作品タイトル不明
第196話 お披露目
アメリアを見送った後、ローガンは王都の中央留置所にやってきた。
地下は音が少ない。
石が湿気を抱え、呼吸の熱を吸っていくせいで声も足音もやけに平たくなる。
ローガンはその平たい空気を踏み割るように歩き、鉄の扉の前で止まった。
番兵が一礼し、鍵束を鳴らす。
金属の擦れる音が短く響き扉が開くと、さらに冷たい空気が押し返してきた。
薄暗い独房の中に、男が一人。
椅子に座っているわけではない。
背を壁に預け床に足を伸ばし、腕を組んだまま眠っているのかと思うほど動かない。
だが、ローガンの足音が止まった瞬間、男の瞳だけが開いた。
クロード・ヘルンベルク。
ローガンの実兄である。
「……来たのか」
ローガンは扉の内側に一歩だけ入った。
番兵は外で待つ。
閉じた扉の向こうで、鍵が掛かる音がした。
「身体はどうです、兄上」
ローガンが先に聞くと、クロードは鼻で笑った。
笑うというより、息を吐いた。
「俺を気遣うために来たなら帰れ。そんな趣味はないだろう」
「趣味ではございません」
ローガンの声は低い。
低いが、感情は乗っていない。
クロードはその淡さを嫌うように、視線を鋭くした。
「それで? 中央の取り調べの結果を見に来たのか。俺が更迭されるか、鎖を外されるか、賭けでもしたか?」
他愛のない挑発にはローガンは反応しなかった。
反応しないこと自体が、クロードには癪だと分かっている顔をしていた。
「兄上の処遇は決まりました」
その一言に、クロードの眉がわずかに動く。
興味が湧いた、というより――計算を始める癖が反射で出たような動き。
「戦場へ戻る許可が下りました」
クロードの口角がわずかに上がった。
勝ち誇りではない。
あまりに当然だと言いたげな歪みだ。
「……だろうな」
あっさり言って、クロードは壁に頭を預け直す。
「ラスハルは泥沼だ。俺がいないとさらに沈む。上の連中はそれを分かってる。紅死病の薬をちょっとばかし裏で仕入れていたくらいで、俺を不用意には罰せられない」
言い切る口調が、戦地の乾いた風と同じ温度を持っている。
ローガンは頷かなかった。否定もしない。
ただ、牢の壁に残る湿り気を目でなぞるように見てから、静かに本題へ寄せた。
「それで? ただ俺に処遇だけ伝えにきたわけではなかろう?」
「紅死病の話を伺いに参りました」
クロードの視線が、初めてはっきりローガンに刺さった。
「今さらか」
「今さらではございません」
ローガンの声が、ほんの僅かに硬くなる。
クロードはその硬さを嗅ぎ取って、口を噤んだ。
沈黙が、地下の湿気に吸われていく。
「アメリアが発明した紅死病の新薬、正式に学会の認可が下りたので、ラスハル自治区にも順次、送り出されるはずです」
「喜ばしいことだな」
淡々とした言い方なのに、喉の奥に砂が詰まっている。
ローガンは一歩近づくでもなく、ただ言葉を置く。
「紅死病は、自然由来だと言われておりますが……それは本当だと兄上はお考えですか?」
クロードの表情が、ほんの一瞬だけ止まる、。
それが答えになりかけて、クロードは舌打ちの代わりに息を吐いた。
「……自然だ、と信じるなら、それでいい」
逃げだ。
ローガンは、その逃げを追わない。
追わずに、少しだけ角度を変える。
「紅死病──ラスハルでのみ流行し、ラスハルにのみ原料が自生する。出来すぎております」
クロードの視線が、今度は逸れた。
逸れ方が、否定ではなく、触れてほしくない場所に触れられた逸れ方だ。
「戦場には、偶然が多い」
「偶然で片づけるには、不自然な点が多すぎます」
ローガンの声は低く、感情の温度を極力削ぎ落としたものだった。
怒りも焦りも滲ませず、事実だけを選び取るための判断に特化した声音。
クロードはすぐには答えなかった。
その沈黙は言葉に詰まったものではなく、ここで何を口にすればどのような影響が出るのかを、慎重に測るための間だった。
やがて、壁に預けていた頭をわずかに起こし、視線だけをローガンに向ける。
