軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第18話 シリルの気持ち

「情けないことに、私は結婚初夜がうまくいかなかったんだ」

シリル様の告白に、私はなんと返事をしていいのかわからなかった。

何もない空間の、だだっ広い部屋の温度までが下がったみたいだった。

たしかなのは、右手で握っているシリル様の体温だけ。

「まあ、うまくいかないと言っても、なんとかしたんだけど、かなり大変でね。…ヴェローニカには、呆れられたものさ」

「…なんとか、なるものなんですか?」

「19で若かったからね。それでも、私には夫婦の営みは向いていなくて、苦労してね…」

自嘲気味に笑うシリル様をはじめて見て、苦しくなった。

胸が痛くて、それが体の末端まで届くようだった。

ジクジクして、キリキリして、ズキズキする。

「恋をしていない相手だと、こんなにもうまくいかないものかと落ち込んだ時もあったけど、何もしないわけにもいかないからね」

「……」

「だから、フェルナンドが生まれた時は、私の方が安堵してしまった」

そこまで言うと、シリル様は息を吐いた。

何も言えない自分が、情けなかった。

その苦しみを本当の意味では、きっとわかっていない。

夫婦なのだから、痛みも分けてほしいけれど、私ちゃんとわかっているのかな。

シリル様は、安心できる妻が欲しかったのかな…。

私が泣くわけにはいかなくて、グッと唇を噛んだ。

ポケットからハンカチを取り出して、背伸びをしてシリル様のおでこの汗を拭った。

シリル様は驚いたあと、体を屈めてくれた。

力が抜いたように見えて、私の方がホッとしてしまう。

「…私はそれでいいと思っていたんだけど、ヴェローニカはそう思っていなかった」

「え…」

「それ以降、何もないとは馬鹿にしているのかと叱られたものさ」

「…それ、は」

「『貴方以外いないのに、私に不貞を働けと言うのか』『妻を満足させるのも、夫の役目じゃないのか』と言われて、…それで、かなり無理をして頑張ったんだ。最後の方は精力剤も効かなくて、ほとほと困り果てたよ…」

その口調はヴェローニカ様ではなく、ご自身を責めているのだとわかって、余計に苦しい。

20代だったシリル様が背負っていたものが重くて、隣にいるシリル様がそこにいてくれるだけで十分だと思った。

ヴェローニカ様の言うことも間違っていないだけに、単純な判断もできない。

貴族が嫁ぐということは、ただ1人だけとそういう関係になるということだ。

お互いに、お互いしかいない。

それは、逃げ道のない繋がりだ。

その覚悟が、ヴェローニカ様にはきっとあったんだ。

ルース家を守ってきたヴェローニカ様が、貴族としての道を外すわけもない。

『愛がないと辛いから』と言った、シリル様の言葉を思い出す。

「ああ…、そんな顔しないで、メリンダ。私は大丈夫だから」

「…私に泣く資格、ないのに」

「そんなことないさ、ありがとう。私の気持ちを気遣ってくれたんだよね」

「…シリル様が、今、私と一緒にいてくれるのは、すごいことなんだなと思ったら」

「本当にね。私ももう一度結婚ができるとは思っていなかった」

シリル様は私の手からハンカチを取ると、私の頬に流れた涙を拭いてくれた。

それから、にこりと微笑んだ。

「でも、そのおかげで、エルウィンにもアレンにも出会えたんだ。そのことには、本当に感謝している。ヴェローニカにも、すごく感謝しているんだ」

アレン様に言っていたことと同じことを言うシリル様の顔が穏やかで、息子さんたちが本当に可愛いんだとよくわかる。

シリル様が笑ってくれるなら、私も笑おう。

そう思って、笑みを作ったけど、シリル様が困ったように私の頬にハンカチを当てるだけだった。

「アレンが生まれた時にヴェローニカは体を悪くしてね、部屋で寝ていることが増えた。ヴェローニカは自室で寝ていたから、私はこの部屋に寄り付かなくなった」

「そう、だったんですね…」

「それでも、まあ、ずっと怒られていたけどね」

「えっ」

「当主としても父親としても、もっとしっかりしろと言われたものさ。今思うと、自分が長くないと悟っていたのかもしれないね。気丈な人だったけど、私は最後まで怒られていたな…」

