作品タイトル不明
第197話 大学でのひとときと
昼食を終えたあとも、ウィリアムの案内は続いた。
講義棟の配置や研究室の区画、学生がよく集まる回廊、掲示板が並ぶ広間。
どれも実用的で飾り気は少ないが、人の往来に合わせてきちんと整えられているのがわかった。
「さて……最後にこちらをご案内いたします」
そう言ってウィリアムが向かったのは本館の裏手だった。
石造りの建物が途切れ小径を抜けた先に、ガラス張りの建屋が姿を現す。
大学の敷地内ではあるが、主要な研究棟からは少し離れていた。
静かで、人の気配が薄い場所だった。
「ここは……?」
アメリアが尋ねると、ウィリアムは意味ありげに微笑む。
「きっと、お気に召すと思いますよ」
そう言って扉を押し開けた瞬間、空気がはっきりと変わった。
外よりも一段あたたかく、湿り気を含んだ風が頬に触れる。
土の匂い。葉の青い匂い。どこか甘さを帯びた花粉の気配。
アメリアは、思わず足を止めた。
「わああ……!」
声を抑えきれなかった。
天井まで届くガラス越しに光が降り注ぎ、その下で無数の植物が息づいている。
整然と並ぶ鉢植え、地面に根を張る低木、梁から垂れ下がる蔓植物。
葉の形も色もさまざまで、同じ緑はひとつとしてない。
「これは……見事ですね……」
リオも薄いながらもその光景に目を奪われているようだった。
「すごい! まるで植物園ね……!!」
アメリアの足が自然と前に出る。
目が追いつかず、視線が次から次へと移っていった。
「これはルミナ・フロレア……! 夜明け前のほんの短い時間しか花を開かない種ですよね」
「こっちはヴェルディナ草……葉脈の走り方が違う。実物を見るのは初めてだわ!」
「この実……サンディア・ミラ!? 年に一度、条件が揃わないと実らないはずの……!!」
言葉が途切れない。
歩いては立ち止まり、覗き込んでは息をのむ。
珍しい花を見つけては身を屈め、葉に触れそうになって慌てて手を引っ込める。
まるで宝物の山に迷い込んだ子どもみたいだ、と自分でも思うほどだった。
しばらくして、ふと我に返る。
「……あっ。す、すみません。つい、はしゃぎすぎてしまいました……」
頬を赤らめてそう言うとウィリアムは責めるどころか、どこか楽しそうに笑った。
「いえ。そういう反応をされる方のほうが、珍しいくらいですよ」
一拍置いて、ウィリアムは言う。
「この温室は、大学が管理している植物の中でも、特に希少性の高いものを集めています。種類はおよそ三百以上。季節を問わず育成できるよう、内部は区画ごとに温度や湿度を調整しているんです」
彼は周囲を示しながら、続ける。
「乾燥地帯の植物、寒冷地原産のもの、湿地に適応した種……それぞれ環境を再現していますから、一年を通して観察と研究が可能です」
「へええ……そうなのですね……」
アメリアは感心したように息を吐き、もう一度ぐるりと温室を見渡した。
「……すごいです。本当に……」
知識として知っていたはずの植物たちが、ここでは確かな温度と匂いを伴って生きている。
その事実に、胸の奥が静かに満たされていくのを感じながら、アメリアは小さく笑った。
「少し見て行かれますか?」
「ええもちろん!!」
植物をこよなく愛するアメリアにとってはまさに楽園のような場所。
そこを自由に見ていいと言われると、胸が高鳴るというものだ。
鉢の列に沿って歩き出すと、温室の奥へ進むにつれて空気の温度がわずかに変わっていくのがわかった。
葉の縁を目で追い、花弁の厚みを確かめ、名札に書かれた学名を小さくなぞる。
気づけば、自然と歩調がゆっくりになっていた。
(この感じ……)
不意に、別の光景が胸の奥に浮かぶ。
いつだったか、へルンベルクの屋敷の庭園にて。
午後のやわらかな日差しの中、石畳の小道をローガンと並んで歩いていた時のことだ。
『これはなんという花なんだ?』