「……俺がラスハルで不審に思ったのは、紅死病そのものよりも、その広がり方だ」
声は低いままだが、先ほどまでの軽い調子は消え、戦場で状況を報告する時のような真剣さに変わっている。
「紅死病は、症状自体は一定じゃない。高熱が先に出る者もいれば、皮膚の斑点が急に広がる者もいるし、致死までの速度もばらばらだ。そこまでは、普通の感染症として理解できる」
ローガンは口を挟まなかった。
反論も補足も不要だと判断し、ただ続きを待つ。
「だが……発病する場所が、どうにも不自然だった」
「不自然、とは」
「水場の近く、補給路の脇、集落の外縁。人が必ず通るが、長く滞在しない場所ばかりだ。しかも、風向きが変わった翌日になると、決まってその線上で患者がまとまって出る。偶然では説明がつかない」
それは、ただ人が集まりやすい場所というだけではない。
ローガンの思考は即座に地図を描き、補給線と風向き、発症地点を重ね合わせていく。
クロードは続けた。
「普通の感染症なら、もっと無秩序に広がる。兵の不注意や衛生の崩れ、密集や疲労。そういう人間側の都
合で増えていくはずだ」
一拍、言葉を切る。
「だが、紅死病は違った。あらかじめ人の動線と環境を読んだうえで、最も効率よく感染が広がる地点を選び、そこから広がっているように見えた」
ここで、クロードはさらに声を落とした。
看守の位置を視線の端で確認し、ほとんど息に近い音量で言葉を続ける。
「……意図的にやられている。俺には、そう感じられた」
湿った牢の空気が、わずかに張りつめる。
ローガンは、即座に言葉を選んだ。
断定ではなく、可能性として、クロードと同じ声量で。
「――軍事目的の病原体、という線ですか」
クロードは即答せず、短く息を吐く。
「確証はない。だが、自然発生だと言い切るには……あまりにも都合がよすぎる」
ローガンはその言葉を反芻しながら、即座に次の事実を並べる。
「ラスハル自治区の戦争は、表向きには宗教対立――シルベルト派とマナス派の長年の衝突とされています」
声は淡々としているが、その先を見据えている。
「しかし実態は、鉱山資源と薬草利権を巡る争いであり、その背後で対立を煽り、戦線を維持しているのがゼルヴァ帝国です」
クロードは否定しない。
「トルーア王国は、友好国としてシルベルト派を支援していますが……実際には資源確保と、ゼルヴァへの軍事的プレゼンスを示すためです。人道支援という名目と、本音の乖離は、戦場では珍しくありません」
名目と実利、その間で命が消費される。
それが戦争だ。
性格は違えど兄弟というべきか、息の合った言葉を今度はクロードが口にする。
「その状況で紅死病が流行し、特効薬の原料であるザザユリは、なぜかラスハルにしか存在しない植物に限られる。しかも、その自生地は帝国側が実効支配している地域だ」
ローガンは眉を顰める。
「……出来すぎています」
ローガンの思考が一段深く潜る。
病の流行、資源の独占、薬の供給。 偶然が重なったのではなく、重なるように並べられている。
「ザザユリの出どころについては、いかがでしょう?」
紅死病の旧薬に使われていた、ラスハルでしか自生しない植物。
その起源を辿れば、何かわかるかもしれないという意図の質問だった。
問いの意図を察したクロードは一瞬だけ視線を伏せ、言葉の代わりに小さく首を振った。
「……調べようとした」
「結果は」
クロードは答えず、無言のままわずかに頭を下げる。
それだけで十分だった。
「記録は途中で途切れていた。担当していた人物は急死していたらしい」
ローガンの視線が、静かに鋭くなる。
「誰かが封じたと?」
短い沈黙の後、再び囁くようにクロードは言った。
「お前が想定している個人や派閥じゃない。もっと上だ。俺も全体像は知らないし、知ろうとした連中は……消えている」
瞬間、ローガンの背筋に冷たいものが走った。
紅死病の実演会の際、アメリアの身に危険が迫った理由。
それが単に、リード個人の思惑ではないものとしたら?
