作品タイトル不明
第13話:ホワイト職場の実績と、世論の簒奪
山科の領地を貫く川沿いでは、耳をつんざくような重低音が響き渡っていた。
巨大な水力紡績機を据え付けるための、大規模な護岸工事。
そこには、延暦寺の息がかかった手配師たちから送り込まれた、数百人もの労働者たちが群がり、巨大な石を運んでいた。
彼らの多くは、度重なる飢饉で田畑を失った流浪の民や、土倉への借金で首が回らなくなったあぶれ者たちである。
労働者の一人である 茂吉(もきち) は、額の汗を拭いながら、傍らに置かれた真新しい手桶から、冷たい井戸水を柄杓で掬って飲み干した。
「ぷはぁっ……! 沁みるだすなぁ。 太助(たすけ) 、おめえも飲んどけ」
「おう、ありがてえ」
同郷の若者である太助も水を飲み、ほうっと息を吐いた。
二人の顔には疲労はあるものの、かつてのような「絶望」の色はなかった。
「……信じられねえだすな。半刻(約一時間)ごとに、こうやって水飲んで休む時間がもらえるなんてよ」
「ああ。おまけに昼には、 粟(あわ) じゃなくて、真っ白な米の飯が腹いっぱい食えるんだ。寺の荘園で小作をしてた頃たぁ、天と地の違いだべ。姫様の現場は、まこと極楽だす」
茂吉たちが驚くのも無理はない。
この現場は、薫子の指示により、相場より高い日当が支払われ、十分な食事と休憩がシステムとして組み込まれた、当時としてはあり得ないほどの「 高待遇(ホワイト) 」な環境だったのだ。
だが、その和やかな空気を引き裂くように、怒声が響いた。
「ええい、貴様ら! いつまで油を売っておる! 水など飲んでおる暇があるなら、とっとと石を運ばんか!」
鞭の代わりに太い竹の杖を振り回して近づいてきたのは、寺から派遣された現場の監視役である僧兵崩れ、 豪海(ごうかい) である。
「ひぃっ、す、すまねえだす!」
茂吉たちが慌てて作業に戻ろうとする背中に、豪海は忌々しげに吐き捨てた。
「ちっ。あの世間知らずの姫君が、無駄に飯を食わせたり休ませたりするから、下民どもが図に乗りおる。……よいか! 銭を出しておるのは武家でも、お前らの生殺与奪を握っておるのは、我ら寺の人間じゃ! 仏の罰を受けとうなければ、死ぬ気で働け!」
豪海たち寺の監視役にとって、労働者が「人間らしい扱い」を受けることは、自分たちの権威(恐怖支配)を揺るがす目障りなものでしかなかったのだ。
「太助、急ぐだす。足元がぬかるんでるから気をつけるべ」
「分かってるだす。この石を据えりゃあ、今日の仕事は終わりだ……!」
太助が歯を食いしばり、自分の背丈ほどもある石材に縄をかけて力いっぱい引いた、その瞬間だった。
ズルッ、と。
前夜の雨で緩んでいた斜面の土が、無情にも崩れ落ちた。
「あっ……!」
太助の悲鳴とともに、巨大な石材がバランスを崩し、斜面を滑り落ちてくる。
「太助!! 逃げろ!!」
茂吉の絶叫も虚しく、鈍い音とともに、数人分の重さがある石材が太助の右足を無残に押し潰した。
「ぎぃっ……あ、ああああああああっ!!!」
骨が砕ける生々しい音と、太助の鼓膜を破るような絶叫が、工事現場の喧騒を切り裂いた。
周囲の労働者たちが青ざめ、動きを止める。
太助は泥の中に倒れ込み、血まみれになった自らの足を押さえて、狂ったように身悶えしていた。
「な、なんの騒ぎじゃ!」
舌打ちをしながら近づいてきた豪海は、血の海でのたうち回る太助を冷たい目で見下ろすと、鼻で笑った。
「お、お坊様! 太助が、太助の足が潰れちまいまして……! 早くお医者様を、お薬を……!」
茂吉が泥に額を擦り付けて懇願する。
しかし、豪海は無慈悲に竹の杖で茂吉の肩を打ち据えた。
「たわけ! どこにこの虫ケラどもに使う薬があるというのじゃ! 飯と銭をもろうておきながら、怪我をして働けなくなるとは、とんだ穀潰しめ!」
豪海は、周囲で怯える他の労働者たちを睨みつけた。
「おい、お前ら! そいつはもう足が砕けて使い物にならん! 邪魔じゃ、そこらの河原にでも捨て置いてこい!」
「そ、そんな……! 殺生な!」
