作品タイトル不明
第12話:寺社の利用と、時間稼ぎの賄賂
次期将軍の正室となる日野富子という、これ以上ない「最強のシールド」を手に入れた薫子。
彼女の 頭脳(ハブ) である私室の卓上には、すでに次なる段階を見据えた、おびただしい数の図面が広げられていた。
川の急流を活かした巨大な水力紡績機の設計図。
物資を大量かつ円滑に運ぶための、拡幅された石畳の街道の計画書。
そして、それらの事業を統括するための巨大な帳簿。
「……足りないわね」
薫子は、六歳の童女らしからぬ、酷薄な経営者の目つきで図面を睨みつけた。
圧倒的に足りないもの。それは「労働力(人手)」である。
この山科の小さな領地を、数万人が行き交う巨大な「経済特区」へと作り変えるためには、今いる農民や手代だけでは到底手が回らない。
かといって、野に溢れる流浪の民や、職を求める者たちを、薫子が直接、大量に雇い入れることは極めて危険だった。
この時代、人や物の流れ、すなわち「巨大な利権」を裏で牛耳っているのは、武家ではなく、巨大な寺社勢力なのだ。
とりわけ、京の都を見下ろす比叡山延暦寺などは、数千の武装した僧兵(山法師)を抱える、中世最大の軍事・宗教ハイブリッド・コンツェルンである。
彼らの縄張りを荒らし、勝手に民衆を囲い込めば、「仏敵」の名の下に、あっという間に焼き討ちに遭うだろう。
どれほど富子が後ろ盾になろうと、狂信的な暴力の波を真っ向から受けるのは、今の段階では得策ではない。
薫子(心の声)『だからこそ、最初は「あいつら」を儲けさせてやるのよ。警戒心を解き、私をただの「金の成る木」だと錯覚させるために』
数日後。
薫子は、数人の屈強な供回りを連れ、京の都の外れにある、延暦寺の息がかかった大寺院の門をくぐっていた。
境内には、むせ返るような香の匂いが立ち込め、黄金に輝く仏像の奥には、長刀を立てかけて睨みを効かせる僧兵たちの姿が見え隠れする。
ここは、宗教施設であると同時に、金融(高利貸し)や物流の元締めを行う、中世の「マフィアの事務所」そのものだった。
案内された豪華な客間で、薫子を待ち受けていたのは、たっぷりと肥え太り、上等な絹の法衣をまとった寺の幹部僧・ 覚全(かくぜん) であった。
覚全は、目の前に座る六歳の少女を、まるで珍獣でも見るかのような、ねっとりとした侮蔑の目で見下ろしていた。
「して、山科の姫君。神仏の御前で、本日はどのようなご相談でごじゃるかな?」
慇懃無礼なその言葉には、「武家の小娘が、なんの用だ」という明確な嘲りが混じっていた。
薫子は、その視線を全身で受け止めながらも、愛らしい童女の笑みを顔に貼り付け、深く頭を下げた。
「お忙しき中、お時間をいただき、まことに恐悦至極におじゃりまする。本日は、仏の御心を体現なされるお寺様に、大きなお願いの儀がおじゃりまして参りました」
「ほほう、お願い、とな」
「はい。実は当家にて、新たな街道の普請や、水車小屋の建造を考えておりまする。なれど、当家のような弱小の武家では、人手がまるで足りませぬ。そこで……」
薫子は言葉を区切り、まっすぐに覚全の欲深い目を見つめ返した。
「京の都に溢れる人を束ねておられるお寺様に、ぜひとも『人集め』をお願いしたく存じまする。どうか、当方の普請のために、人手を遣わしておくれやす」
覚全の顔に、あからさまな冷笑が浮かんだ。
「ふん。武家の小娘が、いささか小賢しい真似を。よいか、姫君。人というのは皆、仏の教えの下に生きる者たち。お主ら武家が、都合よく使い潰すための道具ではないわ。神仏の威光を傘に、我らがただ働きさせられると思うてか」
要するに、「タダで人を派遣してやる義理はないぞ」という凄みである。
薫子は心の中で、舌を出して笑った。
薫子(心の声)『はい、キタ。予想通りのテンプレ対応。お金の話に持っていきやすくて助かるわぁ』
「滅相もおじゃりませぬ!」
薫子は、大げさに身を縮めて見せた。
「お寺様のお手を煩わせるのです。当然の報いはお支払いいたしまする。……集めていただいた者たちに支払う手間賃の、じつに『三割』。これを、神仏への『お布施(手数料)』として、お寺様に納めさせていただきとうおじゃります」
「……三割、だと?」
覚全の細い目が、見開かれた。
当時、口入れ屋(手配師)が取る手数料は、せいぜい一割が相場である。三割という数字は、常軌を逸した暴利だった。
「左様でございます。お寺様は、ただ人を集めて、当方の普請場へ送り出してくださるだけでよろしゅうおじゃります。あとの面倒はすべて当方が見ますゆえ。百人送ってくだされば百人分の、千人送ってくだされば千人分の『三割』が、毎月、何もしなくともお寺様の蔵に転がり込む手筈におじゃります」
薫子の提示した条件は、覚全にとって、まさに空から降ってきたような甘い毒だった。
流浪の民やあぶれた農民など、彼らにとっては路傍の石に等しい。それを右から左へ横流しするだけで、莫大な銭が毎月、自動的に入ってくるのだ。
覚全の脳内で、凄まじい勢いで算盤が弾かれる。
(……この小娘、銭の使い方も知らぬ大馬鹿者じゃ。だが、その愚かさに付け込まぬ手はない。我らは指一本動かさず、武家の銭を吸い上げることができるわい!)