「……兄上は、戦地へ戻ってください」
ローガンの言葉に、クロードは訝しげな表情をする。
「あなたには利用価値がある。兄上が前線にいれば、連中に目はつけられないはずです」
「俺の心配か?」
「当たり前じゃないですか」
いつにも増して強い語気のローガンに、クロードは目を見開く。
「……戦果を出し続けて、見限られないようにしないとな」
そう言うクロードの表情は、ほんの少しだけ気恥ずかしさが混じっているように見えた。
「調査は、お前が?」
クロードは尋ねると、ローガンが頷く。
理由は明白だ。
公爵家の跡取りとしての立場なら、黒幕もそう手出しはしてこれない。
そして何より、紅死病の裏にあるものが、どれほど危険な代物であれ、それがアメリアの研究や身辺に近づく可能性があるのなら。
(俺が……なんとかする)
そう、強い決意を胸に灯した。
彼女は、ただ病に苦しんでいる人たちを救おうとしているだけだ。
その純粋な研究が、誰かの利権や殺意に踏み荒らされるなど、決して許せない。
ローガンは踵を返す。
「……ローガン」
背後から、クロードの声。
「紅死病が人為的なものなら、薬は救うためだけじゃなく、支配するためにも使われる」
ローガンは扉の前で立ち止まり、短く答えた。
「だからこそ、いいようにはさせません」
扉が閉まり、鍵が回る。
地下の音が、再び遠のいた。
ローガンは階段を上る。
暗がりの先に、淡い地上の光が見えてくる。
──アメリア。
胸の奥で、愛する婚約者の名前を静かに守りながら。
◇◇◇
学長室を出た瞬間、廊下の空気がはっきりと変わった。
先ほどまでの静けさは薄れ、足音や話し声が戻ってくる。
窓から差し込む光も強く、廊下が少し明るく見えた。
それと同時に、周囲の視線が増えたことに気づく。
すれ違う学生や研究員の目が、ほんの一瞬こちらに向いて、すぐに逸らされる。
声は聞こえない。
けれど、何かを測るような気配だけが残った。
――新しく来た研究員か?
――ほら、例の実演会の。
そんな言葉が、はっきりしない形のまま、空気に混じっている気がした。
歓迎されているのか、警戒されているのか。
あるいは、ただの好奇心なのか。
その区別はつかない。
つかないからこそ、少し落ち着かない。
アメリアは胸元に留めた徽章に、そっと指を添えた。
金属の冷たさが、布越しに指先へ伝わる。
ひんやりとしていて、重さもある。
けれど、不思議と嫌な感触ではなかった。
自分は、もう客ではない。
その事実を、徽章が静かに教えてくれる。
ここで学び、ここで働く立場になったのだと、言葉にしなくても分かる。
視線を向けられるのは、まだ慣れない。
けれど、逃げ場がないわけでも、足場が不安定なわけでもなかった。
「アメリア様、行きましょう。次は同僚たちへの挨拶です」
「は、はいっ」
アメリアは背筋を伸ばし、ウィリアムの後について歩き出す。
その少し後ろを離れてリオもついてきてくれている。
廊下の石床は硬く、足取りは確かだ。
(今日から私は、カイド大学の研究員……)
そう思うと、胸の奥に小さな緊張と一緒に確かな手応えが残っていた。
◇◇◇
案内されたのは、本館の中央にある小さなホールだった。
講義室ほど広くはなく、天井も低めで人の声が壁に当たってから返ってくる。
壁際には、古い研究成果をまとめた羊皮紙が額に収められて並んでいる。
文字はところどころ薄れているが、書かれている内容はそのまま残っているらしく、説明文の横には年代と研究者の名がきちんと記されていた。
飾り立てた印象はないが、ここで積み重ねてきた年月の長さだけは、隠そうともしていない。
そんな小ホールに、アメリアはウィリアムと共に来ていた。
(し……視線の圧が……)