低く落ち着いた声でそう尋ねられて、アメリアは少しだけ得意になって答えた。
『これは月白草です。夜になると香りが強くなって、虫を呼ぶんですよ。昼間は目立たないんですけど……』
『ほう。夜にだけ香りを強くするのか』
『はい。だから、庭師さんたちも刈り込みの時間を間違えないようにしているんです』
『物知りだな、アメリアは』
感心したように頷くローガンの表情が今でもありありと思い出せる。
あの時は、隣を歩く彼の気配が当たり前のようにそこにあって。
植物について解説するたび、ローガンが静かに耳を傾けてくれるのが、嬉しかった。
――今は。
アメリアは、無意識のうちに指先を握りしめていた。
温室の中はあたたかい。
なのに、胸の奥には冷たい風が吹き抜けるような感覚。
(ローガン様、今ごろ何をしているのかしら……)
「アメリア様、どうされましたか?」
立ち止まって物憂げな表情をするアメリアに、リオが心配そうに声をかける。
アメリアはハッとして、「ううん、なんでもないわ」と答えた。
名前を呼ばれることも、肩が触れることもない距離にローガンはいる。
寂しさがないわけではない。
けれどそれ以上に、自分で選んでここに立っているという事実の方が大事だ。
アメリアはそっと息を整え、先へ進む。
ローガンが隣にいなくても、前を向いている自分でいたいと思いながら、アメリアはゆっくりと歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか。
温室の端で、ひとりの青年が鉢の前にしゃがみ込み、難しい顔で葉を覗き込んでいるのが目に入った。
手には記録用の板、何度も書き直した跡が見える。
年は二十歳前後だろうか。
やや長めの前髪が額にかかり、白衣の袖は肘のあたりで無造作に捲られている。
指先には土汚れがうっすらと残り、眼鏡の奥の視線は真剣そのものだった。
身なりは気にしていない様子だが、植物に向ける集中力だけははっきりと伝わってくる、いかにも理系の学生らしい青年だった。
「うーん……困ったな……」
青年は頭をかきながら、何か苦悩しているように見えた。
(どうしたんだろう……?)
気になるが、話しかけていいものか。
迷っている間に、ウィリアムはその青年と面識があるのか、迷わずに声をかけた。
「どうかしましたか?」
「あ、ウィリアム先生……実は……」
青年は立ち上がり、少し気まずそうに鉢を指した。
「このグラネア草なんですが……本来なら実が三つ付くはずなんです。でも、どう調整しても一つしか成らなくて……」
グラネア草。
細長い葉に、根元がやや膨らむ多年草だ。
「確かに、資料が少ない種ですね」
ウィリアムが腕を組み、考え込む。
それから視線をアメリアに向けた。
「アメリア様、何か気づいた点はありますか?」
「え……?」
話を振られたことに一瞬だけ戸惑った。
しかしウィリアムが尋ねてきたのは自分に対する信頼の証だと気づいて、すぐに鉢の前にしゃがみ込む。
不意に隣にきた、見るからに大学関係者とは思えない少女に、レオンが戸惑いの顔を浮かべる。
「えっと、この方は……」
「アメリアです、今日から大学の研究者として配属されました」
「け、研究者!?」
アメリアの見た目からして、年齢的に研究者どころか学生すら怪しい。
そのことにレオンはびっくりした様子だった。
「アメリア様はれっきとした大学の研究者です。それは私が保証します」
ウィリアムがすかさずフォローを入れると、レオンは慌てたように言う。
「す、すみません、見たところかなりお若いので、研究者ということに驚いてしまって……」
「いえいえお気になさらず。私自身、大学の研究者になったという実感はほとんどないですから……」
あはは……と笑うアメリアに、レオンは咳払いして言う。
