作品タイトル不明
第29話:撒き餌の収穫〜細川・山名の焦燥〜
季節は巡り、心地よい南風が和泉国、堺の海面を撫でる頃。
水平線の彼方から姿を現したのは、一年前のあの日、未知の大海原へと旅立った幕府の威信を懸けた巨大な外洋船団であった。
「帰ってきたぞ! 南の海へ向かわれた大内様、畠山様、斯波様の船団が無事に帰還なされた!」
物見櫓の上の番人が絶叫する。
常陸の港から北の極寒の海へ向かった足利成氏らの東国船団は、海流と季節風の違いからまだ帰還していなかったが、今回戻ってきたのは、最も莫大な富が眠るとされた南海・明国ルートを開拓した第一陣であった。
荒波を乗り越え、船体にはわずかな傷や潮の汚れが見受けられたが、その威風堂々たる姿は出航時よりもさらに力強く見えた。
***
巨船がゆっくりと桟橋に横付けされ、分厚い船倉の扉が開かれた瞬間、湊の空気は一変した。
強烈で甘美な異国の香りが、潮風に乗って一気に広がる。
「おおおぉぉぉっ!!」
湊を埋め尽くす見物人たちから、悲鳴のような歓声が上がった。
屈強な水夫たちによって次々と運び出されていくのは、見たこともない莫大な量の富であった。
山のように積まれた宋銭、そしてそれを遥かに凌駕する価値を持つ明国の最高級の絹織物。
さらに、南方の海から持ち帰られた胡椒、丁子、肉豆蒄といった香辛料が、巨大な樽に溢れんばかりに詰め込まれている。
当時の日本では、これらの一握りの香辛料が、同等の重さの金や銀と同価値で取引されるほどの超高級品であった。
「わずか一度の航海で、これほどの富を持ち帰るとは……!」
視察に訪れていた大商人たちが震える声で囁き合っている。
それは、国内のちっぽけな領地争いで数年間血を流してようやく得られる収益を、遥かに凌駕する途方もない金額であった。
船の甲板には、南国の強い日差しに焼かれ、海の男としての精悍な顔つきとなった大内政弘、畠山義就、斯波義廉の三人が、誇らしげに胸を張って立っていた。
彼らはもう、国内の狭い土地に執着する泥臭い武将ではない。
世界という無限の富の海を制覇した、幕府の偉大なる『海軍提督』であった。
***
その熱狂の報せは、瞬く間に京の都へと駆け巡り、そして最高権力者たちの耳にも届いていた。
細川邸の奥深く、重苦しい空気が漂う広間。
細川勝元と山名宗全は、堺からの報告書を前に、顔面を蒼白にして座り込んでいた。
「なんじゃあの途方もない富は……! 我が細川家が何代にもわたって守り抜いてきた全領地の収益を足しても、あやつらが持ち帰った船一隻の富にすら届かんだと!?」
沈黙を破り、細川勝元が激昂して扇子を床に叩きつけた。
「ええい! そもそも、幕府が莫大な銭を投じて造ったあの巨大な新造船、我らこそが真っ先に任されるべき誉れであったはずじゃ!」
山名宗全も、白髪の混じった顎髭を震わせながらギリッと歯を鳴らした。
彼らの脳裏に、一年前の、御台所・日野富子との会談の記憶が蘇っていた。
『海の向こうの商いなんぞ、所詮は銭の亡者がやる泥臭い下業でおます。ましてや、外洋の荒波に出れば、船ごと海の藻屑になるやもしれん大博打。泥臭い商売と沈没のリスクは下々の者たちに背負わせておいて、お二人はどうぞ、政にのみ集中しておくれやす』
富子はあの時、そう言って彼らを宥めたのだ。
自分たちは、最高権力者としての優越感に浸り、格下の大名たちを「沈むかもしれない危ない橋を渡らされた哀れな連中」と高みの見物を決め込んでいた。
しかし、現実は全く逆であった。
自分たちが都でちまちまと税を徴収し、小銭を数えて喜んでいる間に、あの見下していた連中は、海の向こうで想像を絶する巨万の富を手に入れていたのだ。
「いかにも。あの利権が幕府に集中し続ければ、いずれ圧倒的な資金力を前に、我らは軍事力でも政治力でも完全に逆転される。騙し討ちのような真似をして我らを蚊帳の外に置いたこと、きっちりと落とし前をつけてもらわねばならん」
山名の目が、血走った獣のようにギラリと光った。
細川もまた、圧倒的な経済格差による自らの権威の失墜を恐れ、冷酷な決意を込めて頷いた。
彼らが思いつく解決策は、武士として最も単純で、最も凶暴な方法しかなかった。
すなわち、圧倒的な暴力による利権の強奪である。
「全軍に触れを出せ! 諸国の家臣どもを直ちに京へ集結させよ! 十万の兵を以て幕府に我らの恐ろしさを骨の髄まで叩き込み、あの海と富をすべて我らの手に収めるのじゃ!」
怒号が広間に響き渡る。
かつて静観を決め込んだ怪獣たちが、自らの強欲と焦燥に理性を食い破られ、ついに完全なパニックを起こした瞬間であった。
***
同日、室町第、日野富子の居室。
「……ついに発狂しよったな。細川と山名が結託し、十万の動員令を出したそうや」
富子は、届けられた密偵からの報告書を投げ捨て、艶やかな笑みを浮かべた。
御簾の奥には、影のように静かに控える薫子の姿がある。
「ええ。彼らは莫大な富を前に、必ず理性を失うと申し上げておりました」
「せやけど、集まるのは良くて数万というところか。そなたがすでに土倉も馬借も、足軽という労働力も完全に握っとるさかいな。いざ戦支度をしようとも、思うように兵はおろか銭も手に入らへん」
富子は自ら結論を口にし、面白そうに扇子を打ち鳴らした。
「いよいよ、あのえげつない策を使う時が来たな」
「はい。敵軍は必ず、前金と兵糧を求めて、京の市街地や道中の宿場町を狙いまする」
薫子の声は、あくまで平坦で冷徹であった。
『来たわね。でも、十万集めるつもりが数万しか集まらない時点で、あんたたちの負けは確定しているのよ』
「私の名において、ただちに洛中および道中の土倉へ命ずる。全ての現金と帳簿、そして馬借どもを、山科の要塞へ完全に『疎開』させよ。野蛮人どもが京の近くへ辿り着いた時には、奪うべき銭も食うべき米もない、すぬけの空箱にしておくのや」
富子の容赦のない決断が下される。
「御意にございまする」
薫子は深く頭を下げた。
数万の暴徒を市街地には一歩も入れず、洛外の兵站真空地帯で干殺しにする。
一年間かけて周到に準備された「近代的な防衛システム」が、大乱の火種を完全にすり潰すべく、静かに、そして確実に起動したのである。