「文句があるなら、お前も一緒に河原へ放り込んでやろうか! ほれ、さっさと動け!」
絶望が、現場を支配した。
茂吉は、痛みに気を失いかけている太助を抱きしめながら、ギリッと歯を食いしばった。
(……そうだ。飯が良かろうが、給金が良かろうが……俺たち下民は、怪我をすりゃあゴミのように捨てられる。これが、この世の 理(ことわり) なんだ……)
どれほど待遇が良くても、所詮自分たちは「使い捨ての道具」に過ぎない。
その中世の残酷な現実を突きつけられ、誰もが諦め、太助の四肢を掴んで河原へ引きずっていこうとした、その時。
「――控えよ」
高く、澄んだ、しかし氷のように冷たい声が響いた。
現場の空気が、一瞬にして凍りつく。
豪海が怪訝そうに振り返った先。
そこには、数人の屈強な武士を従え、豪華な絹の着物を纏った小さな童女が立っていた。
山科家の姫君であり、この巨大な普請の真の雇い主、薫子である。
薫子は、六歳という年齢にはおよそ似つかわしくない、底知れぬ凄みを湛えた瞳で、太助を囲む者たちを睨みつけていた。
「私の庭で血を流した者に、何たる暴言でおじゃるか。……直ちに手を離しなさい」
その声には、有無を言わさぬ絶対者の響きがあった。
労働者たちが弾かれたように手を離すと、薫子はすたすたと泥だらけの現場へ歩み入り、血まみれの太助を見下ろした。
監視役の豪海が、慌てて愛想笑いを浮かべながら進み出る。
「ひ、姫君様! こ、このような泥臭い場所にいらしてはなりませぬ! いやなに、どんくさい下人が足を滑らせて怪我をしただけでしてな。使い物にならぬゆえ、すぐに片付けさせますので――」
パシィッ!!!
乾いた音が響いた。
薫子の護衛の武士が、豪海の頬を容赦なく張り飛ばしたのだ。
「ひぐっ!?」
泥の中に転がった豪海を見下ろし、薫子は冷酷に告げた。
「黙りゃ。誰が『片付けろ』と申した。……この者たちは皆、私の大切な事業のために汗を流してくれている『宝』でおじゃるよ」
薫子の言葉に、茂吉をはじめとする労働者たちは耳を疑った。
宝?
この虫ケラのように扱われてきた自分たちが?
薫子は、護衛の武士に素早く指示を出した。
「すぐに京から一番腕のいい医者を呼びなさい! 薬代はいくらかかっても構わぬ、すべて当家が持つ! 戸板を持て、この者を清潔な小屋へ運ぶのじゃ!」
「ははっ!」
武士たちが迅速に動き出し、太助を丁寧に戸板へ乗せて運んでいく。
その様子を呆然と見つめていた茂吉に、薫子はふわりと愛らしい笑みを向けた。
「そなたらも、よう頑張っておじゃるな。安心するがよい。私の領地で怪我をした者は、決して見捨てはせぬ」
薫子は、周囲に集まってきた数百人の労働者たち全員に聞こえるよう、よく通る声で宣言した。
「皆の者、よう聞け! 飯や給金が良いのは当たり前でおじゃる! 加えて、今後普請場で怪我をした者には、当家が責任を持って治療を施す! もし怪我のせいで元の力仕事ができのうなっても、案ずるな!」
労働者たちが、息を呑んで六歳の少女を見つめる。
「足が動かぬなら、座ってできる『糸の選別』や『帳面の筆写』を任せよう。腕が動かぬなら、門番の任を与えよう。……私の元で真面目に働く限り、そなたらの生涯の面倒は、この薫子が見て進ぜる!!」
どよめきが起きた。
それは、中世の常識を根底から覆す、革命的な宣言だった。
高給と福利厚生だけでなく、「治療費の全額負担(労災保険)」と「生涯の雇用保障(終身雇用)」までもが約束されたのだ。
「おおお……!」
「嘘だろ……。怪我をしても、放り出されねえってのか……!?」
「姫様……! 観音様の生まれ変わりだす……!」
一人の労働者が、泥の上に両膝をつき、薫子に向かって深く平伏した。
それに釣られるように、次々と男たちが泥だらけの地面に頭を擦り付け、中には声を上げて泣き出す者すらいた。
茂吉もまた、溢れる涙を止めることができず、ただひたすらに土を掴んで平伏していた。
(……飯が食えるだけじゃねえ。俺たちを、人間として扱ってくだすった。……俺の命は、姫様のものだす。もし姫様に逆らう奴がいたら、俺がこの手でぶっ殺してやる……!)