「改めまして、レオンと申します。カイド大学の四年生で、今は薬草学部のベネット教授の助手をしています。よろしくお願いいたします」
「薬草学部というと私と同じですね! よろしくお願いします!」
同じ学部の、自分とさほど歳の離れていない青年に親近感が湧いたのか、アメリアはついレオンの手をとってぶんぶんと振ってしまう。
アメリアからの唐突な接触に、レオンは面食らったような表情をした。
「ア、アメリアさん……?」
「はっ、失礼しました! つい……」
「い、いえ、お気になさらず……」
レオンは眼鏡をくいっと持ち上げて、ほんの少しだけ頬を赤くした。
一方のアメリアは気を取り直して、アメリアはグラネア草に向き直る。
「ちょっと失礼します」
葉の色、縁の反り具合、土の湿り気を指先で確かめる。
「根は元気ですね。張りもあります」
レオンが頷く。
「はい。栄養と水分は、基準通り与えています」
アメリアは、しばらく黙って観察を続けた。 頭の中で、グラネア草の生息環境を思い出す。
(昼と夜の寒暖差……日照の強さ……)
「根に刺激を与える方法は、もう試されていますか?」
「はい。でも、そのせいか葉が弱ってしまって……」
「根に刺激を与える方法は、もう試されていますか?」
「はい。根鉢の外側を少し崩したり、細根に触れる程度に切り込みを入れたり……文献にある方法は一通り。最初は蕾がつきかけたんですけど、次の日には葉がしおれてしまって……それ以上は怖くて続けられませんでした」
レオンの指先が、鉢の縁をなぞる。
手つきだけは丁寧なのに、悔しさが声に滲んでいた。
アメリアは頷きながら、グラネア草の葉に視線を落とす。
葉色は悪くない。艶もある。
縁がわずかに反っているのは水切れではなく、熱がこもった時の反応に近い。
――根が弱っている個体ではない、なのに実だけがつかない。
「根そのものは、元気ですね。刺激で葉が弱ったのは……根が耐えられないというより、条件の変化が急すぎたのかもしれません」
「条件の変化……?」
レオンが眉を上げる。
アメリアは鉢の位置と、頭上のガラス天井、それから温室の換気窓を順に見た。
光は十分に入っている。
温室の中は暖かく、空気も安定している――安定しすぎるほど。
「この温室、管理がすごく行き届いていますよね。温度も湿度も、たぶん一日を通して大きく動かないようにしている」
「はい。担当の方針で、基本は変動を抑えるようにしてます。植物が弱る原因になるからって……」
「普通の植物ならその方が育てやすいです。でもグラネア草は、もともと乾燥地帯で、昼と夜の差が大きい場所に生える植物ですよね?」
アメリアは、葉の裏をそっと覗き込む。
乾燥に耐えるための毛の細かさ。
厚みのある葉肉。
この草は守られた安定より、変化に合わせる力で生きる種類だ。
「根をいじると一瞬反応するのに、すぐ葉が弱るのは……根に刺激が足りないというより、刺激の方向がずれている気がします。根じゃなくて、環境の合図を変えた方がいいかと」
「環境の合図……?」
「夜を作るんです」
レオンがぱちりと瞬きをする。
アメリアは言葉を急がず、指先で空をなぞるように続けた。
「昼夜の温度差がある場所の植物は、夜が来たって分かった時に、体の中の切り替えが起きます。花芽や実の準備も、その切り替えの延長にあることが多いです。今のこの温室だと、ずっと同じ朝みたいに感じてしまうんじゃないのかなと」
ガラス天井を見上げる。
均一な光、均一な暖かさ。
それが、この草には季節が来ないのと同じなのだ。
「だから、根に手を入れて無理に促すより、夜間だけ温度を少し下げて、朝に光を強める。差を作って“今が変わり目だ”って知らせるんです。急に落としすぎると弱るから、ほんの少しでいいと思います」
「あ……」
レオンの口が、わずかに開いたまま止まる。
そして次の瞬間、目がぱっと明るくなった。