怒られるシリル様が、あまり想像つかなくて首を捻ってしまう。

肖像画のヴェローニカ様を思い出して、あの宝石のような緑色の目が、怒りに燃えるところを想像したけれど、やっぱりうまく映像にはならなかった。

ヴェローニカ様は、シリル様が気に入らなかったのかな…。

私がお父様のやること全部に、時々イライラしてしまうみたいなものなのかな。

それがやっぱり甘えていたとしても、シリル様が今こんなふうに悲しそうなのは、嫌だと思ってしまうな。

…私、もっとお父様に優しくしよう。

「それで、36歳という若さでヴェローニカはこの世を去った」

シリル様はそう呟くと、繋いでいる手をグッと握った。

痛くて、冷たくて、嬉しくて、もどかしかった。

そして、ゆっくりと確かに、シリル様は顔を歪めた。

「私はそのことに、心底ホッとしてしまったんだよ」

シリル様は、打ち明けるように静かにそう言った。

「もう何もしなくていいし、何も怒られないと、ホッとしてしまったんだ」

それだけ言うと、シリル様の目からも一粒だけ涙が落ちた。

私の気持ちまで、ぐちゃぐちゃしてくる。

私はシリル様の寝巻きの裾を握って、首を振ることしかできなかった。

「…ヴェローニカのことは、私なりに大事にしていたつもりだったんだけど、安堵してしまった自分にガッカリしたんだ。ヴェローニカは、何も悪くないのにね」

「シリル様だって、悪く、ないですっ…!」

「ふふ、メリンダはそう言ってくれるかなってちょっと思ったよ。ずるいね、私は」

「…誰も、悪くないっ」

「ああ、きっとそうだったんだろうね。あの時の私には、そうは思えなかった」

「……っ」

「後ろめたくて、だからか数年間、夢に見たよ。ヴェローニカにひたすら怒られる夢だった。それが、しんどくてね、…ヴェローニカの顔が見られなくて、それで肖像画も外したんだ」

もう涙が止まらなくて、私は何度も首を振った。

シリル様が困っているのがわかっていても、シリル様のせいじゃないと首を振った。

だって、シリル様が悪かったって、シリル様に思ってほしくない…!

シリル様は私の頭を抱えると、自分の胸へと私の顔をくっつけた。

そのままシリル様の寝巻きに、私の涙が落ちていく。

私はされるがままで、シリル様はいつものように頭を撫でた。

「この部屋に近寄るのも怖くて、だから、メリンダと寝室を一緒にするのが怖かったんだ。私の事情で、迷惑をかけてすまなかったね」

「迷惑なんて、かけられていませんっ…!」

「そういうわけで、ずっと再婚の話を持ちかけられても、逃げていたのさ」

私が顔を上げると、思ったよりも近くにシリル様がいた。

繋いだままの手をシリル様は持ち上げると、私の指先にそっとシリル様の唇が触れた。

私は、それをただ見ていた。

「だから、メリンダと会った時は驚いたものだよ」

「私、ですか…?」

まだ零れている涙を、瞬きをして落としていく。

シリル様と目が合って、私の大好きな笑顔で笑っていた。

「そう。クラーク子爵には、『ダメでもいいですからね』と念押しされていたんだけど、あのたった数時間があまりにも楽しくてね」

「レストランで、お会いした日ですか?」

「ああ、自分でもびっくりしたけど、メリンダといるのは息がしやすくて、君が隣にいてくれれば楽しいかもしれないと思ったんだ」

「私、何もしていませんよね…?」

「お喋りしてくれただけだね。でも、それが嬉しかったんだよ」

「…?」

「立場上、色んなものが求められるからね。メリンダは何にも要求してこないから、びっくりしたものさ」

ふふっ、と可笑しそうに笑うシリル様は、レストランの日みたいに、少年のように笑った。

ああ、そうだ、この笑顔が可愛くて、私…。

「あの日も、あのレストランで試すようなことをしてしまった」

「そんなこと、ありましたっけ?」

「大概の貴族のご令嬢は、庶民の使うレストランは嫌がるものだよ?それなのに文句を言われるどころか、喜んでくれるし」

「それは、むしろ堅苦しい場所じゃなくて、ホッとしていましたし…」

「ふふ、そうなんだよね。メリンダはそうだった。…昔は、ヴェローニカがいた頃は、休みの日に仕事だと言って、ああいった場所に逃げて、息抜きしていたんだ。ヴェローニカが嫌がって近づかない場所だったからね」

「そうだったんですね…」

「だから、嬉しくなってしまってね。この機会を逃したら、二度と君には会えないのかと思ったら、それは寂しいことだと急に思ったんだ」

シリル様の紫いっぱいに、私が映っていて、ドキッとした。

「それで、『寄り添う家族』なんて言い訳付きで、求婚してしまったんだ」

はにかむように苦笑いするシリル様を見上げながら、私もあの日のことを思い出した。

「…私は、あの日、翻訳のことを否定されなくて。否定どころか、素敵ですねって言ってもらえたのが嬉しかったんです。男の人に翻訳を肯定されたこと、お父様以外にいなかったから」

「そうだったのかい」

「だから、シリル様と家族になるというのは、嬉しかったんだなって、今思うと、かなりときめいていた気がします」

「…ふふふ、そうか」

「シリル様がよくて、他に考えられないし、だから、『寄り添う家族』になれたらいいなって思っていました。ただ、好きになったのは、想定外だったと言いますか…」

「それならよかった。想定外のことが起こってくれて、嬉しいよ」

「へ…?」

私がぽかんとしている間に、あのひだまりの声が弾んで降ってきた。

「──私も、メリンダのことが好きだよ」