集まった研究者たちを前に、アメリアは後退りそうになった。
白衣を着たままの者もいれば、上着を羽織っただけの者もいる。
椅子に腰掛けて資料を読んでいる者、隣同士で小声で言葉を交わしている者。
年配の研究者が多く、どの動きも落ち着いていた。
白くなった髪、年季の入った指先、爪の縁に残る薬品の色。
長くこの場所にいることが、見ただけで分かる人たちだった。
若い顔もいないわけではないが、数は少なく、中心にいるのは明らかに上の世代だ。
だからこそ、アメリアは気づいてしまう。
(ウィリアムさん、この中ではかなり若い……)
その事実が、彼がいかに優秀な研究者であるかを示唆しているようだった。
「さて、と……」
小さく呟き、ウィリアムが一歩前に出ただけで、何人かの視線がそちらに向く。
歓迎というより、確かめるための視線だった。
アメリアは、自分の方が僅かに落ちていることに気づき、意識して元に戻した。
縮こまったままでは、余計に目立つ。
──堂々と胸を張れ。
と、心の中のローガンが勇気づけてくれたような気がした。
「皆さん、本日はお時間をいただきありがとうございます」
ウィリアムが声を張る。
無理に大きくしすぎない、けれど埋もれないように選んだ声だった。
研究者の中には、あからさまに興味を失った顔もあった。
若い研究員が仕切ること自体を、快く思わない者がいるのも明らかだ。
それでも、ウィリアムは言葉を止めない。
「本日は、新たに研究員として加わる方をご紹介します」
一瞬の沈黙。
誰も口を挟まないが、場の空気は静かに張りつめている。
「アメリア・ハグル様です」
名前が告げられた途端、低いざわめきが広がった。
声は小さいが、抑える気はないらしい。
「実演会で紅死病の新薬を調合した……」
「研究者として抜擢されたのか」
囁きは、はっきりと耳に届く位置で落とされた。
アメリアは喉の奥で小さく息を飲み込んだ。
ウィリアムは一拍置き、続ける。
「アメリア様には、婚約者であるローガン・ヘルンベルク様の屋敷にて私が指導をし、共に研究に取り組んできました」
今度は、ざわめきが隠されなくなった。
視線が、はっきりとアメリアへ向けられる。
椅子の脚が少し鳴る音や、資料を持ち替える音が重なった程度でも、動揺が生じたのがわかる。
先ほどまでは「新しい人が来た」という距離感だったものが、今は別の色を帯びている。
誰かが小さく呟く。
「貴族令嬢、か……」
それは、ある種侮蔑の色を滲ませて、アメリアの耳に届いた。
この場にいる研究者は全員が全員、先日の実演会に出席していたわけではない。
そんな彼らからすると、学問の世界とは何の縁もない貴族の小娘がなぜ、という気持ちなのだろう。
ウィリアムは間を置かずに続けた。
「紅死病の新薬研究においては、アメリア様自身、独力で切り開いたと言っても過言ではありません。先日の実演会で用いられた処方も、アメリア様の判断と応用がなければ成立しませんでした」
ウィリアムのその言葉に、今日一番のどよめきが走る。
「紅死病の新薬の話は本当だったのか」
「うちの娘よりも若いではないか」
「いや、実演会を見ていたが、確かに彼女は紅死病の新薬を調合していた」
驚き、猜疑、興奮。
さまざまな感情が渦巻く。
アメリアは喉の奥で息を整えた。
胸のあたりがひんやりする。
成果があっても、立場や属性も重要視される。
そういう場所なのだと、改めて思い知らされる。
「アメリア様、一言自己紹介を」
「は、はい」
ウィリアムに促されるように、一歩前へ出る。
どよめきが鎮まり、アメリアに視線が集中する。
「はじめまして」
声を出した瞬間、口の中が乾いているのが分かった。
「アメリア・ハギュル――」
噛んだ。
自分でも分かるほど、はっきりと。
(〜〜〜〜!?)
