軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

250 武帝祭②

誰もいなくなった控室で、小さな冷蔵庫が静かに開き、水の瓶の内一本が誰も手を触れていないのに外に転がり落ちてくる。

そして、妹狐は水の瓶から元の姿に戻った。

元の姿に戻って妹狐が最初にしたのは、大きく深呼吸をして、気分を落ち着ける事だった。

緊張に勢い余って飛び出してしまった二本の耳をぴくぴくさせて気配を探る。部屋から出ていったあの危機感さんの気配はしなかった。それを確認してほっと息を付く。

本当に恐ろしい人間だった。狐の化生として完璧な変化を誇る自分をああもピンポイントで追い詰めるとは、にわかに信じがたい。

無機物に化けるなど初歩中の初歩である。今回は尻尾がうっかり出ていたりもしなかったはずだ。

だが、最終的には勝った。誤魔化しきれた。『危機感さん』は妹狐の変化に気づかなかった。声が出てしまった時にはどうなるかと思ったが、まだバレてはいない。

しかし、本命はここからだ。慎重にことを進めるのだ、相手は兄や母が手を焼いた相手である。立てた計画には自信があるが、何がきっかけでバレるともわからない。

今回だって、あの男が控室にやってくるのはイレギュラーだったのだ。とっさの機転で水瓶になってカバーできたが、よく考えれば、相手は選手として出場するはずだったのだからやって来るのは当然である。

「……おもしろい」

【迷い宿】にはルールがある。知恵比べで負けた際に復讐してはいけないのだ。

だが、してやられたことに何も感じないわけではない。

前回、巧妙な罠にかけられた結果、攻撃不可の縛りまでつけられてしまった結果、妹狐は同胞から謂れのない食いしん坊のレッテルまで張られてしまったのである。

今思い出しても、屈辱な話だった。

復讐はできない。だが、新たな勝負を挑む事はできる。

今度、攻めるのは妹狐の番だ。

果たして、油揚げスマホの正体にいつまでも気づかない程鈍いあの男が、策謀を見破る事ができるのか?

人を化かすのに手は抜かない。

目をつぶり、人差し指を立て、術を行使する。これで危機感さんはしばらくトイレで迷い続け、出てこれない。

トイレで立ち往生している間に、危機感さんの信頼は失墜するのだ。そして、慌てふためくその姿を見てあざ笑ってやる。

妹狐は自分の仕事に満足して笑みを浮かべると、ぴょんと宙返りしてクライ・アンドリヒに姿を変えた。

§ § §

空は快晴。数万人は入れるかという巨大な闘技場は人と熱気で沸いていた。

いよいよ武帝祭が始まるのだ。席の大部分は埋まっており、クリートのどこにこれほどの人数が隠れていたのかという気分になってくる。

ティノ含め《始まりの足跡》の面々に用意されたのは関係者用のアリーナ席だった。

ティノ達のように、闘技者の関係者に与えられる席は戦っている場所から一番近い内側の席である。これは、この参加者の種族・職不問の武帝祭に於いて、大量のマナ・マテリアルを吸収した参加者の攻撃は大規模になる傾向があり、その仲間たちには万一の時のための防波堤のような役割を求められているためだ。

隣の一画を見ても数百メートル先の対面の席を見ても強面ばかり。自然と肩に力が入りそうで、ティノは大きく深呼吸をして気分を落ち着ける。

「おいおい、まだ始まってもいないのに大丈夫かよ」

「そうだぞ、です。私達はヨワニンゲンの招待客なんだから、それなりの態度を取らないといけない、です」

近くに座っていた《黒金十字》のリーダー、スヴェン・アンガーと《星の聖雷》のクリュスが話しかけてくる。

だが、スヴェンはともかく、クリュスの方はティノと同じくらい緊張しているようにも見えた。

「こっちは大金を賭けたんだ、負けたらただじゃ済まさない、ですッ!」

結局ティノのマスター知名度向上作戦はたった一人を除いて失敗に終わった。どうやらますたぁの信頼は底をついているようだ。

いや、ある意味、理解されているというべきだろうか?

クリュスの言葉に、スヴェンが哀れみの視線を向ける。

「クリュス、お前さては……アレだな?」

「!? アレ!? アレって、なんだ、です! 言いたいことがあるならはっきり言え、です!」

「ますたぁは神。ますたぁは絶対に勝つ、だから問題はなにもない」

「そ、そうだッ! ヨワニンゲンは勝つから問題はない、です! 招待までされたんだから賭けるのは当然だろ、です!」

クリュスが慌てたようにティノに同調する。だが、その透明感のある瞳からは明らかな動揺が見えた。

多分、ティノと同じ不安を抱いているのだろう。

そもそも、勝とうが負けようが、ティノには親愛なるマスターに賭ける選択肢しかないのだ。賭けなかったら、後から確認された時に信仰心が疑われてしまうではないか。

「しかし、この対戦カードは何なんだ、です! ふざけすぎだろ、です!」

クリュスがトーナメント表をばしばしと叩く。ティノも同感だ。

マスターの対戦相手、一回戦の相手、クラヒ・アンドリッヒ。明らかにマスターの偽物である。

偽物(マスターは本物とか言っていたが)がいるとは聞いていたが、まさか晴れの舞台の第一回戦(しかも他の参加者の試合も含め、全試合中の最初だ)で戦うとは完全に予想外だった。四方千里に名が轟く《千変万化》を騙るなど笑止千万。