覚全は、必死に下品な笑いを噛み殺し、わざとらしく咳払いを一つした。
「……ふむ。神仏への篤き信仰心、確かに受け取った。姫君の頼みとあらば、無下にもできまい。よかろう、この覚全が責任を持って、必要なだけの人手を融通してしんぜよう」
「おお! まことに、まことにおおきにおじゃりまする! これで当家も安泰におじゃります!」
薫子は、天真爛漫な六歳の少女そのものの無邪気さで、深々と平伏した。
その頭のてっぺんを、覚全は底意地の悪い優越感と共に見下ろしていた。
(ふふん、たかが少しばかり銭回りが良くなったからと、思い上がった武家のガキが。たっぷり上前をはねて、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるわい)
寺からの帰り道。
揺れる牛車の中で、同行していた山科家の重臣が、青ざめた顔で薫子に詰め寄った。
「姫様! なぜあのような途方もない約束をなされたのですか! 三割もくれてやるなど……あれでは、いくら銭があっても足りませぬ! 奴らの丸儲けではありませぬか!」
怒りと焦りで声を震わせる重臣に対し、薫子は先程までの無邪気な子供の顔をすっと消し去った。
冷たく、底知れぬ深さを持つ、怪物のような静かな瞳。
「騒ぐでない。あの『三割』は、無駄金ではない。私たちが『時間』を買うための、最も安い 賄賂(コスト) でおじゃるよ」
「時間を、買う……?」
「そう。私たちがこれからやろうとしている事業は、既存の連中から見れば、自分たちの首を絞める劇薬そのもの。最初から牙を剥けば、必ず潰される」
薫子は、牛車の御簾の隙間から、遠くに見える比叡山の稜線を見つめた。
薫子(心の声)『歴史を変える大事業の初期段階で一番怖いのは、既得権益層からの「物理的な介入」よ。だから、あえて彼らを「人材派遣会社」として利用し、莫大な中間マージンを吸わせる』
「あいつらは今、私を『頭の悪い金づる』だと見下し、自動で入ってくる三割の不労所得に酔いしれている。この状態が続く限り、彼らは絶対に私たちを攻撃してこないわ」
「な、なるほど……。しかし、それでは永遠に寺の言いなりに……」
「永遠ではないわ。私が必要としているのは、地盤を完全に固めるための『半年から一年』。それだけの時間があれば十分」
薫子の唇の端が、つり上がる。
それは、未来の知識を持つ者が、中世の権力者を完全に手玉に取った、冷酷な笑みだった。
「坊主どもは、人を右から左へ流して儲けた気でいるようだけれど……分かっていないのよ。人間は、物ではない。心があるということを」
薫子は、握りしめた小さな拳を見つめた。
「彼らが送り込んでくる労働者たちを、私がどう扱うか。半年後……その者たちの『本当の忠誠』がどこに向かうか、坊主どもは思い知ることになるわ」
寺社勢力という中世最強の怪物を、自らのシステムの中に組み込み、泳がせる。
すべては、次なる段階――民衆の心を不可逆的に奪い取る「圧倒的なホワイト待遇の実績作り」のための、完璧な布石であった。