一瞬、空気が止まる。
小さく息を吸う音。
誰かが視線を逸らす気配。
「……おいおい、大丈夫か?」
誰かの冷やかすような声に頬が熱くなる。
視線を落としたくなるがなんとか踏み止まった。
「すみません、噛んでしまって、そのっ……」
その時、すかさずウィリアムがフォローに入った。
「立場だけを見れば、アメリア様は貴族令嬢で、大学外の人間です」
ウィリアムは毅然とした態度で言葉を続ける。
「ですが、先日の実演会をご覧になった方なら分かるはずです。植物学と薬学に関して、彼女はすでに結果を出しています。紅死病の件は、その一例に過ぎません」
声に力がこもるが、叫ばず、あくまでも事実を淡々と述べて場を制している。
「年齢や立場ではなく、成果で判断してください。指導役としての責任は、私が負います」
短い沈黙の後、アメリアは気を取り直して口を開く。
「改めまして」
今度は、噛まないように。
「先程は大変失礼しましました。アメリア・ハグルと申します。私はまだ未熟で、学ぶことばかりです。ただ、この場に立たせていただいた以上、与えられた仕事には、結果でお応えしたいと思っています」
ゆっくり、視線を巡らせる。
逃げることもなく、飾ることもなく。
自分の言葉を口にする。
「どうかご指導のほど、よろしくお願いいたします」
言い終えて、ゆっくりと頭を下げる。
すると、ぽつり、と拍手が一つ鳴る。
若い研究員だった。
続いて、一つ、もう一つとまばらな拍手が小ホールに響く。
だが、それ以上は広がらない。
受け入れる者、静観する者。
腕を組んだまま、表情を変えない者。
(受け入れてもらうには、時間がかかりそうね……)
深く息を吸って、胸元の徽章に触れる。
冷たい感触が、意識を現実に引き戻した。
ここが、始まりだ。
簡単な場所ではない。
でも自分の選んだ道に、後悔はないと改めて思うアメリアだった。
◇◇◇
アメリアのお披露目が終わり、研究員たちがそれぞれ席を立ち始めると、小ホールの空気は少しずつ動き出した。
椅子が引かれる音、紙束をまとめる音、低く交わされる挨拶。
張りつめていた静けさが、日常の音に押し戻されていく。
それでも、完全に解けたわけではない。
すれ違いざまに向けられる視線が、まだ背中に残っている気がした。
「大丈夫ですか、アメリア様」
アメリアの後ろで控えていたリオが気遣って話しかけてくる。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう、リオ」
気丈に笑顔を作りつつも、アメリアは思う。
(すぐに溶け込める、なんて思う方が甘いわよね……)
アメリアは、そう自分に言い聞かせる。
けれど、挫けてはいなかった。
どんな環境も、最初は受け入れられないのが常。
少しずつ自分の成果で認められていこうとアメリアは思った。
「アメリア様、少し休憩なされますか?」
ウィリアムがアメリアに尋ねる。
声には、先ほどまでの張りつめた感じがわずかに残っていた。
「いえ、大丈夫です! 初日ですし、出来ることは済ませてしまいましょう」
「わかりました。では、次に学内をご案内しましょう」
再びウィリアムで先導でホールを退室する。
廊下は広く、石床が足音をはっきり返す。
高い窓から差し込む光が、壁に細長い影を落としている。
午前の光はまだ柔らかく、白い石壁をほんのり温めていた。
学生や研究員とすれ違うたび、視線が交わる。
深く頭を下げる者、軽く会釈する者、気づかないふりをして通り過ぎる者。
