作品タイトル不明
第2話:絶望の「応仁の乱」前夜、からの……狂気
あれから、数ヶ月の月日が流れた。
赤ん坊の肉体という圧倒的な物理的制約に抗えず、ひたすら眠っては乳を飲むだけの原始的な生活を繰り返すうち、私の脳はようやく『大人の意識』を処理できる程度に成長してきたようだった。
視界を覆っていた分厚い霧が少しずつ晴れ、光と影の輪郭がはっきりと結像するようになる。
耳から入ってくる情報も、ただの雑音ではなく、明確な『言語』として脳内のシナプスで結びつき始めていた。
「姫様、まこと健やかにお育ちでおじゃる」
「ほうじゃな。このまま何事もなく、大きうなってくれればよいが……」
乳母や両親らしき人物が私をあやしながら交わす、その優雅で、それでいて少し野暮ったい独特のイントネーション。
視力を増した私の目には、現代ではあり得ない手織りの着物の質感や、簡素だが明らかに中世の様式を持つ木造建築の構造がはっきりと映し出されていた。
『ひゃっはー! まことの室町言葉だ! やばい、尊すぎて息ができない!』
私の心の中の歴史オタクは、歓喜の悲鳴を上げて床を転げ回っていた。
間違いない。
私は前世の記憶を持ったまま、愛してやまない室町時代の、どこかの武家か公家の家に『姫様』として生まれ変わったのだ。
『文献でしか知らなかった時代の空気を、直接肌で感じられるなんて! トラックに轢かれた時はどうなるかと思ったけど、神様ありがとう!』
しかし、私の肉体はまだ生後数ヶ月の赤ん坊である。
内心の狂気的な歓喜を表現したくても、舌や喉の筋肉が全く連動してくれない。
「あー、うー」
精一杯の歓喜の叫びは、間抜けな喃語となって虚空に溶けていった。
「おお、姫様がご機嫌でおじゃる。にっこり笑うておるわ」
「かわゆいのう。薫子はまこと、観音様の生まれ変わりじゃて」
どうやら私の今の名前は『薫子』というらしい。
両親は私を溺愛してくれているようだが、彼らの顔には常にどこか暗い影が落ちていた。
私が目を覚ましている時、二人が交わす会話の内容は、大抵が金策や領地の厳しい台所事情についてだった。
「今年の年貢の上がりは、これだけでおじゃるか……?」
「はい。馬借どもへの運上金もかさみまして、これでは今冬を越すのすらギリギリかと」
「また土倉から銭を借りねばならんのか。利息ばかりが膨れ上がり、もはや首が回らぬわ……」
父親らしき男性が、深い深い溜め息を吐く。
どうやら私の転生先は、京都近郊に領地を持つ、常に借金に苦しんでいる弱小武家のようだった。
『なるほど、中世の小領主のリアルな経済状態ね。浪漫があっていいじゃない』
私は天井を見上げながら、お気楽な感想を抱いていた。
しかし、その直後の父親の一言が、私の脳細胞を文字通りショートさせることになる。
「宝徳の世になってからというもの、まこと良いことがないわい」
『……え? 今、なんて言った?』
私の思考がピタリと停止した。
『宝徳……? 宝徳って、あの宝徳!?』
前世で何万時間も日本史の史料を読み漁ってきた私の脳内データベースが、猛烈な勢いで西暦との照合を開始する。
宝徳。
それは、室町時代中期の元号だ。
西暦に直せば、おおよそ一四四九年から一四五二年あたり。
『嘘でしょ……今が宝徳年間だとしたら……』
私は、全身の血の気がサァッと引いていくのを感じた。
赤ん坊の未発達な心臓が、早鐘のように激しく打ち始める。
あと二十年弱。
あとたったの二十年弱で、あの歴史的な大事件が起きてしまう。
応仁の乱だ。
日本の中心であるこの美しい京都の街を十年間にもわたって灰燼に帰し、この国からすべての秩序を奪い去る破滅の始まり。
そこから先は、血で血を洗う百年にも及ぶ戦国時代という地獄の泥沼が待っている。
歴史の教科書で読む分には面白い出来事かもしれない。
だが、実際にその時代を生きる人間からすれば、冗談ではない。
『あと二十年で、この家も、京都の街も、全部燃えてなくなる……!』
戦火に巻き込まれて焼け死ぬか、落ち延びる途中で野盗に襲われて死ぬか、はたまた借金苦で売り飛ばされるか。
弱小武家の娘である私の未来には、絶望的なバッドエンドしか用意されていなかった。
恐怖で目の前が真っ暗になる。
赤ん坊の防衛本能が働き、大きな声で泣き叫びそうになった、その時だった。
『……待てよ?』
歴史オタクであり、地政学と経済の繋がりを考察することを無上の喜びとしていた、私の中のもう一つの人格が、ゆっくりと首をもたげた。
『もしも……もしも私が、これから起きるあの大乱を、未然に、完璧に防いだとしたら?』
そんな突拍子もない考えが、稲妻のように脳裏を駆け抜けた。
『応仁の乱が起きなければ、京都の街も焼けず、文化も技術も失われない』
『細川勝元や山名宗全といった怪物たちが、国内のちっぽけな権力闘争で無駄な血と銭を流さずに済む』
思考が加速していく。
『戦国時代という百年間の浪費をすべて回避し、その莫大なエネルギーと富を、世界へ向けての「生産的投資」に回すことができたなら?』
『蓄積された国力を保ったまま、ヨーロッパ列強よりも早く日本が大航海時代を迎え、太平洋を支配したら……世界史は一体、どう書き換わるの!?』
それは、前世の私が夜な夜な歴史フォーラムに書き綴っていた、あの壮大な『歴史のIF』そのものだった。
まさか、自分の手でその歴史シミュレーションを現実の盤面でテストできる日が来るなんて。
恐怖は、もはや欠片も残っていなかった。
代わりに、全身の血が沸騰するような、狂気的な知的好奇心が体の奥底から湧き上がってくる。
『やってやる……やってやるわ!』
私は心の中で、誰にも聞こえない高笑いを上げた。
『戦国時代なんていう泥沼の百年間、私が絶対に始めさせない!』
『日本を、世界最速の大航海時代へ導いてみせる!』
小さなベビーベッドの中で、生後数ヶ月の薫子は、両手でギュッと力強く拳を握りしめた。
その赤子の純真な瞳の奥には、これから世界地図を丸ごと塗り替えてやろうという、底知れぬ野望と狂気の炎が、ギラギラと妖しく宿っていた。