「確かに……! 安定させることしか考えてませんでした。弱らせないように、揺らさないようにって……でも、揺らさないと反応しない植物もあるですね」
記録板を抱え直し、鉢と天井と温度計を慌ただしく見比べる。
頭の中で、もう手順が組み立っている顔だった。
「夜間の設定、確認してきます! 朝の光も、区画の位置を変えれば、いや、遮光の使い方で……! ありがとうございます、すぐ試してみます!」
レオンのぱっと明るくなる。
大学の学生というだけあって、知的好奇心の強さは折り紙付きだ。
解決できない問題に差した一筋の光明に、レオンは興奮したようだった。
「ふふ、どういたしまして」
役に立てたのだと思った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
難しい顔で鉢を覗き込んでいたレオンの表情が、今や晴れ晴れとすっきりしている。
その変化を間近で見て、嬉しい気持ちでいっぱいだった。
へルンベルク邸の庭でも、植物の話をすることは多かった。
でもここにいる人たちは同じような前提知識、悩みを持ち、同じ方向を向いて考えられる。
言葉を選びすぎなくても通じる会話が、こんなにも心地いいとは思わなかった。
(楽しい……)
ただ植物が好きなだけではない。
「どうすればうまくいくのか」
「なぜ今はうまくいかないのか」を一緒に考え、試そうとするこの空気が胸にすっと馴染む。
大学という場所が、少しずつ自分の居場所として輪郭を持ちはじめているのを感じていた。
「さすがですね、アメリア様」
様子を見ていたウィリアムが、感心したように声をかける。
からかうような調子ではなく、純粋に評価する声音だった。
「知識だけでなく、実際の生育環境まで踏まえて助言できる方は、そう多くありません。彼も、かなり刺激を受けたようですよ」
視線の先では、レオンがさっそく記録板に何かを書き込み、鉢の配置や温度計を確認している。
もう次の実験を始める気なのだろう。
「いえ……たまたま知っていただけです」
そう答えながらも、アメリアは胸元に小さな熱を感じていた。
謙遜では消せない感覚。
ここでは、自分の知識が必要とされている。
遠慮や立場に縛られず、植物と向き合ってきた時間がそのま ま力になる。
怖さが消えたわけではない。
視線や評価に、これからも心が揺れるだろう。
それでも、こうして誰かの手助けになり同じテーマで語り合える瞬間があるのなら。
アメリアは、温室いっぱいに広がる緑をもう一度見渡した。
ここでなら、自分は学び、試すことができる。
そう確かめることができた、短くも確かなひとときだった。
◇◇◇
温室を出ると、空気がはっきり変わった。
湿り気を含んだ温かさが背後に残り、代わりに石造りの建物特有のひんやりとした空気が肌に触れる。
袖口から入り込む冷たさに、アメリアは小さく息を吸った。
それでも、胸の奥はまだ温かかった。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれる。
さきほどまで植物の名前を挙げ、条件を確かめ、どうすれば実がつくかを一緒に考えていた時間が楽しかったからだ。
知っていることを口にすると、相手の表情が変わりすぐに次の問いが返ってくる。
遠慮や立場を気にする間もなく、話題が次へ次へとつながっていく。
社交の場で交わす会話とも、礼儀のための言葉とも違う、ただ知識を介して向き合うやり取り。
研究員として、というより、「植物のことが好きな一人」として話ができた感覚がまだ体に残っていた。
自然と足取りが軽くなりそうになって、アメリアは意識して歩調を落とす。
(だめよ、浮かれすぎてはいけないわ……)
ここでは、少しの油断がそのまま隙になる。
さきほどホールで浴びた視線の重さを、思い出す。
値踏みするような目、様子を測る沈黙。
アメリアは背筋を伸ばした。