その反応はまちまちだが、どれも一瞬、こちらを測るような間があった。
(研究者として来た令嬢……そう簡単には受け入れられないわよね)
紅死病の新薬を発明したとはいえ、流通はまだしたばかりで効果の実感は少し先だ。
そもそもアメリアが新薬を発明したこと自体を懐疑的に見ているものも多いだろう。
ここでは、成果を出すことでしか距離は縮まらない。
その現実が、むしろはっきりしていて気持ちは落ち着いていた。
最初に案内されたのは、資料庫だった。
重い扉が開くと、外とはまったく違う空気が流れ込んでくる。
ひんやりとしていて、紙と革の匂いが混ざっていた。
「わああああっ……」
思わず、足が止まってアメリアは声を漏らした。
天井近くまで続く書架。
何十、下手をすると何百も並ぶ棚。
そこに隙間なく収められた書物。
革装丁の本、布張りの本、背表紙が擦り切れて題名も判然としない本。
どれも同じように並んでいるのに、ひとつひとつが違う歴史を持っているのがわかる。
「……これ、全部大学の……?」
声が自然と小さくなる。
驚きというより、圧倒されたときの声だった。
「ええ。薬草学、調薬学、それに関連分野も含めると、まだ一部ですが」
ウィリアムが弾んだ声で答える。
彼にとっては、見慣れた光景なのだろう。
アメリアは、思わず唾を飲み込んだ。
(すごい……死ぬまでに全部読み切れるかしら……)
へルンベルク邸の書庫も充実していた。
だが、さすがは大学といったところか、私邸の書庫とは比べ物にならないほど膨大だった。
そっと、背表紙に指を触れる。
革のざらりとした感触が、指先に伝わってきた。
「ここで好きなだけ、本を読んで、いくらでも調べてもいいんですね」
夢を見ているのではないかと、自分で確かめたかった。
「ええ。必要なら、いくらでも」
これから摂取できる無数の知識に思いを馳せると、胸の奥が、じん、と熱くなった。
次に案内されたのは、講堂や学生食堂だった。
資料庫とは打って変わって、人の気配が濃い。
講堂には段々に座席が並び、前に立てば全員の視線を受け止めることになると、一目で分かる。
「こんなにたくさんの人がいるんですね」
思わず漏れた言葉に、ウィリアムが頷いた。
「時間帯によりますが、基本、学生が授業を受けていますね」
学生たちの前で堂々と教鞭を取る教授を見て、アメリアは脳裏にある可能性が浮かぶ。
「あの……もしかして私もそのうち、あそこに立ったりは……?」
恐る恐る尋ねるアメリアに、ウィリアムはニッコーと笑って答える。
「今のところは考えてはいませんが……研究者の仕事の一つには、次世代にその知識を継承する、つまり教えるというものがあります」
一息吸ってからウィリアムは続ける。
「アメリア様も、いずれはその膨大な知見を広める日が、くるかもしれませんね」
「ひいっ……」
こんなに多くの生徒たちに何かを教えてる自分の姿を想像して、アメリアは思わず背筋が凍る思いだった。
次に案内されたのは、大学の食堂だった。
大きな扉をくぐると、香ばしい匂いがふわりと漂ってきて、先ほどまでの石と紙の匂いをすっかり押し流した。
広い室内には長い木のテーブルと長椅子がいくつも並び、昼時ということもあって、すでに半分ほどは人で埋まっている。
学生たちが肩を並べて腰掛け、盆を抱えて行き交う。
中には研究者と思しき者も昼食を取っていた。
笑い声、食器の触れ合う音、呼び止める声。
研究棟の張りつめた空気とはまるで別世界で、どこかほっとする雑多さがあった。
「とってもにぎやかですね」