労働者たちの心に、寺への恐怖を完全に上回る「狂信的なまでの忠誠」が芽生えた瞬間であった。
***
その日の夜。
薫子の私室。
卓の上に置かれた温かい柚子茶を口に運びながら、薫子は悪女のように口角を吊り上げた。
薫子(心の声)『ひゃっはー! 完璧! これ以上ないくらい完璧なシチュエーションでの「究極の社会保障」のプレゼン完了!』
彼女の脳内では、すでに今日の出来事がもたらす莫大な「費用対効果(ROI)」の計算が弾き出されていた。
「一人の治療費と、軽作業のポストを一つ用意する。たったそれだけの投資で、あそこにいた数百人のモチベーションと当家への 忠誠心(ロイヤリティ) が爆上がりするんだから、これほど安い投資はないわね」
同席していた家臣が、恐る恐る口を開く。
「姫様。まことに見事な御采配でございました。これで、寺から送られてきた者たちも、心は完全に当家へ向いたかと存じまする。今なら、あの傲慢な寺の監視役どもを追い出すこともできましょう」
「ええ。今日からあいつらは、寺の言いなりになる『奴隷』ではなく、私に心酔する『狂信者』になったわ。……でもね、寺の連中をこちらから追い出すような真似はしないわよ」
薫子は柚子茶の入った杯を置き、冷徹な目で卓上の帳簿を見つめた。
「人間というのは、全員が同じ方向を向くほど単純な生き物じゃないわ。私がどれだけ厚遇しようと、決してなびかない連中も必ず出てくる」
「なびかない……と申しますと?」
「ええ。例えば、あの豪海のように、寺のピラミッド組織の中で『出世』を夢見ている野心家たち。あるいは、寺の権威や『仏罰』という見えない恐怖を本気で信じ込んでいる非合理な狂信者たちよ」
薫子は、手元にあった白い紙に、墨でサッと線を引いた。
「私の見立てでは、手厚い保護と恩義を取って私に味方する現場の人間が『七割』。寺の権威や出世欲に縛られてあちら側に残る者が『三割』。……いざ寺が暴発して私たちを襲撃してくる時、その『三割』の連中が内通者として牙を剥くわ」
家臣がハッと息を呑む。
「では、やはり今のうちに怪しい者をあぶり出し、追放いたしますか!?」
「いいえ、放置でいいわ。それすらも計算の内よ」
薫子は、六歳の童女の顔に、修羅を生き抜いてきたような冷酷な笑みを浮かべた。
「七割の熱狂的な味方がいれば、三割の裏切り者など、現場の労働者たち自身の手で『自発的に』排除されるわ。……私はただ、その状況を利用して、寺社という最大の既得権益を完全に『合法的に』へし折るための、最後のカードを切るだけ」
薫子の視線は、部屋の隅にうず高く積まれた、巨大な『借用書(債権)』の束へと向けられていた。
労働環境の差を見せつけ、世論を味方につけた上で、大義名分を得て経済の暴力で既存の権力を粉砕する。
室町時代を終わらせないための、壮大な下準備が、いよいよ最終段階に入ろうとしていた。