楽しかった、で終わらせない。
ここで認められるには、これからも積み重ねていくしかないのだから。
そう自戒を込めていると。
「では、次はこちらです」
ウィリアムが、廊下の先を示す。
温室とは反対側、人通りの少ない区画だった。
歩くにつれ、周囲の音が減っていく。
学生の話し声も足音も遠のき、代わりに聞こえるのは、自分たちの靴音だけ。
こつ、こつ、と一定のリズムが続く。
その規則正しさが、まるで歩幅まで揃えられていくようでアメリアは小さく肩をすくめた。
窓は同じように高いのに、差し込む光の色が違う。
温室の光が柔らかい金色だったのに対して、この廊下の光はどこか白くて硬い。
壁に落ちる影も輪郭がくっきりとしていて、見えないものまで切り分けてしまいそうだった。
しばらく進んだところで、並ぶ扉の前に来てウィリアムが足を止めた。
どれも似た造りの扉だが、ここだけ金属の小さなプレートが新しく、表面がまだ傷ひとつない。
「こちらです。今日からアメリア様が使う研究室になります」
その言葉に、アメリアの胸がきゅっと鳴った。
「……私が、ここを……?」
「はい。私の研究室の隣です。困ったことがあれば、遠慮なく呼んでください。鍵もお渡しします」
ウィリアムはそう言いながら、扉の横のプレートに視線を向ける。
アメリアも釣られるように近づいた。
大学の紋章の下に、細い文字が刻まれている。
読み慣れたはずの文字なのに、そこに並んでいるのが不思議で、息が一瞬だけ止まった。
『アメリア・ハグル』
自分の名前だった。
嬉しい。けれど、同じくらい落ち着かない。
ここは逃げ込む部屋ではなく成果を出す場所なのだと、プレートの文字が静かに言っている気がした。
アメリアは指先をそっと浮かせ、触れそうになってやめる。
汚したくない、というより大事にしたくて、慎重になった。
「では、開けますね」
彼は鍵束から一本を選び、錠に差し込んだ。
金属がかすかに鳴り、カチリと小さな音がして扉がゆっくりと動き出す。
「ひとまず、中をご覧ください。設備は整えていますので」
ウィリアムが言うと扉が開く。金具が擦れる音が、廊下に小さく響いた。
アメリアが一歩足を踏み入れるなり、思わず声を漏らした。
「わ……」
研究室は、思っていたよりもずっと広かった。
壁沿いに並ぶ書架。
背表紙の色が規則正しく揃えられ、分類札が丁寧に付けられている。
中央に据えられた大きな作業台は、天板が滑らかで光を受けるとわずかに艶を返した。
整然と配置された実験器具と、用途ごとに分けられた棚。
ガラス器具は一つ一つ布で拭かれた跡があり、薬匙やピンセットもきちんと揃っている。
窓からは自然光が入り、机の上を明るく照らしている。
空気は澄んでいて、薬品の匂いも強すぎない。
ほんのり乾いた紙と、かすかなアルコールの匂いが混じるだけだ。
「すごい……」
思わずアメリアは声を漏らした。
研究に集中するために整えられた空間。
余計なものがなく、それでいて必要なものがすぐ手に取れる。
へルンベルク邸で研究していた頃は、資料や器具は逐一取り寄せる必要があった。
「ここで……研究ができるんですね……」
声が、少し震えた。
嬉しさと、現実味が混ざった震えだ。
「ええ。資料も、基本的な器具も一通り揃えています。必要なものがあれば、随時申請してください」
ウィリアムの言葉を聞きながら、アメリアは棚を覗き込む。
試薬瓶のラベルの文字がきっちり揃っている。
秤の針は、止まったまままっすぐだ。
乾燥棚には、標本が静かに眠っている。
見覚えのある試薬、初めて見る調整器具。
へルンベルク邸では手に入らなかった種類のフラスコ。
その中で、ひとつの装置にアメリアの視線が止まった。
金属枠に囲まれた円筒状の器具。
中には透明な溶媒槽があり、側面に細かな目盛りと調整弁が付いている。