アメリアがそう言うと、ウィリアムは少し肩の力を抜いたように笑う。
料理が並ぶカウンターの前には、黒板に書かれた本日の献立が掲げられていた。
焼き物、簡単な麺類、煮込み料理……。
くうぅ〜〜。
アメリアのお腹が可愛らしく音を立てた。
「ご、ごめんなさい、私ったら……」
かあっと頬を赤くするアメリアに、ウィリアムがくすりと笑う。
「せっかくですし、お昼にしましょうか」
ウィリアムの提案に、アメリアは目を輝かせた。
「いいんですか?」
「初日ですし、無理は禁物です」
そう言って、列に並ぶ。
しばらく悩んだ末、アメリアは煮込みハンバーグを選んだ。
濃い色のソースがたっぷりかかり、付け合わせの野菜も柔らかそうだ。
その様子を横で見ていたリオに、アメリアは声をかける。
「リオも、せっかくだから一緒に食べましょう」
「いえ、自分は……」
一歩引こうとするリオに、アメリアは少しだけ眉を下げて微笑む。
「一人で食べるより、みんなで食べた方が美味しいもの。ね?」
一瞬、言葉に詰まったあと、リオは小さく息を吐いた。
「……では、ご一緒させていただきます」
リオが選んだのは、チキン焼き定食だった。
香草の香りが立ち、見るからにしっかりした量だ。
「肉は体を作りますので」
真面目な顔でそう言われ、アメリアはくすっと笑う。
「リオらしい選択ね」
一方、ウィリアムは迷いもせず、なんもパスタを受け取っていた。
「なんですか、それ」
「素パスタです」
「素パスタ……」
「パスタにレモンを塩をかけます、以上です」
「それだけ!?」
アメリアが思わず尋ねると、ウィリアムは肩をすくめる。
「選ぶのが面倒でして、いつもこれです」
「ウィリアムさんらしいと言いますか……」
「よく言われます」
三人分の盆を持って空いている席に腰掛ける。
長椅子に並んで座ると、自然と距離が近くなった。
ハンバーグにナイフを入れると、柔らかく崩れ湯気が立つ。
一口運んだ瞬間、アメリアの表情がほどけた。
「美味しい……」
濃すぎない味付けで、じんわりと体に染みてくる。
付け合わせのパンと食べると、満足感が倍増する。
午前中の緊張が、少しずつ溶けていくのがわかった。
ウィリアムは黙々とパスタを口に運び、リオは姿勢を崩さず丁寧に食べている。
それぞれ違うが、不思議と落ち着く光景だった。
(やっぱり、誰かと一緒に食べると美味しいな……)
研究者としての立場は、今はひとまず脇に置いていい。
ただ、同じ場所で、同じ食事をしている。
それだけのことが、思った以上に心を軽くしてくれた。
張り詰めた空間の中に、こうして息をつける場所もちゃんとあるのだと、アメリアはもう一口ハンバーグを頬張りながら静かに安堵する。
その時ふと、いつものへルンベルク家での食卓が脳裏に浮かぶ。
窓から差し込む光、静かな食器の音、隣に座るローガンの落ち着いた横顔。
多くを語らなくても、同じ時間を共有しているだけで満たされる、あの感覚。
今ここにある賑わいとは違う、穏やかで確かな安心。
それを思い出した途端、胸の奥に小さな空白ができたような気がした。
寂しさというほど強くはない。
けれど、確かに心細さが混じる。
「アメリア様、どうされました?」
リオの声に、はっと我に返る。
「……ううん、なんでもないわ」
そう答えて微笑むと、胸の奥のざわめきは、また少しだけ静かになった。
(――大丈夫)
夜になれば会える。
また一緒に食卓を囲める。
そう言い聞かせるように、アメリアはスプーンを持ち直した。