作品タイトル不明
166.ボックス席とオペラグラス
中央区にある大劇場の馬車止めで馬車を降り、そこから劇場のホールまで少々歩くことになった。
周辺は同じ観劇目的の男女のほか、街灯の下や柱の傍などで女性ひとりが人待ち顔をしているのがちらほらと目に入る。その他物売りらしい少年や小さな花束を持った女の子など普段見ている王都の光景とはずいぶん雰囲気が違っている。
「オーレリア、その、腕を組んでもらっていい?」
小声で囁かれ、周囲の淑女は全員紳士の差し出した腕に手を添えているのに気が付く。
「男性の手を掴んでいない女性は、その、フリーの女性と思われることがあるから」
「わ、分かりました」
幸いエスコートの受け方はウィンハルト家できちんと教わっていた。ウォーレンの右側で差し出した腕にそっと腕を絡め、視線は前に。今日は慣れないハイヒールを履いているため少々不安定だったけれど、ウォーレンの腕はがっしりとしていてゆるぎなく、掴まっているとなんだか安心する。
「あちこちを見ていると、何かお困りですかって口実で声をかけてくる人がいるから、できるだけ前を向いて」
「分かりました。……ウォーレンなんだか慣れていますね?」
こそこそと小声で尋ねると、ウォーレンは苦笑交じりに、うん、と浅く頷く。
「慣れたくはないけど、こういう場所には、来る機会があったから」
ホールに入ると一気に人いきれが増し、熱気と香水の匂いが混じり合って少しもわりとした空気だった。ウォーレンが受付にエレノアから受け取ったチケットを差し出すと、すぐに専任のスタッフらしい男性が近づいてきて、頭を下げる。
「オーレリア、上着を預ける?」
劇場の中は思ったよりもずいぶん暖かく、毛皮の上着は明らかに暖かすぎる。ずいぶん迷ったものの、周囲を見てみると女性は上着をクロークに預けるのが当たり前らしい。
ひらひらと色とりどりのドレスを翻し、まるで熱帯魚の水槽の中に紛れ込んだみたいだ。
これが観劇に際した女性の一般的なマナーであるのは明らかである。オーレリアも覚悟を決めて頷くと、ウォーレンが後ろに回って肩に掛けていた毛皮の上着を脱がせてくれる。
毛皮の上着を滑り落とすと、剥き出しになった肩に熱気のあるはずのホールの空気がひやりと触れて、思わず身を竦めた。瞬間、背後にいるウォーレンからぎょっとしたような雰囲気が伝わってきたけれど、その気恥ずかしさはぐっと押し殺す。
周りを見ればオーレリアの露出などむしろ控えめで、かなり大胆に胸や背中を開けたドレスの女性はたくさんいる。決して場から浮いているということはないはずだ。
そう自分に言い聞かせつつ、引換の番号札を受け取り、再びウォーレンの腕に掴まってボックス席まで案内される間、隣を見ることはできなかった。
* * *
スタッフが案内したドアの鍵を外し、中に案内された。ボックス席は思ったより広く、手すりのすぐそばに三脚の椅子が並べられ、その斜め後ろに同じ椅子が二脚、少し斜めに並べられている。このボックス席で計五人が観劇を楽しめるということらしい。
天井からは小ぶりなシャンデリアがぶら下がっていて、飲食のためだろう、小さなテーブルが左右に置かれている。正面には今は 緞帳(どんちょう) が降りている舞台があり、しっかりと見下ろすことができた。
「オーレリア、あの、あんまり端まで行かない方がいいかも」
なぜか最前列の席ではなく、一段後ろの席に座ったウォーレンに言われて振り返ると、微妙に視線を逸らしたまま言われてしまう。
「あ、不躾でしたか」
物珍しさについついあちこちを見てしまったけれど、物見高い感じは確かに気品ある態度とは言えないだろう。反省したオーレリアに、ウォーレンは困ったようにこっちこっちと二列目の椅子に招いた。
「その、いろんな人がオペラグラスでこっちを見ていると思うから」
「えっ」
そう言われてぎょっとして、慌ててウォーレンの元まで移動する。
「奥の席なら、角度的に見えないようになっているから」
そう言われてほっとしたものの、二段目の席でも舞台を見ることはできるけれど、一段目の席の迫力には到底及ばないのは始まる前から目に見えている。そもそもそれではボックス席の用をなさないのではないだろうか。
「あの、ボックス席をオペラグラスで見るって、普通なんですか?」
「それが、普通みたいなんだよ。どの家の所有するボックス席を使っている人が、どんなドレスを着ているかとか、どんな宝飾品を身に着けているかとか、そういうのが気になって仕方がない人が多いみたいなんだ」
オーレリアには全くわからない感覚である。劇を見に来ているはずなのに、客の身に着けているものを見てどうするのだろう。
「まあ、ここからでも劇は見られるから……何か飲む?」
運ばれてきたメニューの中から、ウォーレンは赤ワインを、オーレリアは白ワインをオーダーする。
残念ながらビールの類はメニューに載っていなかった。
「今日はエレノアさんの家のボックスだからそんな心配はないと思うけど、レンタルのボックスだとひっきりなしに挨拶をしに来る人がドアを叩き続けることもあるよ。むしろゆっくり劇を見たいなら一階の真ん中あたりの席が、一番静かに見ることができるかも」
なんとも不思議なシステムである。
劇の間三回は休憩があるから、そのうち少なくとも一回はホールに出て、寄り添って歩いている姿を周りに見せるようにというのがエレノアの指示である。
ウォーレンも明らかに気乗りしていない様子ではあるけれど、そもそも今夜の目的は婚約者らしく振る舞っている姿を人に見せるというものだ。慣れない格好をしてカチコチに緊張したまま、来て帰るだけでは何のために来たのか分からなくなってしまう。
「とにかく寄り添いあっていれば、基本的にはそういう二人に声をかけるのは野暮だと言うことになっているから、適当にホールで軽食をつまんで帰ろう」
「はい、あの、ウォーレン。すみません」
「え、何が?」
「その、ウォーレンは目立ちたくないのに、こんなことになってしまって」
オーレリアが急速に注目を浴びているため、婚約という立場では抑止力が足りなくなってしまう可能性がある。それがエレノアの判断だ。
今日の様子を見るだけでも、ウォーレンにとってこの状況が落ち着かないものであるのが伝わってくる。自分のせいでそんな思いをさせてしまっていると思うと、なんとも申し訳ない気持ちになった。
「そんなこと気にしなくていいよ。俺だって、他の男がオーレリアに婚約を求めるなんてすごく嫌だし」
「えっ」
「えっと、オーレリアはそういうの、嫌なんだよね? 友達が困っているのに助けにならないなんて情けないし、それに俺にちゃんと侯爵としての存在感があればそもそもそんな心配をしなくて済んだわけだし」
慌てたように言うウォーレンに、オーレリアはほっと息をついて、微笑む。
「ウォーレンにはいつも助けられています。そばにいてくれたら心強いですし」
「そっか、それならよかった」
「はい。ウォーレンも困ったことがあったら私を頼ってくださいね。頼りないと思いますが、できる限り力になりますから」
「俺も、オーレリアには、いつも助けてもらってるよ」
明らかに助けてもらってばかりいるとは思うけれど、ウォーレンがそう言ってくれるのは嬉しい。
ふわりと緩んだ雰囲気に笑い合っていると、急に大きなベルの音が響いてびくりと体を震わせる。
「あ、始まりそうだね」
始まりを告げるベルの音とともに、重たげな緞帳がするすると上がる。
やがて耳を打つようなトランペットとピアノの音が、劇場内に響き渡った。