そして、それが、その対戦相手が、ティノがマスターに賭けるさらなる理由になったのである。

だってほら――口が裂けても、本物が偽物に劣るなどと言えないではないか。

クリュスのごもっともな憤慨に、スヴェンが快活に笑う。

「はははははは、だが、こいつはなかなか強えぞ。腕利きの魔術師だ。マナ・マテリアルも十分に吸ってる」

「ああ、お前会ったって言ってたな、です。だが、そんな腕利きなら尚更、偽名使うのおかしいだろ、ですッ! ここは精霊人の間でもよく知られているあの武帝祭だぞ、です!」

「本名らしい」

「!? お前、それを信じたのか、です! こんな偶然あるわけないだろ、です! 冷静に考えてみろ、名前はともかく二つ名までそっくりなんてどんな確率だ、です!」

とても不安だ。マスターは神だが、何かとトリッキーな事がある。

自分そっくりの本名を持つ偽物――というか、本名がそっくりだったからこそ偽物になろうとしたと考える方が自然だ――とか、とても好きそうだ。マスターの懐の深さは長所でもあり、時には短所でもあるのである。

どうやら、ここまで聞き耳を立てた感じ、マスターをちゃんと知らない連中は、どっちが本物だかわかっていないようだった。

クライ・アンドリヒとクラヒ・アンドリッヒ。《千変万化》と《千天万花》。

元々、マスターはあまり人前に顔を出す方ではない。二つ名はともかく、名前や顔の認知度は他の高レベルハンターと比べても低いだろう。もちろんそれは意図的にそうしているのだろうが、それが裏目に出ていた。

もしもこれで負けたら――クラヒの方が本物扱いされかねない。

どちらにせよ、もう全財産は賭けてしまった。ここまで来ればティノにできるのは前のめりになって応援する事だ。

思い切り自分の頬を張る。何もされていないのに挫けそうになる心を奮い立たせる。

せっかくこんな近くで戦いを見せてもらえるのだ。マスターを応援するだけでなく、この大会から何かを学ばなくては。

§

そして、時が来た。場に満ちていたざわめきの質が変わる。

渦巻く熱狂はそのままに、不思議な静けさに満ちた闘技場は不思議と精神を高揚させた。

広々とした闘技場に、大柄な男が現れる。

ともすると、《不動不変》のアンセムに匹敵する身の丈の男だ。そして――前回の大会で圧倒的な力により大会の頂点に立った『前武帝』でもあった。

その右脇に抱えられたのは、本人が小さく見えるかのような巨大な金属の棒だ。宝具を除けばこの世で最も頑丈で、この世で最も重いとされるアダマンタイト製の棒である。

ティノも一端の武人として情報を持っているが、前回の大会でこの男はただの金属の棒と鍛えた肉体であらゆる術を、技を粉砕したのだ。

アンセムは鎧を脱がないが、その男は鎧を着ていなかった。

剥き出しになった肉体は一目見るだけで寒気がするほど人間離れしていて。同じ種族だとは思えない。

人の身で幻獣魔獣をも遥かに上回る身体能力を持つに至るとは、これもマナ・マテリアルのなした奇跡だろうか?

今年の参加者はこの前武帝を如何にして突破するか考えてきているはずだ。

前武帝が静かに息を吸う。そして、雷鳴のような声が広々とした会場に響き渡った。

衝撃がティノの肉体を通り抜ける。あまりの音に、思わず耳を塞ぐ。至近距離だったら音だけで意識を刈り取られていたかもしれない。

それは、確かにこの世界で頂点に立つ者の技だ。

「今このクリートに、一年の時を経てッ! あらゆる障害を排し、新たに俺の座、『武帝』の座を欲する者たちが集まったッ! 今ここに、武帝祭の開催を宣言するッ!!」

シンプルな言葉だ。しかしその目には、獲物を前にした獣の輝きがあった。その声は血湧き肉躍る戦いを欲していた。

ひと目見てわかった。この男は、自らを脅かさんとする挑戦者を待っている。

武帝の座には莫大な金と名誉がついてくる。だが、金でも名誉でもなく、力のみを欲した男。ライバルを蹴散らし武帝に至る者というのは、もしかしたらそういう者なのかもしれない。

ティノには予感があった。

マスターが武帝になるには、あの男が、前武帝が最も大きな障害になる。

ティノは徹頭徹尾マスター派だが、いつも穏やかな笑みを浮かべているマスターがあの化け物のような男に勝てるかどうか、あまり自信がなかった。

そして、一回戦が始まる。

§ § §

ようやく、来たか。待ちわびた。

肌を撫でる空気には観客席の熱狂が多分に含まれていた。高揚が肉体を満たしていた。

《千天万花》のクラヒ・アンドリッヒはしばらく目をつぶり精神を集中させると、スイッチを切り替えた。

体調は絶好調だ。昔、クール達にパーティ勧誘されるまで、クラヒはソロだった。誰にも助けて貰えないソロのハンターにとって即座に戦闘態勢に入るというのはいわば必須の技能だ。

クラヒは魔導師だが、ソロの戦いには慣れている。そういう意味で、武帝祭での戦いはクラヒに有利だ。

一般的にこの手の大会では近接戦闘職が強いとされている。実際に前武帝も肉体に特化した怪物じみた男だった。

だが、クラヒはその威容を目の当たりにしても、伝わってくるその極まった強さに戦慄しても、一切負けるつもりはない。

勝ち続ける。ずっとそうやって生きてきた。ハンターにとって勝利への欲求は何よりも必要なものだ。

だが、今回クラヒが戦うのは己のためだけではない。

武帝になる。そして、《 嘆きの悪霊(ストレンジ・フリーク) 》の名前を伝説にする。

いつもどこか自信なさげな顔をしつつも、自分に付き従ってくれる仲間のためにも。

「本気を出させてもらう、クライ。そして、君の意志もまた、僕が背負っていこう」

クラヒ・アンドリッヒは一人つぶやき、戦場に進んでいった。