖で塗りつぶされそうになっていた。
その時である。
「提督閣下。ご案じには及びませぬでおじゃる」
静かに、だが通る声が船底に響いた。
振り返ると、出航前に幕府から派遣されてきた、あの冷徹な若き官僚が立っていた。
彼の背後には、水夫たちが抱えた幾つもの巨大な木樽が並んでいる。
「お主……! 何がご案じに及ばぬじゃ! このままでは船が全滅いたすわ!」
怒鳴る宗全に対し、官僚は一切表情を変えず、木樽の蓋を開けさせた。
プーンと、強烈な酸っぱい匂いが周囲に広がる。
「……なんじゃ、この匂いは」
「出立の折にもご説明申し上げました通り、これは幕府の命により、日野富子様が独自に調合いたせし『秘薬』でおじゃりまする。……南蛮の柑橘を大量の砂糖と蜂蜜にて漬け込みし甘露。そして、梅干しと大豆を発酵させし特別な保存食にござりまする」
官僚は、黄金色のシロップを柄杓ですくい、倒れている水夫たちの口へと流し込ませた。
「かくのごとき物で、あの恐ろしき病が治癒いたすと申すか……?」
半信半疑の宗全だったが、数日後、その「魔法」のような光景に息を呑むことになる。
死の淵を彷徨っていた水夫たちの顔に赤みが戻り、起き上がって粥をすすり始めたのだ。
「……信じられん。まことに、まことに治りおった……!」
歓喜に沸く船内で、宗全は安堵の息を吐いた。
しかし、その背後から、官僚の氷のような声が突き刺さる。
「効果を実感していただけて何よりでおじゃりまする。……さて、提督閣下」
官僚は、懐から分厚い帳簿を取り出し、パタンと開いた。
「この特効薬の樽、一樽につき『銀五十両』の追加代金を、山名家の借入金残高に加算させていただきまする。命を救われたのでおじゃる、当然の対価にござりましょう?」
「……なっ!?」
「強制ではおじゃりませぬ。次より購入を拒ばれても構いませぬが……水夫が全滅いたし船が座礁せし折の『船体賠償金』は、莫大な額となりまするゆえ、ご留意を」
有無を言わさぬ幕府の冷酷な商い。
『あの……あの銭ゲバ女狐どもめぇぇぇっ!!』
山名宗全は、声に出せない絶叫を心の中で上げながら、震える手で新たな借用書に血判を押すのだった。
適正な投資を行い、人を大事に扱ってこそ、最大の利益が返ってくる。
幕府は、極めて近代的な資本主義の掟を、実地で彼らに叩き込んでいるのだ。
『……恐るべき姫君よ。あの者の手のひらの上で踊っている限り、我ら山名家は絶対に沈むことはないということか』
老将は深く息を吐き、これまでの武将としての古い価値観を捨て去る覚悟を決めた。
***
数週間後、京都・室町第。
「ふふふ……! 山名様からの追加注文、確かに承りましたえ!」
薫子は、堺から届いた急ぎの報告書を見て、満面の笑みを浮かべていた。
『壊血病はビタミンCの欠乏。現代人なら常識よ! 予防のためのシロップや発酵食品を出航前に契約させ、病の恐怖を思い知らせてから追加で売りつける……! これでまた一つ、武将たちの首輪がキツくなったわね』
史実では何十万人もの命を奪った大航海時代の「死神」すらも。
この時代においては、薫子の恐るべきビジネスチャンスの道具に過ぎなかったのである。