「……あの、これは何でしょうか?」
思わず尋ねると、ウィリアムが一歩近づいて説明する。
「溶媒を一定の温度に保つための装置です。抽出中に温度がぶれないよう、内部で自動調整する仕組みになっています。つい最近、発表されたばかりの最新器具ですよ」
「えっ……そんなものが……!」
アメリアの声が、少しだけ裏返った。
温度管理の難しさは、これまで何度も身をもって味わってきた。
少しの差で成分が変質し、結果が台無しになることも珍しくない。
「これがあれば……」
言葉の途中で、もう頭の中では手順が組み上がり始めていた。
抽出温度を一定に保ち、時間ごとの変化を正確に測り比較する。
今まで感覚に頼っていた部分を、きちんと数値で押さえられる。
胸の奥が、また小さく弾む。
「本当にすごい……」
呟きは、自然と零れた。
ここには、研究に集中するためのものしかない。
誰かの顔色を窺う必要も、遠慮して手を止める理由もない。
失敗しても、やり直せる。
思いついた仮説を、すぐ形にできる。
思わず、アメリアは身震いしてしまった。
「そういえば……」
ウィリアムが、ふと思い出したように言った。
「こちらに、顕微鏡も用意しているはずなのですが」
「顕微鏡……ですか?」
「はい。そちらも最新式なんですが……」
言いかけて、ウィリアムは言葉を切った。
「……あれ?」
探す動きが少しだけ早くなる。
焦っているというより、信じられないものを見るような速さだ。
「おかしいですね。どこにもない……」
布が掛けられているはずの場所が空で、輪郭だけが残っているように見えた。
あったものが抜けた空白は、妙に目立つ。
「……申し訳ありません。確かに、昨日まではあったのですが……」
困惑が声ににじむ。
単なる物の紛失に対するものではない。
ここまで整っている研究室で、最も目立つ機材が忽然と消えている状況自体が「異常」だからだ。
「い、いえ……大丈夫です!」
アメリアは慌てて首を振った。
ウィリアムの顔に、責任の色が濃くなるのが嫌だった。
「急ぎませんし……後で見つかるかもしれませんから」
実際、今すぐ必要というわけではない。
ウィリアムは一度、短く息を吐いた。
眼鏡の位置を直しながら、声の調子を整える。
「後ほど、必ず確認します。ご不便をおかけして申し訳ありません」
ウィリアムが申し訳なさそうに言った、その瞬間だった。
――見られている。
理由はない。
ただ、はっきりとそう感じた。
研究室の空気が、一段だけ重くなる。
アメリアが反射的に視線を上げるより早く。
「誰だ!?」
鋭い声が室内に響いた。
部屋の隅で控えていたリオが、一歩前に出ている。
腰に手をかけ扉の方を睨み据えるその姿勢は、完全に護衛のそれだった。
「リオ……?」
アメリアが声をかけるのと同時に、ウィリアムも振り向く。
先ほどまで閉じていたはずのドアの脇に黒っぽい輪郭。
こちらを覗き込むように、ほんの一瞬だけ姿を見せて。
次の瞬間、すっと引くように消えた。
「待て!」
リオが即座に動いた。
扉の外へ踏み出し、廊下を見渡す。
しかしそこに人影はない。
気配も、もう残っていなかった。
戻ってきたリオの表情は険しい。
「……誰もいません。すみません、気のせいだったかもしれないです」
釈然としない表情をするリオ。
一方でアメリアの心臓はどくどくと音を立てていた。
(気のせい……? ううん、確かに誰か覗いていたわ……)
実家では毎日悪意に晒されていたからか、自身に対する悪感情に敏感な勘が、気のせいではないと告げている。
アメリアは、胸元の徽章にそっと指を添えた。
冷たい金属の感触が、状況の現実味を押し戻してくる。
大学の中、研究室。
それも今日初めて使われるはずだった、自分の部屋の顕微鏡が消えたり、誰かが監視しているような気配もする。
その状況に、妙な気味の悪さを感じるアメリアであった。